軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第207話 ハル領への帰還

王都を出てから五日目。

馬車の窓から見える景色が、少しずつ見慣れたものに変わってきた。

遠くに見える森。

広がる畑。

王都へ向かう街道とは違う、少し土の匂いが濃い空気。

ハル領に戻ってきたのだと、自然に分かった。

だが、窓の外を見ているうちに、俺は少しだけ眉を寄せた。

冬に戻った時より、人の行き来が少ない。

前は、もう少し荷馬車が通っていた。

商人らしき人影も、冒険者の姿も、今より多かった気がする。

もちろん、日によって違いはある。

それでも、どこか街道の流れが鈍い。

「ミア」

「はい、リオン様」

「前より、人の行き来が少なくない?」

向かいに座っていたミアが、窓の外へ視線を向けた。

少しだけ答えに間があった。

「……そうですね。ここ数日は、少し落ち着いております」

「落ち着いてる、か」

ミアの言葉は丁寧だった。

だが、俺には少し引っかかった。

落ち着いているというより、何かが止まっているように見える。

ハル領は、少しずつ動き始めていたはずだ。

西の森の開拓。

青輝石。

新しい産業。

そのために人や物が動いていた。

なのに、今の街道は、冬に見た時より少し静かだった。

馬車はそのまま屋敷へ向かって進んでいく。

胸の奥に、小さな違和感が残った。

やがて、ハル家の屋敷が見えてきた。

馬車が屋敷の前で止まる。

御者が扉を開け、俺は馬車から降りた。

屋敷の前には、母上がいた。

その隣には、領騎士団長のノルも立っている。

屋敷の使用人たちも控えていた。

だが、そこに父上の姿はなかった。

「おかえり、リオン」

母上が微笑んだ。

「ただいま、母上」

俺はそう答えた。

ノルが深く頭を下げる。

「お帰りなさいませ、リオン様」

「うん。ただいま、ノル」

俺は周囲をもう一度見る。

やはり、父上がいない。

「あれ? 父上は?」

その瞬間、母上の表情が少しだけ曇った。

「この数日、少し具合が悪くて、部屋で休んでいるの」

胸の奥が、嫌な形で反応した。

父上の体調不良。

その言葉を聞いて、すぐに思い出したのはバスクのことだった。

以前、父上はバスクの企みによって、微量の毒を長く摂らされていた。

そのせいで体調を崩していた。

「また毒なの?」

俺が聞くと、母上はすぐに首を振った。

「医師は、あの時とは違うと言っているわ」

「違うんだ」

「ええ。ただ……」

母上は少し言葉を選んだ。

「あの時に落ちた体力が、完全に戻っていたわけではないみたいなの」

ノルも静かに続ける。

「急に命に関わる状態ではないと聞いております。

ただ、ここ数日は起き上がる時間が短くなっております」

命に関わる状態ではない。

その言葉だけを聞けば、安心できるはずだった。

だが、母上とノルの表情は、そう言い切れるほど軽くはなかった。

「父上に会える?」

俺が聞くと、母上は少しだけ迷った。

「旅の疲れもあるでしょう。先に休んでもいいのよ」

「先に父上に会いたい」

母上は俺の顔を見た。

それから、小さく頷く。

「分かったわ。でも、長くは話させないでね」

「うん」

その時、屋敷の使用人が俺の荷物を運ぼうとして、ミアが持っている小さな鞄を見た。

母上もそれに気づく。

「リオン、荷物はそれだけ?」

「うん。あとで説明するよ」

母上は少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。

ミアも自然な顔で鞄を持っている。

助かった。

今は亜空間収納の話をするより、父上の様子を確認したい。

母上に案内され、俺は屋敷の中へ入った。

久しぶりの屋敷。

見慣れた廊下。

磨かれた床。

壁にかけられた古い絵。

何も変わっていないように見える。

だが、空気は少し違った。

使用人たちは普段通り動いている。

けれど、声が小さい。

足音も、どこか控えめだ。

屋敷全体が、父上の体調を気遣っている。

そんな空気だった。

ノルは廊下の途中までついてきたが、父上の部屋の前で立ち止まった。

「私はここで控えております」

「分かった」

母上が扉を軽く叩く。

「あなた、リオンが帰ってきたわ」

少し間があった。

中から、父上の声が聞こえた。

「入ってくれ」

声は聞き慣れた父上のものだった。

だが、少し弱い。

母上が扉を開ける。

俺は部屋に入った。

父上は寝台に上半身を起こしていた。

枕を背にして、薄い上着を羽織っている。

顔色は、よくない。

冬に会った時より、頬が少し痩せて見えた。

それでも、俺を見ると父上は表情を緩めた。

「帰ったか、リオン」

「ただいま、父上。大丈夫なの?」

父上は小さく笑った。

「少し休んでいるだけだ。大げさにするな」

そう言う声には、いつもの父上らしさが残っていた。

だが、力は弱い。

俺は父上に近づいた。

その瞬間、視界が揺れるように変わった。

綻びの目が、勝手に反応した。

《体力:大幅低下》

《魔力循環:弱》

《内臓負荷:高》

《回復力:低下》

《警告:長期静養必要》

息が止まりそうになった。

毒そのものが、今の直接の原因ではない。

だがあの時、父上の体は確かに削られていた。

そして今、その体は思っていたよりも弱っている。

「どうした、リオン」

父上が俺を見る。

「いや……少し、驚いただけ」

「私が寝ているからか?」

「うん。父上が休んでるの、あまり見ないから」

父上は苦笑した。

「私も年を取ったということだ」

「まだそんな年じゃないでしょ」

「そう言ってくれるのはありがたいな」

母上がそばで静かに父上を見ている。

その目には、心配が隠しきれていなかった。

俺は父上の前に立ったまま、何を言うべきか少し迷った。

綻びの目で見たことを、そのまま言うべきではない。

余計に不安にさせるだけだ。

だが、見なかったことにもできない。

父上は俺の表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。

「学院はどうだった?」

「いろいろあったよ」

「そうか」

「三年Sクラスの一学期期末で、一位だった」

父上の目が少し大きくなった。

「一位か」

「うん」

「三年Sクラスで?」

「そう」

父上は、しばらく俺を見ていた。

それから、本当に嬉しそうに笑った。

「よくやったな、リオン」

その一言が、胸に響いた。

俺は思わず少しだけ視線を落とす。

「まだ一回だけだよ。五年へ飛べると決まったわけじゃない」

「それでも、大したものだ」

父上はそう言って、少し咳き込んだ。

「あなた」

母上がすぐに近づく。

父上は片手を上げた。

「大丈夫だ。少し話しすぎただけだ」

大丈夫。

そう言う父上の顔色は、やはりよくなかった。

俺の視界には、さっきの表示がまだ残っているような気がした。

《体力:大幅低下》

《回復力:低下》

《警告:長期静養必要》

嫌な文字だった。

「リオン」

父上が、少し落ち着いてから俺を見る。

「旅で疲れただろう。今日はもう休め」

「父上こそ休んで」

「私は十分休んでいる」

「それ、休めてない人が言うやつだよ」

父上が少しだけ笑った。

「学院で口も達者になったな」

「前からだと思う」

「そうかもしれんな」

母上が少しだけ笑った。

その一瞬だけ、部屋の空気が柔らかくなる。

だが、長くは続かなかった。

父上の肩が、少しだけ重そうに沈む。

母上がそれを見て、俺に目で合図した。

今日はここまで。

そういうことだろう。

「じゃあ、今日は休むよ」

「ああ。明日、また話そう」

「うん。無理しないでね」

「分かっている」

父上はそう言った。

だが、俺には分かってしまった。

父上の体は、本人が言うほど軽くない。

俺は部屋を出る前に、もう一度だけ父上を見た。

父上は笑っていた。

俺を安心させようとしている顔だった。

部屋を出ると、廊下は静かだった。

ノルが扉の近くで控えている。

俺を見ると、静かに頭を下げた。

「リオン様」

「ノル、父上はいつからあんな感じなの?」

「はっきりと悪くなられたのは、この数日です。

ただ、以前よりお疲れになりやすいご様子ではありました」

「そう」

俺は短く答えた。

母上も部屋から出てきた。

「リオン、今日は休みなさい。詳しい話は明日にしましょう」

「うん。分かった」

そう答えながらも、俺の胸は重かった。

ハル領に帰ってきた。

ただの夏休みの帰省のはずだった。

だが、街道の往来は冬より少なく、屋敷の空気は静かすぎた。

そして、父上の体には、俺が思っていた以上に深い綻びが見えた。

この夏休みは、静かには終わらない。

そんな予感がしていた。