軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第215話 働く人の学び場

帳面が示したものは、思っていた以上に重かった。

石切り場。

西の森。

領都工房。

三つの現場は、確かに動いている。

だが、その動きはハル領の者だけで支えられているわけではない。

グレイヴ領から来た出稼ぎの者たちが、補助工程のかなりを担っている。

ありがたいが、頼りきってはいけない。

そのためには、ハル領の中にも次の働き手を育てなければならない。

では、どう育てるのか。

その答えの一つは、すでに小さく始まっていた。

働く人向けの学び場だ。

夕方前。

俺は領都の集会所へ向かった。

同行するのは、ノルとミア。

そして、屋敷の文官であるレナードだった。

レナードは、父上の執務を支える文官の一人だ。

年は三十前後。

帳面仕事に慣れていて、村ごとの戸数や納税世帯、労役の記録にも詳しい。

今回、俺が確認したいのは、税のための帳面ではない。

人を育てるために、どんな記録が必要か。

そのためには、現場を見たうえで、文官の目も必要だった。

母上は今日も父上の部屋にいる。

父上の看病で、ほとんどつきっきりだ。

本当なら母上にも見てもらいたい場所だったが、今は無理をさせられない。

だから、まず俺たちで見て、必要なことだけ後で母上に伝えるつもりだった。

「リオン様、今日は学び場をご覧になるのですね」

ミアが隣で言った。

「うん。一年前に考えていたことが、今どうなってるのか見ておきたい」

一年前、西の森の開拓地に人が集まり始めた頃から、人を育てる場所はいずれ必要になると思っていた。

冬に帰ってきた時には、働く人向けの夜間講習と、子ども向けの学び場の構想として少し形にした。

そして今、その必要性はもう先の話ではなくなっている。

読み書きや計算ができるかどうかで、任せられる仕事が変わる。

木札を読めるか。

数字を読めるか。

帳面に印をつけられるか。

それだけで、現場の動きは変わる。

集会所に近づくと、中から人の声が聞こえてきた。

子どもの声ではない。

大人たちの声だ。

ぎこちなく文字を読む声。

数字を数える声。

そして、ときどき小さな笑い声。

俺は足を止めず、集会所の扉へ向かった。

中に入ると、十数人ほどの大人たちが木の長机に座っていた。

工房の補助作業員。

石切り場から来た者。

西の森で働いている人足。

ハル領の若い見習い。

そして、グレイヴ領から来た出稼ぎの者も混じっている。

机の上には、木板、炭筆、簡単な数字札、作業札が並んでいた。

教えているのは、工房の者だった。

名をヨハンという。

まだ若いが、工房では部品の準備や帳面補助も任されている。

職人としては見習い上がりに近い立場だが、文字と数字に強く、街灯用青輝石や純石の箱札もよく見ている。

だから、実際の作業に必要な読み書きや計算を教えるには向いていた。

立派な学校ではない。

校舎もない。

専門の教師がいるわけでもない。

領都の集会所を、仕事の後に数刻だけ借りている。

それだけの小さな学び場だ。

だが、そこには確かに熱があった。

「リオン様」

ヨハンが慌てて頭を下げた。

「そのままでいい。授業を見せて」

「は、はい」

ヨハンは少し緊張しながらも、すぐに前へ向き直った。

「では、続けます。これは、街灯用青輝石の箱につける札です。ここには数が書かれています。十、二十、三十。では、この札は?」

一人の若い作業員が、少し眉を寄せながら答える。

「……二十、ですか」

「そうです。では、二十の箱が二つあれば?」

「四十」

「はい。では、十の箱が一つ加われば?」

「五十」

答えた作業員は、少しだけ嬉しそうな顔をした。

周りの者たちも、小さく頷いている。

難しい学問ではない。

だが、この数字が読めるかどうかで、箱の数を自分で確認できるかが変わる。

帳面に書かれた数を、自分で確かめられるかが変わる。

賃金や仕送りの数字を、人任せにせず見られるかが変わる。

俺は、その場の空気を静かに見ていた。

別の机では、名前を書く練習をしていた。

炭筆を持つ手が、ぎこちない。

大人の手だ。

木を運び、石を持ち上げ、荷車を押してきた手だ。

その手が、慣れない文字を一つずつ書いている。

「違う。ここは、こう曲げるんだ」

隣に座った工房の若者が、小声で教えている。

「こうか?」

「そう。もう少し下」

教わっていた男は、何度か書き直した。

そして、ようやく自分の名前らしき形を書き終える。

それを見た瞬間、男の顔が少し緩んだ。

「……これで、俺の名前か」

「読めるぞ」

「そうか」

短い言葉だった。

だが、その声には、妙な重みがあった。

自分の名前を書ける。

自分の名前を帳面の中で見つけられる。

それは、ただ文字を覚えるだけの話ではない。

自分がどこにいるのか。

自分がどの帳面に載っているのか。

自分にいくら賃金が出ているのか。

それを、人任せにしなくて済むようになる。

ミアが、静かにその様子を見ていた。

「リオン様」

「うん」

「皆様、とても真剣ですね」

「うん」

「子どもが学ぶのとは、また違うのですね」

「そうだね。たぶん、この人たちにとっては、すぐ仕事や生活につながるから」

ミアは小さく頷いた。

「自分の名前を書けるようになるだけでも、きっと違うのでしょうね」

「大きいと思う」

俺は答えた。

前世なら、読み書きは当たり前だった。

だが、この世界では違う。

読めない者は、誰かに読んでもらうしかない。

書けない者は、誰かに書いてもらうしかない。

数字が分からなければ、賃金も仕送りも、自分で確かめられない。

それは不便というだけではない。

弱さになる。

誰かに騙される危険にもなる。

だから、この学び場は現場を強くするだけではない。

働く人たち自身を守る場所でもある。

講習が一段落したところで、俺はヨハンとレナードから話を聞いた。

「今は、週に何回開いてる?」

「週に三回です」

答えたのはヨハンだった。

「仕事終わりに、希望者と、現場責任者から勧められた者が来ています」

「人数は?」

「日によりますが、十五人から二十五人ほどです」

「内容は?」

「名前の読み書き、数字の読み方、簡単な足し算と引き算、木札や作業札の読み方、帳面の基本です」

レナードが横で補足する。

「今のところ、帳面補助に入れそうな者、または現場で札の読み間違いが多い者を優先しております」

「なるほど」

方向としては悪くない。

むしろ、思っていたより現場に寄っている。

読み書きを教えるだけではなく、仕事で使う文字や数字から入っている。

これは良い。

だが、同時に限界も見える。

「ここに来ている人たちは、学ぶ気がある人たちだよね」

俺が言うと、ヨハンが頷いた。

「はい。最初はかなり恥ずかしがる方もいましたが、来てくださる方は真面目です」

「来ていない人の方が多い」

「……はい」

ヨハンは少し表情を曇らせた。

「読み書きが苦手なことを知られたくない方もいます。

仕事が終わると疲れていて、来る余裕がない方もいます。

そもそも、自分には関係ないと思っている方もいるようです」

「だろうね」

俺は教室代わりの集会所を見回した。

この学び場は、必要だ。

だが、ここに来ている人だけを見て、ハル領全体を分かった気になってはいけない。

今いるのは、学ぶ意欲がある人たち。

あるいは、現場責任者に勧められて来られる人たちだ。

でも、現場にはもっと多くの人がいる。

村にも、領都にも、西の森にも、石切り場にも、まだ見えていない人たちがいる。

読み書きできる人がどれくらいいるのか。

帳面を任せられる人がどれくらいいるのか。

それが分からなければ、この学び場をどう広げるかも決められない。

俺はレナードに向き直った。

「ハル領には、税と労役のための帳面はあるよね」

「はい。村ごとの戸数、納税世帯、労役に出せる人数は把握しております」

「でも、読み書きや計算ができるかは?」

レナードは少し困った顔をした。

「そこまでは、細かくは」

「帳面を書ける人、木札を読める人、簡単な計算ができる人も?」

「現場ごとに何となくは分かります。ですが、領全体では整理されておりません」

「だよね」

それが問題だ。

働ける人数は分かる。

税や労役のための帳面はある。

だが、それは人を育てるための帳面ではない。

この人は畑にいる。

この家から何人労役に出せる。

そこまでは分かる。

でも、その人が数字を読めるのか。

帳面に印をつけられるのか。

木札を読んで置き場を間違えないのか。

そこまでは見えない。

「リオン様」

ノルが低く言った。

「調べる必要はありますな。ただし、聞き方を誤れば、増税や労役の前触れと受け取られる恐れがあります」

「うん。そこが怖い」

人を数える。

能力を見る。

それだけ聞けば、村の者たちは警戒する。

税を増やされるのではないか。

働ける者をもっと引っ張られるのではないか。

若い者を連れていかれるのではないか。

そう思われても不思議ではない。

ミアも静かに口を開いた。

「それに、読み書きができないことを恥ずかしく思う方もいると思います」

「そうだね」

「人前で試される形になれば、来づらくなるかもしれません」

「うん」

その通りだ。

これは試験ではない。

できる者を選び、できない者を下に見るためのものでもない。

どこから教えればいいかを見るための確認だ。

俺は少し考えてから言った。

「人口を調べたいんじゃない。その人達の現在地を知りたいんだ」

レナードが顔を上げる。

「現在地、ですか」

「うん。読み書きができない人を弾くためじゃない。どこから教えればいいかを知るためだ」

俺は集会所の机を見た。

炭筆。

木板。

数字札。

作業札。

これらを使えば、確認はできる。

ただし、やり方を間違えてはいけない。

「まずは三現場から始めよう」

「石切り場、西の森、工房ですね」

「うん。全領を一気に調べるのは無理だし、反発も出る。まずは、すでに学び場と関係がある現場から」

俺は指を折りながら言った。

「名前を読めるか。自分の名前を書けるか。数字を読めるか。簡単な足し算と引き算ができるか。

木札や作業札を読めるか。帳面に印をつけられるか。夜間講習に来られるか」

レナードがすぐに書き留める。

「項目としては、それくらいでよろしいですか」

「最初はそれでいい。難しい試験にしない」

俺ははっきり言った。

「試験じゃない。教える順番を決めるための確認だ」

ノルが頷く。

「現場責任者を通じて伝えた方がよいでしょう」

「うん。ただし、責任者にも言い方を徹底してほしい。

できない人を探すんじゃない。教える順番を見るんだって」

ミアも頷いた。

読み書きできない大人に、いきなり文字を書けと言えば、恥をかかせるだけになる。

それでは学び場は広がらない。

学べなかった人を、できない人として扱ってはいけない。

できるようになるための場所にしなければならない。

講習が終わる頃、一人の男が俺の前に来た。

年は三十前後だろうか。

手の皮が厚い。

石切り場か西の森で働いている手だ。

男は少し緊張したように頭を下げた。

「リオン様」

「うん。どうしたの?」

「俺、グレイヴ領から来た者です」

「そう」

「今日、自分の名前を初めて書けました」

男はそう言って、木板を見せた。

そこには、少し歪んだ文字が書かれている。

たぶん、何度も書き直したのだろう。

炭の跡が重なっている。

「ちゃんと書けてる」

俺が言うと、男は一瞬だけ目を伏せた。

「ありがとうございます」

声が少し震えていた。

「今まで、帳面に自分の名前があると言われても、どれが自分なのか分かりませんでした」

「うん」

「賃金も、仕送りの数字も、人に読んでもらうしかなかった。

でも、少しでも自分で分かるようになりたいんです」

俺は黙って聞いていた。

男は続ける。

「ハル領で働かせてもらえて、助かっています。

でも、自分のことを全部人任せにしているのは、怖いです」

その言葉は、重かった。

この学び場の意味が、そこにあった。

読み書きは、現場を回すためだけのものではない。

働く人が、自分の立場を自分で確かめるためのものでもある。

「続けてくれ」

俺は言った。

「すぐに全部できるようになる必要はない。でも、少しずつ覚えればいい」

「はい」

「ここで覚えたことは、君自身を守る力になる」

男は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

その背中を見送りながら、俺は胸の奥に重いものを感じた。

グレイヴ領から来た者たちを、ただ働き手として見るだけでは足りない。

彼らは、自分の生活を守るために学ぼうとしている。

それを受け止める場所が、ハル領には必要なのだ。

集会所を出る頃には、外は薄暗くなり始めていた。

領都の通りには、街灯の明かりが少しずつ灯り始めている。

その明かりの下を、講習を終えた作業員たちが帰っていく。

ある者は木板を大事そうに抱えていた。

ある者は、数字札を思い出すように指を折っている。

その姿を見ながら、俺は考えた。

ハル領に必要なのは、人を集めることだけではない。

集まった人を育てることだ。

読み書きと計算。

それは、小さな力に見える。

だが、その小さな力が、帳面を読み、賃金を守り、作業を正しく進める。

人を守り、現場を守り、領を支える力になる。

俺はレナードに言った。

「明日から、三現場の確認を始めよう」

「承知しました」

ノルが静かに頷く。

「伝え方には気をつけましょう」

「うん」

ミアが、集会所を振り返りながら言った。

「この場所は、きっと大事になりますね」

「そう思う」

俺は街灯の明かりを見上げた。

街灯は夜を明るくする。

だが、領を本当に明るくするのは、たぶんそれだけではない。

文字を読めるようになった者。

数字を数えられるようになった者。

自分の名前を書けるようになった者。

そういう小さな変化が、少しずつ領を変えていく。

ハル領の発展を支える次の土台は、この小さな学び場から始まるのかもしれない。

俺はそう思いながら、夜の領都を歩き出した。