作品タイトル不明
第217話 西の森の悲鳴
領都工房へ行った翌日。
俺は西の森側作業場へ向かった。
同行するのは、ノル、ミア、文官のレナードだ。
昨日、領都工房で読み書きや計算の確認を始めた。
そこで分かったのは、確認の内容は現場ごとに変えなければならないということだった。
工房では、箱札や帳面が重要になる。
だが、西の森では少し違う。
もちろん、木材の本数や荷車の数を確認するために、数字は必要だ。
作業記録を残すなら、文字も必要になる。
けれど、西の森で最初に見るべきものは、もっと直接的なものだった。
危険区域の札。
退避場所の札。
作業範囲の札。
荷車道。
水場。
湯屋への道。
どこへ行ってよくて、どこから先へ行ってはいけないのか。
それが分からなければ、仕事が遅れるどころではない。
命に関わる。
工房では、読めないことで作業が止まる。
西の森では、読めないことで逃げ遅れる。
俺はその違いを、はっきり意識しながら馬車に揺られていた。
◇
西の森側作業場に着くと、以前より人の動きは整理されていた。
前に来た時、作業場と湯屋へ向かう道、荷車の通り道が少し混ざっていた。
今は縄が張り直され、歩く道と荷車道が分けられている。
西側の仮設柵も、以前より分かりやすくなっていた。
ただし、まだ完全とは言えない。
新しく来た者が見れば、どの札が何を意味するのか分からないかもしれない。
現場責任者が俺たちを迎えた。
「リオン様、ノル様。本日は、作業員の確認でよろしいのですね」
「うん。ただ、工房と同じことをするつもりはない」
俺がそう言うと、現場責任者は少し不思議そうな顔をした。
「同じことではない、ですか」
「工房では、箱札や帳面を見た。でも西の森でまず確認したいのは、安全のための札だ」
俺は近くに立てられている木札を指差した。
《作業範囲》
《荷車道》
《水場》
《退避場所》
文字は書かれている。
だが、読めない者にとっては、ただの木に刻まれた模様に近い。
「危険区域の札を読めるか。退避場所の札を見て動けるか。荷車道と歩く道を間違えないか。まずはそこから見たい」
ノルも低く頷いた。
「森では、札一つ読めないことが命に関わります」
レナードはすぐに木板を取り出し、書き留め始めた。
「西の森用の確認項目は、工房とは別に作る必要がありますね」
「うん。名前や数字も見るけど、最初は安全札と退避場所だ」
ミアは湯屋のある方へ視線を向ける。
「水場や湯屋へ向かう道も、初めて来た方には分かりにくいかもしれません」
「そこも見よう」
俺は現場責任者へ向き直った。
「これも試験じゃない。読めない人を責めるためでもない。
読めないまま森で働くのが危ないから、どこから教えるかを見るための確認だ」
「承知しました」
現場責任者が頷いた、その時だった。
森の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
「うわあああっ!」
続けて、別の声。
「魔物だ!」
「逃げろ!」
現場の空気が、一瞬で凍った。
ノルがすぐに顔を上げる。
「森の奥です」
俺も声のした方を見た。
作業員たちが、何人かこちらへ向かって走ってくる。
その後ろで、木々が不自然に揺れていた。
「ミア、レナードは退避誘導を」
「はい」
「承知しました」
ミアとレナードがすぐに動く。
ノルは護衛たちに声を飛ばした。
「前へ出る! 作業員を下げろ!」
俺もノルの後を追った。
◇
声のした場所へ向かうと、そこには小型の魔物が数体いた。
いや、最初はそう見えた。
獣型の魔物。
爪の長い小型魔物。
中には、少し大きめの個体も混じっている。
だが、何かがおかしい。
動きが鈍い。
なのに、止まらない。
作業員が投げた木片が当たっても、怯まない。
護衛が脚を斬っても、倒れたまま腕を動かし続ける。
普通の魔物なら、痛みに反応する。
傷を負えば、逃げることもある。
だが、目の前の魔物たちは違った。
痛みを感じていない。
恐怖もない。
ただ、作業員の方へ向かってくる。
「普通の魔物ではありませんな」
ノルが低く言った。
「俺もそう思う」
俺は目を細める。
綻びの目を使う。
視界の中で、魔物の姿が揺れるように変わった。
《生命反応:なし》
《痛覚反応:なし》
《恐怖反応:なし》
《駆動核:胸部》
《術式反応:黒い魔石片》
背筋が冷えた。
生きていない。
これは、王都西南の森にいた魔物と同じだ。
死んだ魔物の身体を、何かが無理やり動かしている。
「ノル!」
「はい!」
「胸だ! 胸の中に核がある! 手足を斬っても止まらない!」
ノルの反応は早かった。
「胸部を狙え! 倒すより、核を砕け!」
護衛たちの動きが変わる。
脚を斬って止めようとしていた者たちが、狙いを胸へ変えた。
一体の魔物が、ノルの剣を受ける。
胸部を斬られた瞬間、黒い何かが砕ける音がした。
魔物は糸が切れたように崩れ落ちる。
やはり、核だ。
胸の黒い魔石片を壊せば止まる。
俺は周囲を見る。
魔物の数は、多すぎるほどではない。
だが、作業員たちを逃がしながら戦うには厄介だった。
しかも、こいつらは痛みで止まらない。
怖がって引くこともない。
ただ壊れるまで動く。
◇
背後から、ミアの声が聞こえた。
「退避場所はこちらです! 荷車道には出ないでください!」
レナードも必死に叫んでいる。
「《退避場所》の札の方へ! 水場ではありません、こちらです!」
だが、混乱している作業員の中には、逆方向へ走りかける者もいた。
「そっちは森側だ! 戻れ!」
護衛が怒鳴る。
俺はその光景を見て、奥歯を噛んだ。
まさに、これを確認しに来たのだ。
退避場所の札が読めるか。
荷車道と歩く道を間違えないか。
危険区域へ走り込まないか。
それを見に来た。
なのに、確認する前に本番が来てしまった。
今、読めない者がいることは責められない。
教える前なのだから。
だが、読めないまま森で働く危うさは、目の前で形になっている。
「リオン様!」
レナードが叫んだ。
「退避は進んでいますが、湯屋側へ逃げる者もいます!」
「ミア、湯屋側の人も退避場所へ!」
「はい!」
ミアがすぐに走る。
ノルがもう一体の胸部を砕いた。
崩れた死骸の胸から、黒い破片が転がる。
黒い魔石片。
俺はそれを一瞬だけ見た。
自然なものではない。
こんなものが、魔物の胸に埋まっているはずがない。
◇
目の前の魔物達は、ノルたちの動きで少しずつ押し返されていた。
胸の核を狙えば止められる。
分かってしまえば、対処はできる。
だが、倒し切る前に、森の別方向からまた悲鳴が上がった。
「こっちにも来たぞ!」
「また魔物だ!」
ノルの表情が変わった。
「別方向……?」
俺も森の奥を見る。
西側の仮設柵のさらに向こう。
さっきとは違う方向から、木々が揺れている。
そこから、また獣型の魔物が現れた。
一体ではない。
数体。
さらに奥にも影がある。
第二陣か。
そう呼ぶしかない現れ方だった。
普通の魔物の群れなら、一方向から押し寄せることはある。
何かに追われて逃げてくるなら、なおさらだ。
だが、これは違う。
第一陣が作業場の一角を乱し、こちらが対応している最中に、別方向から第二陣が来た。
まるで、作業場を混乱させるように。
逃げる道を乱すように。
防衛の目を散らすように。
「リオン様、下がってください」
ノルが言った。
「まだだ」
「危険です」
「分かってる。でも、今は離れられない」
俺は第二陣の方へ視線を集中させた。
綻びの目が反応する。
《生命反応:なし》
《痛覚反応:なし》
《恐怖反応:なし》
《駆動核:胸部》
《術式反応:黒い魔石片》
同じだ。
第一陣と同じ。
生きた魔物ではない。
死骸を動かしている。
しかも、複数方向から。
これは偶然じゃない。
◇
「ノル」
「はい」
「第二陣も胸の核を壊して」
「承知しました」
「ただ、全部を追いかけるより、作業場へ入れないことを優先して」
ノルが一瞬だけ俺を見た。
すぐに頷く。
「防衛線を張る! 作業場側へ通すな!」
護衛たちが動く。
第一陣を抑えていた者の一部が、第二陣側へ回る。
だが、全員を回すわけにはいかない。
作業員たちの退避も終わりきっていない。
湯屋側にも人がいる。
荷車もまだ残っている。
混乱の中で、森側からまた低いうなり声が聞こえた。
俺は嫌な汗を感じた。
第一陣だけなら、偶然と言えたかもしれない。
死んだ魔物が何らかの異常で動いた。
そう無理に考えることもできた。
だが、第二陣まで来た。
しかも、同じ黒い魔石片を胸に埋め込まれている。
痛みを知らず、恐怖を知らず、壊れるまで動き続ける死骸。
こんなものが、自然に森から湧くはずがない。
誰かが仕込んだ。
西の森を荒らすために。
ハル領の開拓を乱すために。
俺は森の奥を見た。
木々の向こうは暗い。
その暗がりの奥から、まだ何かがこちらを見ているような気がした。
学び場を広げるために来たはずの視察は、いつの間にか、ハル領を狙う悪意の痕跡を見つける場に変わっていた。
まだ終わっていない。
そんな嫌な予感が、背中に張りついて離れなかった。