作品タイトル不明
第208話 ハル領の現状
翌朝。
久しぶりの自室で目を覚ました。
窓の外から聞こえる鳥の声。
遠くで働く使用人たちの足音。
ハル領に戻ってきたのだと、改めて感じる。
だが、心は落ち着かなかった。
昨日、父上を見た時に浮かんだ文字が、まだ頭から離れない。
《体力:大幅低下》
《魔力循環:弱》
《内臓負荷:高》
《回復力:低下》
《警告:長期静養必要》
父上は、大げさにするなと言った。
けれど、あれはただの疲れではない。
少なくとも、俺の目にはそう見えた。
支度を整え、部屋を出る。
朝食の席に向かうと、そこには母上だけがいた。
父上の席は空いている。
「母上、父上は?」
俺が聞くと、母上は少しだけ表情を曇らせた。
「今朝はまだ休んでいるわ」
「昨日より悪いの?」
「急に悪くなったわけではないの。ただ、疲れが抜けにくいみたい」
母上はそう言って、俺の前に座るよう促した。
俺は席に着いた。
朝食はいつも通り用意されている。
けれど、食堂の空気は少し静かだった。
「あなたには心配をかけたくなかったのだけれど」
母上が小さく言った。
「もう子ども扱いしなくていいよ」
俺がそう言うと、母上は少し寂しそうに笑った。
「そうね。学院でも、ずいぶん頑張ってきたものね」
「父上、仕事はしてたの?」
「できる範囲ではね。でも、起き上がれる時間が短くなっているの。
書類を見るだけでも疲れるみたいで」
やっぱりか。
父上は弱っているところを人に見せたがらない。
昨日も、俺を安心させようとしていた。
でも、屋敷の空気は隠しきれていなかった。
俺は朝食を少し口に運んでから、昨日感じた違和感を話した。
「昨日、帰ってくる途中で思ったんだけど、人や荷馬車が少なくなってない?」
母上の手が止まった。
「気づいたのね」
「うん。冬に戻った時より、街道の流れが鈍い気がした」
母上はしばらく考え、静かに頷いた。
「完全に止まっているわけではないの。でも、流れが鈍っているのは確かよ」
「父上の体調が原因?」
「それだけではないと思うわ。でも、お父様の判断を待っているものが増えているのは事実ね」
母上は指先をそっと重ねた。
「街灯の生産計画。青輝石と純石の配分。石切り場からの搬出。
ヴァレスト公爵領への輸出。西の森方面の人員の動き。どれも細かい判断が必要になるでしょう?」
「うん」
「お父様に負担をかけないように、皆が気を遣っているの。でも、その分、判断待ちのものが少しずつ増えているわ」
昨日、街道で感じた違和感がつながった。
人が怠けているわけではない。
領が完全に止まっているわけでもない。
ただ、どこかで流れが詰まり始めている。
「母上、領内の帳簿を見たい」
俺が言うと、母上は少し驚いた顔をした。
「帳簿を?」
「うん。まず数字を見たい。どこで流れが詰まっているのか、感覚だけじゃ分からないから」
母上は俺をじっと見た。
それから、静かに頷いた。
「分かったわ。でも、その前にお父様に許可をもらいましょう」
「うん」
◇
朝食の後、俺は母上と一緒に父上の部屋へ向かった。
父上は昨日と同じように、寝台に上半身を起こしていた。
顔色はまだよくない。
それでも、昨日より少し落ち着いているようには見えた。
「父上」
「リオンか。もう朝食は済ませたのか」
「うん。父上、領内の帳簿を見てもいい?」
父上は少し目を細めた。
「帳簿を?」
「昨日、街道の人や荷馬車が少なかった。母上からも、いくつか判断待ちが増えているって聞いた。だから、まず数字を見たい」
父上はしばらく黙っていた。
怒っているわけではない。
やがて、父上は少し申し訳なさそうに笑った。
「せっかくの休みだというのに、すまないな」
「いいよ。俺も気になってるから」
「そうか」
父上は軽く息を吐いた。
「では、見てくれ。リオンなら、私たちが見落としているものに気づくかもしれん」
「分かった」
「無理はするなよ」
「それは父上もでしょ」
父上は苦笑した。
「返す言葉もないな」
母上が少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに静かな心配へ戻った。
俺は父上の部屋を出て、小さな応接室へ向かった。
◇
応接室には、すでにノルと会計係が呼ばれていた。
机の上には、分厚い帳簿が何冊も置かれている。
街灯の生産記録。
青輝石の採掘量。
純石の搬出記録。
東の石切り場の出荷台帳。
ヴァレスト公爵領への輸出記録。
自領の工房への納入量。
売上と在庫。
俺はそれらを順に開いた。
数字を見る。
月ごとの変化を見る。
冬から今までの流れを追う。
街灯は、ハル領にとって重要な商品になりつつある。
青輝石だけではなく、純石も欠かせない。
青輝石の光を安定して使うには、純石をどう扱うかが重要になる。
少なくとも、俺はそう考えている。
けれど、帳簿を追っていくうちに、違和感がはっきりしてきた。
「街灯の生産量、冬からあまり増えてないね」
会計係が少し緊張したように頷いた。
「はい。需要はございます。ただ、工房での生産が追いついておらず……」
「青輝石の採掘量は落ちてない」
俺は別の帳簿をめくる。
「むしろ、東の石切り場からの搬出量はかなりある」
「はい。特にヴァレスト公爵領向けの出荷は、予定通り続いております」
ヴァレスト公爵領。
そこで作られているのは、平民向けの安価な卓上灯と携帯灯だ。
これは悪い流れではない。
一部の貴族だけでなく、平民の家にも明かりを届ける。
俺が望んでいた方向に近い。
「ヴァレスト公爵領への輸出は止めなくていい」
俺は言った。
「でも、自領の街灯に回る分が足りていない。
青輝石が足りないというより、生産管理が止まってるな」
ノルの表情が引き締まった。
「生産管理、ですか」
「うん。採れている。出ている。売れている。でも、自領の街灯生産は伸びていない」
俺は帳簿の数字をもう一度追った。
その時だった。
視界に、文字が浮かぶ。
《収支:表面上正常》
《生産量:停滞》
《青輝石:輸出優先》
《純石:管理粗雑》
《在庫記録:不整合》
《綻び:東の石切り場》
来た。
帳簿の数字と物の流れに、綻びの目が反応している。
俺は息を整え、さらに純石の記録を見た。
青輝石の記録は丁寧だった。
採掘量。
出荷先。
品質。
価格。
どれもある程度まとまっている。
だが、純石は違う。
採掘量の記録が大まかだ。
一部は低価値石として処理されている。
自領の工房への納入量も安定していない。
さらに、在庫記録と搬出記録が少し合わない。
また、視界に文字が浮かぶ。
《純石:低価値扱い》
《将来価値:高》
《管理不備:高》
《綻び:保管・配分》
俺は思わず帳簿に目を落としたまま、指を止めた。
青輝石だけじゃない。
純石がまとまって出るなら、東の石切り場は今後のハル領にとって重要拠点になる。
なのに、今の扱いは軽すぎる。
「リオン?」
母上が声をかけてきた。
俺は顔を上げる。
「純石の採取と管理が雑だと思う」
会計係が少し戸惑った顔をした。
「純石、でございますか」
「うん。青輝石より価値が低い石として扱っているのは分かる。
でも、街灯の生産を増やすなら、純石の量と保管場所をもっと正確に見ないといけない」
「現在は、石切り場ごとにまとめて報告を受けておりますが……」
「それだと足りない。採掘量、保管場所、工房への納入量、不要石として処理した量を分けて見たい」
ノルが少し身を乗り出した。
「純石が、それほど重要なのですか」
「今はまだ、青輝石ほど分かりやすい価値はない。
でも、今後の街灯には必要になる。
扱いを間違えると、後で取り返すのが大変になる」
全員が黙った。
俺が純石にこだわる理由を、完全に理解しているわけではないだろう。
それでも、俺の口調から重要だと感じたのだと思う。
俺は帳簿を並べ直した。
「問題は一つじゃない」
母上とノルが俺を見る。
「青輝石は採れている。ヴァレスト公爵領への輸出も必要。
だけど、自領の街灯生産に回す分が止まっている」
俺は次に、純石の帳簿を指す。
「それに、純石の管理が甘い。今のままだと、街灯の増産にも、将来の計画にも支障が出る」
「将来の計画?」
母上が聞いた。
「そこは、あとでちゃんと説明する。
でもまずは、東の石切り場を見たい。
帳簿だけ見ると、流れがそこで詰まってる」
ノルが頷いた。
「警備を兼ねて、私が同行いたします」
「お願い」
会計係は少し青ざめた顔をしている。
俺はすぐに言った。
「帳簿をつけている人だけの問題じゃないと思う。
そもそも、純石を重要なものとして扱う指示が出てなかったんだろうから」
会計係はほっとしたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
「でも、ここからは変えよう。今まで見ていなかったものを見る必要がある」
◇
帳簿を一通り確認した後、俺は父上の部屋へ戻った。
母上とノルも一緒だ。
父上は少し疲れているようだったが、俺たちを見ると体を起こそうとした。
「そのままでいいよ」
俺が言うと、父上は苦笑した。
「そうさせてもらおう」
「帳簿を見た」
「どうだった」
「街灯の生産量が伸びてない。青輝石は動いてるけど、配分が輸出寄りになっている。
ヴァレスト公爵領への輸出は必要だと思う。でも、自領の街灯用の分がうまく設計されていない」
父上は静かに聞いている。
「それから、純石の管理がかなり粗い。そこを見直さないといけない。
まずは東の石切り場を見たい」
父上は目を閉じ、少しだけ考えた。
「そうか。やはり、リオンに見てもらってよかった」
「まだ帳簿を見ただけだよ」
「それでもだ」
父上は少しだけ笑った。
その笑顔には力がなかった。
でも、俺を信じてくれていることは分かった。
◇
部屋を出た後、俺はもう一度、帳簿を閉じた時の表示を思い出していた。
《収支:表面上正常》
《生産量:停滞》
《純石:管理粗雑》
《綻び:東の石切り場》
街道の往来が少なかった理由。
街灯の生産が伸びない理由。
青輝石と純石の配分。
それらは、すべて東の石切り場につながっている。
本当は、ハル領の自室に転移魔法の目印を置くつもりだった。
王都の寮との行き来を試すつもりだった。
だが、それは後だ。
今やるべきことは、魔法の実験ではない。
領の流れを止めないことだ。
その日、俺はノルとともに、東の石切り場へ向かう準備を始めた。