作品タイトル不明
第215話 働く人の学び場
帳面が示したものは、思っていた以上に重かった。
石切り場。
西の森。
領都工房。
三つの現場は、確かに動いている。
だが、その動きはハル領の者だけで支えられているわけではない。
グレイヴ領から来た出稼ぎの者たちが、補助工程のかなりを担っている。
ありがたいが、頼りきってはいけない。
そのためには、ハル領の中にも次の働き手を育てなければならない。
では、どう育てるのか。
その答えの一つは、すでに小さく始まっていた。
働く人向けの学び場だ。
◇
夕方前。
俺は領都の集会所へ向かった。
同行するのは、ノルとミア。
そして、屋敷の文官であるレナードだった。
レナードは、父上の執務を支える文官の一人だ。
年は三十前後。
帳面仕事に慣れていて、村ごとの戸数や納税世帯、労役の記録にも詳しい。
今回、俺が確認したいのは、税のための帳面ではない。
人を育てるために、どんな記録が必要か。
そのためには、現場を見たうえで、文官の目も必要だった。
母上は今日も父上の部屋にいる。
父上の看病で、ほとんどつきっきりだ。
本当なら母上にも見てもらいたい場所だったが、今は無理をさせられない。
だから、まず俺たちで見て、必要なことだけ後で母上に伝えるつもりだった。
「リオン様、今日は学び場をご覧になるのですね」
ミアが隣で言った。
「うん。一年前に考えていたことが、今どうなってるのか見ておきたい」
一年前、西の森の開拓地に人が集まり始めた頃から、人を育てる場所はいずれ必要になると思っていた。
冬に帰ってきた時には、働く人向けの夜間講習と、子ども向けの学び場の構想として少し形にした。
そして今、その必要性はもう先の話ではなくなっている。
読み書きや計算ができるかどうかで、任せられる仕事が変わる。
木札を読めるか。
数字を読めるか。
帳面に印をつけられるか。
それだけで、現場の動きは変わる。
集会所に近づくと、中から人の声が聞こえてきた。
子どもの声ではない。
大人たちの声だ。
ぎこちなく文字を読む声。
数字を数える声。
そして、ときどき小さな笑い声。
俺は足を止めず、集会所の扉へ向かった。
◇
中に入ると、十数人ほどの大人たちが木の長机に座っていた。
工房の補助作業員。
石切り場から来た者。
西の森で働いている人足。
ハル領の若い見習い。
そして、グレイヴ領から来た出稼ぎの者も混じっている。
机の上には、木板、炭筆、簡単な数字札、作業札が並んでいた。
教えているのは、工房の者だった。
名をヨハンという。
まだ若いが、工房では部品の準備や帳面補助も任されている。
職人としては見習い上がりに近い立場だが、文字と数字に強く、街灯用青輝石や純石の箱札もよく見ている。
だから、実際の作業に必要な読み書きや計算を教えるには向いていた。
立派な学校ではない。
校舎もない。
専門の教師がいるわけでもない。
領都の集会所を、仕事の後に数刻だけ借りている。
それだけの小さな学び場だ。
だが、そこには確かに熱があった。
「リオン様」
ヨハンが慌てて頭を下げた。
「そのままでいい。授業を見せて」
「は、はい」
ヨハンは少し緊張しながらも、すぐに前へ向き直った。
「では、続けます。これは、街灯用青輝石の箱につける札です。ここには数が書かれています。十、二十、三十。では、この札は?」
一人の若い作業員が、少し眉を寄せながら答える。
「……二十、ですか」
「そうです。では、二十の箱が二つあれば?」
「四十」
「はい。では、十の箱が一つ加われば?」
「五十」
答えた作業員は、少しだけ嬉しそうな顔をした。
周りの者たちも、小さく頷いている。
難しい学問ではない。
だが、この数字が読めるかどうかで、箱の数を自分で確認できるかが変わる。
帳面に書かれた数を、自分で確かめられるかが変わる。
賃金や仕送りの数字を、人任せにせず見られるかが変わる。
俺は、その場の空気を静かに見ていた。
◇
別の机では、名前を書く練習をしていた。
炭筆を持つ手が、ぎこちない。
大人の手だ。
木を運び、石を持ち上げ、荷車を押してきた手だ。
その手が、慣れない文字を一つずつ書いている。
「違う。ここは、こう曲げるんだ」
隣に座った工房の若者が、小声で教えている。
「こうか?」
「そう。もう少し下」
教わっていた男は、何度か書き直した。
そして、ようやく自分の名前らしき形を書き終える。
それを見た瞬間、男の顔が少し緩んだ。
「……これで、俺の名前か」
「読めるぞ」
「そうか」
短い言葉だった。
だが、その声には、妙な重みがあった。
自分の名前を書ける。
自分の名前を帳面の中で見つけられる。
それは、ただ文字を覚えるだけの話ではない。
自分がどこにいるのか。
自分がどの帳面に載っているのか。
自分にいくら賃金が出ているのか。
それを、人任せにしなくて済むようになる。
ミアが、静かにその様子を見ていた。
「リオン様」
「うん」
「皆様、とても真剣ですね」
「うん」
「子どもが学ぶのとは、また違うのですね」
「そうだね。たぶん、この人たちにとっては、すぐ仕事や生活につながるから」
ミアは小さく頷いた。
「自分の名前を書けるようになるだけでも、きっと違うのでしょうね」
「大きいと思う」
俺は答えた。
前世なら、読み書きは当たり前だった。
だが、この世界では違う。
読めない者は、誰かに読んでもらうしかない。
書けない者は、誰かに書いてもらうしかない。
数字が分からなければ、賃金も仕送りも、自分で確かめられない。
それは不便というだけではない。
弱さになる。
誰かに騙される危険にもなる。
だから、この学び場は現場を強くするだけではない。
働く人たち自身を守る場所でもある。
◇
講習が一段落したところで、俺はヨハンとレナードから話を聞いた。
「今は、週に何回開いてる?」
「週に三回です」
答えたのはヨハンだった。
「仕事終わりに、希望者と、現場責任者から勧められた者が来ています」
「人数は?」
「日によりますが、十五人から二十五人ほどです」
「内容は?」
「名前の読み書き、数字の読み方、簡単な足し算と引き算、木札や作業札の読み方、帳面の基本です」
レナードが横で補足する。
「今のところ、帳面補助に入れそうな者、または現場で札の読み間違いが多い者を優先しております」
「なるほど」
方向としては悪くない。
むしろ、思っていたより現場に寄っている。
読み書きを教えるだけではなく、仕事で使う文字や数字から入っている。
これは良い。
だが、同時に限界も見える。
「ここに来ている人たちは、学ぶ気がある人たちだよね」
俺が言うと、ヨハンが頷いた。
「はい。最初はかなり恥ずかしがる方もいましたが、来てくださる方は真面目です」
「来ていない人の方が多い」
「……はい」
ヨハンは少し表情を曇らせた。
「読み書きが苦手なことを知られたくない方もいます。
仕事が終わると疲れていて、来る余裕がない方もいます。
そもそも、自分には関係ないと思っている方もいるようです」
「だろうね」
俺は教室代わりの集会所を見回した。
この学び場は、必要だ。
だが、ここに来ている人だけを見て、ハル領全体を分かった気になってはいけない。
今いるのは、学ぶ意欲がある人たち。
あるいは、現場責任者に勧められて来られる人たちだ。
でも、現場にはもっと多くの人がいる。
村にも、領都にも、西の森にも、石切り場にも、まだ見えていない人たちがいる。
読み書きできる人がどれくらいいるのか。
帳面を任せられる人がどれくらいいるのか。
それが分からなければ、この学び場をどう広げるかも決められない。
◇
俺はレナードに向き直った。
「ハル領には、税と労役のための帳面はあるよね」
「はい。村ごとの戸数、納税世帯、労役に出せる人数は把握しております」
「でも、読み書きや計算ができるかは?」
レナードは少し困った顔をした。
「そこまでは、細かくは」
「帳面を書ける人、木札を読める人、簡単な計算ができる人も?」
「現場ごとに何となくは分かります。ですが、領全体では整理されておりません」
「だよね」
それが問題だ。
働ける人数は分かる。
税や労役のための帳面はある。
だが、それは人を育てるための帳面ではない。
この人は畑にいる。
この家から何人労役に出せる。
そこまでは分かる。
でも、その人が数字を読めるのか。
帳面に印をつけられるのか。
木札を読んで置き場を間違えないのか。
そこまでは見えない。
「リオン様」
ノルが低く言った。
「調べる必要はありますな。ただし、聞き方を誤れば、増税や労役の前触れと受け取られる恐れがあります」
「うん。そこが怖い」
人を数える。
能力を見る。
それだけ聞けば、村の者たちは警戒する。
税を増やされるのではないか。
働ける者をもっと引っ張られるのではないか。
若い者を連れていかれるのではないか。
そう思われても不思議ではない。
ミアも静かに口を開いた。
「それに、読み書きができないことを恥ずかしく思う方もいると思います」
「そうだね」
「人前で試される形になれば、来づらくなるかもしれません」
「うん」
その通りだ。
これは試験ではない。
できる者を選び、できない者を下に見るためのものでもない。
どこから教えればいいかを見るための確認だ。
俺は少し考えてから言った。
「人口を調べたいんじゃない。その人達の現在地を知りたいんだ」
レナードが顔を上げる。
「現在地、ですか」
「うん。読み書きができない人を弾くためじゃない。どこから教えればいいかを知るためだ」
俺は集会所の机を見た。
炭筆。
木板。
数字札。
作業札。
これらを使えば、確認はできる。
ただし、やり方を間違えてはいけない。
「まずは三現場から始めよう」
「石切り場、西の森、工房ですね」
「うん。全領を一気に調べるのは無理だし、反発も出る。まずは、すでに学び場と関係がある現場から」
俺は指を折りながら言った。
「名前を読めるか。自分の名前を書けるか。数字を読めるか。簡単な足し算と引き算ができるか。
木札や作業札を読めるか。帳面に印をつけられるか。夜間講習に来られるか」
レナードがすぐに書き留める。
「項目としては、それくらいでよろしいですか」
「最初はそれでいい。難しい試験にしない」
俺ははっきり言った。
「試験じゃない。教える順番を決めるための確認だ」
ノルが頷く。
「現場責任者を通じて伝えた方がよいでしょう」
「うん。ただし、責任者にも言い方を徹底してほしい。
できない人を探すんじゃない。教える順番を見るんだって」
ミアも頷いた。
読み書きできない大人に、いきなり文字を書けと言えば、恥をかかせるだけになる。
それでは学び場は広がらない。
学べなかった人を、できない人として扱ってはいけない。
できるようになるための場所にしなければならない。
◇
講習が終わる頃、一人の男が俺の前に来た。
年は三十前後だろうか。
手の皮が厚い。
石切り場か西の森で働いている手だ。
男は少し緊張したように頭を下げた。
「リオン様」
「うん。どうしたの?」
「俺、グレイヴ領から来た者です」
「そう」
「今日、自分の名前を初めて書けました」
男はそう言って、木板を見せた。
そこには、少し歪んだ文字が書かれている。
たぶん、何度も書き直したのだろう。
炭の跡が重なっている。
「ちゃんと書けてる」
俺が言うと、男は一瞬だけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
声が少し震えていた。
「今まで、帳面に自分の名前があると言われても、どれが自分なのか分かりませんでした」
「うん」
「賃金も、仕送りの数字も、人に読んでもらうしかなかった。
でも、少しでも自分で分かるようになりたいんです」
俺は黙って聞いていた。
男は続ける。
「ハル領で働かせてもらえて、助かっています。
でも、自分のことを全部人任せにしているのは、怖いです」
その言葉は、重かった。
この学び場の意味が、そこにあった。
読み書きは、現場を回すためだけのものではない。
働く人が、自分の立場を自分で確かめるためのものでもある。
「続けてくれ」
俺は言った。
「すぐに全部できるようになる必要はない。でも、少しずつ覚えればいい」
「はい」
「ここで覚えたことは、君自身を守る力になる」
男は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その背中を見送りながら、俺は胸の奥に重いものを感じた。
グレイヴ領から来た者たちを、ただ働き手として見るだけでは足りない。
彼らは、自分の生活を守るために学ぼうとしている。
それを受け止める場所が、ハル領には必要なのだ。
◇
集会所を出る頃には、外は薄暗くなり始めていた。
領都の通りには、街灯の明かりが少しずつ灯り始めている。
その明かりの下を、講習を終えた作業員たちが帰っていく。
ある者は木板を大事そうに抱えていた。
ある者は、数字札を思い出すように指を折っている。
その姿を見ながら、俺は考えた。
ハル領に必要なのは、人を集めることだけではない。
集まった人を育てることだ。
読み書きと計算。
それは、小さな力に見える。
だが、その小さな力が、帳面を読み、賃金を守り、作業を正しく進める。
人を守り、現場を守り、領を支える力になる。
俺はレナードに言った。
「明日から、三現場の確認を始めよう」
「承知しました」
ノルが静かに頷く。
「伝え方には気をつけましょう」
「うん」
ミアが、集会所を振り返りながら言った。
「この場所は、きっと大事になりますね」
「そう思う」
俺は街灯の明かりを見上げた。
街灯は夜を明るくする。
だが、領を本当に明るくするのは、たぶんそれだけではない。
文字を読めるようになった者。
数字を数えられるようになった者。
自分の名前を書けるようになった者。
そういう小さな変化が、少しずつ領を変えていく。
ハル領の発展を支える次の土台は、この小さな学び場から始まるのかもしれない。
俺はそう思いながら、夜の領都を歩き出した。