作品タイトル不明
第211話 隣領への波紋
石切り場から屋敷へ戻る馬車の中で、俺はしばらく黙っていた。
純石候補の扱いは変えた。
街灯用青輝石と街灯用純石を、同じ便で工房へ送る。
それだけで、街灯の生産は少しずつ動き出すはずだ。
だが、人の流れは違う。
グレイヴ領から来た出稼ぎたち。
彼らは敵ではない。
けれど、その存在が増えれば増えるほど、別の問題が生まれる。
ハル領が発展する。
それは良いことだ。
だが、その発展が隣の領から人を引き寄せているのだとしたら。
それを、グレイヴ侯爵がどう見るか。
そこまで考えると、胸の奥が重くなった。
隣に座っていたノルも、ずっと黙っていた。
ノルも同じことを考えているのだろう。
馬車は、夕方の光の中を屋敷へ向かって進んでいった。
◇
屋敷に戻ると、母上が玄関近くで待っていた。
「おかえり、リオン」
「ただいま、母上」
母上は俺の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「石切り場で、何かあったの?」
「純石候補の問題は、たぶん動き出せると思う」
「そう。よかったわ」
母上は少し安心したように息を吐いた。
だが、すぐに俺の表情を見て、言葉を止めた。
「それだけではないのね」
「うん。人の問題が出てきた」
「人?」
母上の表情が引き締まる。
俺は頷いた。
「父上にも共有したい」
母上は少し迷った。
父上はまだ休ませなければならない。
それは分かっている。
でも、この話は先延ばしにしていいものではない。
母上もそれを感じたのだろう。
「分かったわ。様子を見ながら、短く話しましょう」
俺は頷いた。
ノルも無言で頭を下げた。
◇
父上の部屋へ行くと、父上は寝台に上半身を起こしていた。
昨日より少し落ち着いているようには見える。
けれど、顔色はまだよくない。
「戻ったか」
「うん。ただいま、父上」
父上は俺とノルを見た。
「石切り場はどうだった」
俺はできるだけ簡潔に話した。
石切り場は崩れていなかったこと。
前に作った置き場や選別の仕組みは残っていたこと。
エドたちがよく回していたこと。
ただ、純石候補が山になり、どれを工房へ送るかが決まっていなかったこと。
そして、街灯用青輝石と街灯用純石を同じ便で工房へ送るようにしたこと。
父上は黙って聞いていた。
「そうか」
やがて、父上は静かに頷いた。
「現場は持ちこたえていたのだな」
「うん。エドたちはよくやってた。責める話じゃなかった」
「そこを間違えなかったのは大きい」
父上はそう言った。
その声は弱い。
だが、領主としての目はまだ鋭かった。
「現場が悪いのか、仕組みが次の段階に進んでいないのか。
それを見誤ると、人は動かなくなる」
「うん」
俺は頷いた。
父上は少しだけ目を細めた。
「それで、人の問題とは?」
俺は息を整えた。
ここからが本題だ。
◇
「石切り場で、人員帳面を見た」
「前に作ったものだな」
「うん。領民、出稼ぎ、移住希望。出身領。熟練、補助、見習い。そこまでは残ってた」
父上が頷く。
「でも、グレイヴ領からの出稼ぎがかなり増えてる」
母上の表情が変わった。
父上も、黙ったまま俺を見る。
「石切り場だけじゃない。
西の森開拓にも、領都の工房にも、荷運びや仕分けの補助として入ってるらしい」
ノルが続ける。
「私も確認しました。割合として無視できない数です」
「それだけなら、人手が増えてありがたい話なんだけど」
俺は少し言葉を切った。
「夏になっても戻ってない人が多い」
部屋の空気が変わった。
父上はすぐに意味を理解したようだった。
「農民が繁忙期になっても戻らない、ということか」
「うん」
俺は頷いた。
「ダンに聞いた。戻っても税を払える見込みがない人がいるらしい。
向こうでは働いても残るものが少ない。こっちなら賃金が出るし、家に送れる」
母上は小さく息を呑んだ。
「そんなに……」
「全員がそうとは言わない。でも、少なくともそういう人たちがいる」
俺は父上を見る。
「ハル領としては助かってる。
実際、この人たちがいなかったら、石切り場も西の森も工房も、もっと遅れてると思う」
「だが、グレイヴ領から見れば違う」
父上が低く言った。
俺は頷いた。
「自領の人間が、ハル領へ流れているように見える」
「税を取る相手が減る。畑を耕す人間も減る。何より面子が立たない」
父上は静かに言葉を続けた。
「相手があの侯爵なら、面白くは思わないだろうな」
グレイヴ侯爵。
その名が出るだけで、部屋の空気が少し重くなる。
母上が眉を寄せた。
「でも、こちらが無理に連れてきたわけではないのでしょう?」
「そうだ」
父上は頷いた。
「だが、政治の場では、事実だけではなく見え方も問題になる」
その言葉が、胸に残った。
事実だけではなく、見え方。
こちらが善意で受け入れていても、相手がそう見るとは限らない。
ハル領が発展した。
働き口が増えた。
だから他領の人が来た。
それだけの話のはずなのに、見る側が変われば、別の話になる。
ハル領が人を奪った。
そう言われる可能性がある。
「父上は、どう見る?」
俺が聞くと、父上は少し黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「働きに来た者を追い返す必要はない。
食べるために来ている者を追い返せば、ハル領の信用にも関わる」
「うん」
「だが、無防備に受け入れ続けるのも危うい」
父上は俺を見る。
「おまえの言う通り、誰が、どこから来て、どのような意思で働いているのか。
それを記録しておく必要があるな」
「うん。まずは出稼ぎの人たちの希望を聞くことにしたんだ」
俺は説明した。
「短期出稼ぎ。長期出稼ぎ。移住希望。この三つ」
父上は小さく頷いた。
「よい判断だ」
「それと、夏を越えて残る人には理由を聞く。
戻れって言うためじゃなくて、後で何か言われた時に守れるように」
母上が静かに言った。
「守るための記録なのね」
「うん」
母上は少しだけ表情を和らげた。
「食べるために来ている人たちを、ただ追い返すことはできないわ。
でも、受け入れるなら、ハル領にも責任が生まれるのね」
「そう思う」
俺は答えた。
「働いてくれる人たちを大事にする。でも、誰がどこにいるか分からない状態にはしない」
ノルが頷く。
「警備の面から見ても、その方がよいでしょう」
父上はもう一度、ゆっくり頷いた。
「本人の意思も記録しておけ」
「本人の意思?」
「ハル領が無理に引き留めたのではない。
本人が働くことを望んでいる。その記録だ」
「ああ」
確かに必要だ。
相手に言いがかりをつけられた時、口で説明するだけでは弱い。
出身領。
滞在期間。
働く意思。
賃金。
待遇。
家族の有無。
戻る予定があるのか。
移住を希望しているのか。
それらを残しておく必要がある。
前世で言えば、雇用記録のようなものだ。
この世界の領地運営でも、同じことが必要になる。
人を守るために。
領を守るために。
記録がいる。
◇
「それと」
父上は少し声を落とした。
「グレイヴ侯爵の耳に入れば、別の理屈を持ち出してくるかもしれん」
「別の理屈?」
「人の流れだけで済ませないかもしれない、ということだ」
父上は少し息を整えた。
母上が心配そうに父上を見る。
父上は片手を上げて、まだ大丈夫だと示した。
「ハル領が発展している。石切り場が動いている。街灯が増えている。
公爵領との取引もある。そこへ、グレイヴ領の民が流れている」
父上は俺を見た。
「相手がこちらを快く思っていなければ、どこを突いてくるか分からん」
「石切り場とか?」
俺が言うと、父上はわずかに目を細めた。
「可能性の一つだ」
はっきりとは言わなかった。
だが、それだけで十分だった。
いくつもの線が、嫌な形でつながり始めている。
「今のうちに、記録を整える」
俺は言った。
「出稼ぎの記録だけじゃなくて、石切り場の出荷記録、採掘記録、置き場の記録も」
「それがよい」
父上は頷いた。
「相手に難癖をつけられた時、こちらが慌てて記録を探すようでは遅い」
「うん」
母上が静かに言った。
「リオン、移住を望む人がいるなら、私にも知らせて。
家族を連れてくるとなれば、住む場所や食べ物のことも考えないといけないわ」
「分かった」
「働き手として受け入れるだけでは済まないもの」
母上の言葉は優しかった。
でも、重かった。
人を受け入れるというのは、労働力を増やすだけではない。
その人の暮らしを受け止めることでもある。
ハル領が発展すれば、人が集まる。
人が集まれば、領はさらに大きく動く。
だが、その分だけ責任も増える。
父上が小さく咳き込んだ。
「あなた」
母上がすぐに近づく。
父上はまた片手を上げたが、さっきより少し苦しそうだった。
「今日はここまでにしよう」
俺が言うと、父上は俺を見た。
「まだ決めることがある」
「続きは俺がまとめる。父上は休んで」
そう言うと、父上は少し驚いたような顔をした。
母上も、ノルも、わずかにこちらを見る。
俺は続けた。
「出稼ぎの帳面の項目を整理して、ノルと母上に確認してもらう。
父上には、明日短く報告する」
父上はしばらく黙っていた。
それから、静かに息を吐いた。
「……そうか」
「うん」
「では、頼む」
その一言は、思っていたより重かった。
父上が俺に仕事を任せた。
ただの手伝いではない。
領の判断につながるものを、俺に預けた。
胸の奥が少し締めつけられる。
「分かった」
俺はそう答えた。
母上が父上の背を支える。
「リオン、ノル。続きはまた話しましょう」
「うん」
俺たちは父上の部屋を出た。
扉が閉まる直前、父上がこちらを見ていた。
安心しているのか。
心配しているのか。
その両方のように見えた。
◇
小さな応接室へ移ると、俺はすぐに紙を広げた。
ノルと母上も向かいに座る。
「まず、出稼ぎの帳面に追加する項目を決めよう」
俺はそう言って、項目を書き出した。
書き出していくうちに、思ったより多くなった。
母上が紙を見て言う。
「これを全部、現場だけで管理するのは大変ね」
「うん。だから現場では最低限にする。詳しい聞き取りは屋敷側でも受ける形にしたい」
ノルが頷く。
「移住相談は、現場だけで判断させない方がよいでしょう」
「そうだね」
「それと、グレイヴ領出身者だからといって、まとめて疑うような形にはしない方がよろしいかと」
「それは絶対に避けたい」
俺はすぐに言った。
「必要なのは、疑うことじゃなくて、見えるようにすることだから」
母上が少し微笑んだ。
「その言い方なら、現場の人たちにも伝わりやすいわ」
俺は頷いた。
ハル領は、出稼ぎたちを追い返さない。
ただし、見えないまま増やさない。
本人の意思を確認する。
記録を残す。
必要なら守れるようにする。
そして、グレイヴ領から何か言われた時に、きちんと説明できるようにする。
それが今できることだった。
◇
話し合いが終わる頃には、外はかなり暗くなっていた。
廊下へ出ると、窓の向こうに領都の明かりが見えた。
街灯が灯っている。
冬より増えたとはいえ、まだ十分ではない。
それでも、少し前のハル領より、夜はずっと明るくなっている。