作品タイトル不明
第212話 西の森側作業場
翌朝。
俺は西の森側作業場へ向かうことにした。
昨日、石切り場から戻ってから、父上と母上、ノルに出稼ぎの話を共有した。
グレイヴ領から来た者たちは、石切り場だけではない。
西の森開拓にも、領都の工房にも入っている。
それなら、石切り場だけを見て終わるわけにはいかない。
西の森側の現場も、今どうなっているのか確認しておく必要がある。
同行するのは、ノルとミアだった。
「リオン様、本当に私も同行してよろしいのですか?」
屋敷の馬車止めで、ミアが少し不安そうに聞いてきた。
「うん。作業員の休憩場所や食事の様子も見たいんだ。
俺やノルだけだと、そういうところを見落とすかもしれない」
「休憩場所、ですか」
「西の森には露天風呂もあるし、飲み物や食事を出す場所もできてる。
でも、人が増えたなら、それが今の規模に合ってるかは見ておきたい」
ミアは少し考え、それから静かに頷いた。
「承知しました。私の目で見て、気づいたことがあればお伝えします」
「頼む」
ノルが馬車の横で軽く頭を下げた。
「西の森側は、石切り場とはまた違う危険がございます。私も警戒して見てまいります」
「うん。お願い」
俺たちは馬車に乗り込み、西の森側作業場へ向かった。
◇
西の森へ向かう道は、以前より少し整っていた。
荷車が通りやすいように、地面がならされている。
道の脇には、木材を一時的に置くための簡単な置き場もできていた。
少しずつだが、西の森の開拓は進んでいる。
それは確かだった。
ただ、進んでいるからこそ、胸の奥に引っかかるものがあった。
人が増える。
作業が増える。
道が伸びる。
それは良いことだ。
だが、森は森だ。
人が増えたからといって、危険が減るわけではない。
むしろ、危険を知らない人間が増えれば、事故は起きやすくなる。
馬車が作業場に近づくと、木を打つ音や人の声が聞こえてきた。
石切り場とは違う音だ。
木を切る音。
枝を払う音。
荷車に木材を積む音。
土をならす音。
そして、少し離れた場所からは、人の笑い声も聞こえた。
西の森側作業場は、以前よりもずっと大きくなっていた。
◇
馬車を降りると、現場責任者が駆け寄ってきた。
「リオン様、ノル様。お越しになるとは聞いておりましたが、まさか朝からとは」
「急に悪い。少し現場を見たい」
「はい。ご案内いたします」
俺は作業場全体を見回した。
木材の一時置き場。
資材置き場。
荷車の待機場所。
作業員の仮休憩所。
簡易柵。
見張り台。
護衛の詰め所。
さらに少し離れた場所には、湯屋と食事処がある。
一年前に作った簡易露天風呂だ。
最初は、作業終わりに身体を温めるための小さな風呂だった。
だが、今は違う。
男性用だけでなく、女性用の露天風呂もできている。
周辺には、冷たい飲み物や簡単な食事を出す場所もある。
湯上がりの作業員や冒険者が休めるように、丸太の腰掛けや日よけも置かれていた。
前線拠点としては、かなり形になっている。
ただ、その分だけ人の動きも増えていた。
作業員が木材を運ぶ。
荷車が通る。
冒険者が森から戻ってくる。
湯屋へ向かう者が歩く。
食事処へ寄る者もいる。
人の流れが増えたことで、作業場全体が少し雑然としているようにも見えた。
「作業は進んでるみたいだね」
「はい。最近は人手も増えまして」
現場責任者は頷いた。
「木材の運び出しも、道づくりも、以前より速く進んでおります」
「グレイヴ領から来た人もいる?」
「おります。石切り場ほどではありませんが、増えております」
「働きぶりは?」
「悪くありません。力仕事には慣れている者もいます。ただ……」
現場責任者は少し言葉を切った。
「森には慣れていない者が多いです」
「だろうね」
俺は西の森の奥へ視線を向けた。
木々が重なる。
陽の光は差し込んでいるが、奥は暗い。
平地の作業場とは違う。
森の中では、少し場所が変わるだけで、危険の種類も変わる。
「ノル」
「はい」
「警戒線はどこ?」
ノルは周囲を見回した。
現場責任者が指差す。
「今は、あの杭のあたりまでを作業範囲としております」
俺はそちらを見る。
杭はある。
縄も張られている。
だが、石切り場の置き場ほどはっきりしていない。
木材の運搬で何度も人が出入りするためか、縄が少し緩んでいる場所もあった。
さらに西側の仮設柵は、一部が開いたままになっている。
俺は眉を寄せた。
その瞬間、視界に文字が浮かんだ。
《警戒線:不明瞭》
《未熟練者比率:上昇》
《作業動線:混在》
《森側監視:不足》
《綻び:西側仮設柵》
やっぱり、ここにも綻びがある。
石の流れでも、人の流れでもない。
今度は、安全の綻びだ。
◇
ミアは俺たちとは少し違う場所を見ていた。
作業員の仮休憩所。
水桶。
荷車の通り道。
湯屋へ向かう道。
食事を取る場所。
怪我人を一時的に休ませる場所。
しばらくして、ミアが静かに俺のそばへ来た。
「リオン様」
「何か気づいた?」
「はい。湯屋の周辺は、以前よりずいぶん整っています」
ミアは湯屋の方を見る。
「飲み物や食事を出す場所もありますし、湯上がりの方が休む場所もあります。
そこはとても良いと思います」
「うん」
「ただ、作業場側の仮休憩所と、湯屋へ向かう道が少し近すぎます」
「近すぎる?」
「はい。湯屋へ向かう方と、木材を積んだ荷車の動きが重なっています。
今はまだ大きな問題にはなっていないようですが、人が増えれば危ないかと」
俺はミアの視線を追った。
たしかに、森から戻った作業員や冒険者が湯屋へ向かう道と、木材を積んだ荷車が通る場所が一部重なっている。
湯屋が人を集めている。
それ自体は良い。
でも、人が集まる場所と荷車の動線が近すぎると、事故につながる。
「水桶は?」
「作業場の外側に置かれているものがあります。
水を飲みに行くために、森側に近づいている方もいました」
「それはまずいね」
「それから、怪我をした方を一時的に寝かせる場所が、湯屋側にはあります。
ただ、作業場の近くにはほとんどありません」
ミアは言葉を選びながら続けた。
「湯屋は疲れを落とす場所として機能しています。
ですが、作業中に怪我をした方をすぐに運ぶには、少し離れているように見えます」
「なるほど」
これは俺だけでは見落としていた。
温泉があるから、休める場所はある。
だが、それは作業後に身体を休める場所だ。
作業中の事故や怪我に対応する場所とは別に考えないといけない。
ノルが感心したように頷く。
「確かに、我々は警戒線や森側ばかり見ておりましたな」
「危険は森だけじゃないってことだね」
俺は作業場全体を見た。
森側の安全。
作業員の休憩。
水。
怪我人の場所。
湯屋へ向かう人の流れ。
荷車の動線。
どれか一つでも崩れれば、現場は止まる。
◇
その時だった。
西側の仮設柵の近くで、若い作業員が声を上げた。
「あっ」
束ねていた縄が、柵の外側へ落ちた。
若い作業員は、何も考えずに柵をまたごうとした。
「待て!」
護衛の一人がすぐに声を上げた。
作業員はびくりと止まる。
「そこから先は確認済みではない」
「す、すみません。すぐそこだったので……」
若い作業員は慌てて頭を下げた。
悪気はない。
本当に、すぐそこだと思ったのだろう。
だが、それが危ない。
森では、その「すぐそこ」が命取りになる。
俺はゆっくりと近づいた。
「名前は?」
「マルクです」
「グレイヴ領から?」
「はい」
マルクは緊張した顔で答えた。
俺は怒鳴らなかった。
怒鳴っても意味がない。
彼は勝手に危険を冒そうとしたのではない。
危険だと分かっていなかっただけだ。
「マルク。ここは畑や道じゃない。森の近くだ」
「はい」
「落としたものを拾うだけでも、確認されていない場所へ一人で出たら危ない。
魔物だけじゃない。穴もある。毒草もある。足を取られる場所もある」
マルクの顔が青くなった。
「すみません」
「責めてるんじゃない。知らなかったなら、覚えればいい」
俺は現場責任者を見る。
「新しく来た人たちに、作業前の説明はしてる?」
「道具の扱いと、作業場所の説明はしております。ただ、森側の危険については……」
「足りてないね」
「はい」
現場責任者は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝るより、今日から変えよう」
俺はそう言った。
◇
俺はノルと現場責任者、ミアを近くに集めた。
「まず、安全確認済みの範囲を杭と縄ではっきりさせる」
「はい」
「森側へ出る場所は、一か所に絞る。荷運びの都合で勝手に開けない」
ノルが頷く。
「出入口には護衛を置きましょう」
「お願い。それと、森側へ出入りする時は必ず記録する」
「承知しました」
「森に慣れていない人だけで奥へ入らせない。
新しく来た人は、作業前に必ず説明を受ける」
現場責任者が頷いた。
「説明内容を決めます」
「退避場所と合図も必ず教える。
何かあった時に、どこへ逃げるか分からないのが一番危ない」
「はい」
俺は少し声を強めた。
「グレイヴ領から来た人が悪いんじゃない。
森を知らない人を森の近くで働かせるなら、教える仕組みがいる」
その場にいた作業員たちが、静かにこちらを見ていた。
マルクも、真剣な顔で聞いている。
「速く作業することより、先に覚えることがある。どこまで行ってよくて、どこから先へ行ってはいけないかだ」
ノルが低く言った。
「森側の警戒線は、騎士団側で再確認いたします」
「うん。作業人数に合わせて護衛の配置も見直してほしい」
「承知しました」
次に、ミアが控えめに口を開いた。
「リオン様、動線と休憩場所についてもよろしいでしょうか」
「うん。お願い」
ミアは現場責任者へ向き直った。
「湯屋へ向かう道と、荷車の通り道を分けた方がよいと思います。
今のままですと、仕事を終えた方と荷車が同じ場所を通ってしまいます」
「確かに……」
「水桶は、作業場の内側に増やしてください。森側に近い場所で水を飲んでいる方がいました」
「すぐに移します」
「作業場の近くにも、怪我人を一時的に寝かせる場所が必要です。
湯屋側まで運ぶ前に、まず横にできる場所があった方がよいかと」
現場責任者は何度も頷いた。
「分かりました。すぐに配置を見直します」
「それと、湯屋の周りは良い場所になっています。
だからこそ、そこへ向かう人の流れも増えます。
作業場から湯屋へ行く道は、きちんと決めておいた方がよいと思います」
俺はミアを見た。
「助かった」
「いえ。あの湯屋があるから、皆様が一日を終えられるのだと思います。
なら、そこへ安全に向かえることも大切ですから」
ミアの言葉に、俺は頷いた。
人が動く場所には、必ず綻びが生まれる。
◇
しばらくして、仮設柵の周辺に新しい杭が打たれ始めた。
護衛が出入口の位置を確認する。
作業員たちは、水桶を作業場の内側へ運んでいる。
荷車の通り道と、湯屋へ向かう歩き道を分けるために、縄が張り直されていく。
ミアは湯屋へ向かう道の位置を見ながら、使用人らしい細かな目で配置を確認していた。
ノルは森側を見ながら、護衛の立ち位置を変えている。
俺はもう一度、作業場全体を見た。
視界に文字が浮かぶ。
《警戒線:再設定中》
《未熟練者教育:必要》
《作業動線:分離中》
《森側監視:強化予定》
《綻び:縮小》
完全に消えたわけではない。
だが、危ない場所は見えた。
今なら、まだ直せる。
現場責任者が俺の隣へ来た。
「リオン様、申し訳ありませんでした。
人が増えたことに気を取られて、安全の方が追いついておりませんでした」
「責めてないよ。作業場はちゃんと進んでる。
でも、進んだからこそ、次の危険が出てきただけだ」
石切り場と同じだ。
前に作った仕組みが悪かったわけではない。
人が増え、仕事が増え、次の段階に来ている。
それだけだ。
「今日から変えればいい」
「はい」
現場責任者は深く頭を下げた。
◇
帰る前に、俺たちは露天風呂のある一角へ寄ることにした。
湯気が上がっている。
まだ夕方というには早い時間だというのに、森から戻ってきた数人の作業員が、湯屋の近くで水を飲んでいた。
木こりらしい男たちは、湯上がりに冷たい飲み物を飲みながら笑っている。
少し離れた女性用の湯屋の方にも、人の出入りがあった。
一年前、最初は簡単な露天風呂を作っただけだった。
それが今では、ただの風呂ではなくなっている。
人が働き、疲れを落とし、食事を取り、また明日も森へ入る。
西の森の前線拠点は、そういう場所になり始めていた。
温泉が人を呼ぶ。
人が増えれば、開拓は進む。
だが、森に慣れていない者が増えれば、事故も増える。
ノルが隣へ来る。
「若様」
「うん」
「西の森は、まだすべてを把握できているわけではありません」
「分かってる」
「作業場が広がれば、それだけ森に触れる場所も増えます」
「うん」
人が集まれば、領は動く。
だが、その分だけ、守らなければならないものも増えていく。
俺は湯気の向こうに見える西の森を見つめながら、そのことを改めて感じていた。