作品タイトル不明
第188話 勉強疲れ
翌日も俺たちは朝から学院の図書室に集まっていた。
春休みとはいえ、学院の図書室は完全に空いているわけではない。
寮に残っている生徒たちが、次の学年に向けて資料を読んだり、課題を進めたりしている。
その中でも、俺たちの机の上は少し異様だった。
二年生用の魔法理論書。
実技理論の解説書。
筆記試験対策用の参考書。
机の上には、それらが山のように積まれていた。
「……改めて見ると、結構あるな」
ヴィクトルが参考書の山を見て、うんざりしたように言った。
「二年生の一年分だからな」
俺が答えると、ヴィクトルは肩をすくめる。
「分かってるけど、こうして積まれると心にくるんだよ」
言いたいことは分かる。
二年生の内容は、何もかもが未知というわけではない。
一年Sクラスで先取りして扱った内容もあるし、すでに解ける問題もある。
実際、セレナやエドガーは、かなりの範囲をすぐに理解していた。
ナディアも丁寧に読めば大きく崩れない。
ガイルも、実技に関わる理論なら理解が速い。
ヴィクトルは応用課題になると、相変わらず勘がいい。
ただ、だからといって何もしなくても大丈夫と言えるほど簡単ではなかった。
春休みの間にできるだけ埋めなければならない。
「まずは魔法理論の基礎から整理しましょう」
セレナが本を開きながら言った。
「二年の範囲は、一年で習った属性操作の延長に見えるけれど、魔力制御の精度がかなり細かくなるわ」
「筆記も、その辺りを前提に聞いてくる」
エドガーが続ける。
「用語を覚えるだけでは足りない。どう使うかまで理解していないと、難しい問題で詰まる」
「やっぱり楽はできないか……」
ヴィクトルが少しだけ顔をしかめる。
「ヴィクトルは応用課題は得意でしょう?」
ナディアが不思議そうに言うと、ヴィクトルは苦笑した。
「得意だからこそ、嫌な匂いが分かるんだよ。
たぶん中途半端に分かってる人ほど失敗するやつだ」
「それは確かにあるな」
俺も頷いた。
できる問題はある。
でも、それで油断すると危ない。
次に入る三年の授業では、一年と二年の内容を理解しているものとして話が進む。
分からないところが出てきてから戻るのでは遅い。
そう思うと、自然と机に向かう時間は長くなった。
◇
この春休みは休みとは思えない日々が続いた。
ガイルは黙々と問題に向かっている。
以前なら、理解できない問題にぶつかった時点で少し苛立っていたかもしれない。
だが今は、まず自分で読み、分からないところに印をつけ、それからナディアに聞いている。
「ここは、こういう意味か?」
「はい。そこまでは合っています。ただ、この条件が入ると、答え方が少し変わります」
「分かった。もう一度読む」
ガイルは素直に頷き、問題文へ視線を戻した。
その姿を見て、少し感心する。
強いやつが、ちゃんと分からないことに向き合える。
それは、それだけで強い。
一方で、ヴィクトルは参考書に頬杖をついていた。
「ヴィクトル、読んでる?」
セレナが聞く。
「読んでるよ」
「目が死んでいるわ」
「中身は入ってる。たぶん」
「たぶんでは困るのだけれど」
セレナが呆れると、ヴィクトルは軽く両手を上げた。
「分かってるって。勉強から逃げてるわけじゃない」
「苦手だから逃げたくなるんだろう」
ガイルが短く突っ込む。
「正論で刺すのやめてくれない?」
そんなやり取りをしながらも、全員、手は止めなかった。
◇
そんな日々が数日続いた頃だった。
図書室で二年の応用課題を確認していると、ローヴェン先生がやってきた。
先生は机の横に立ち、俺を見る。
「ハル。少し来い」
その一言で、何の件かはすぐに分かった。
福嶋亮太の本だ。
セレナも気づいたようだったが、何も言わなかった。
エドガーが一度こちらを見る。
だが、やはり何も聞かなかった。
「分かりました」
俺は席を立ち、ローヴェン先生について図書室を出た。
廊下に出ると、先生は歩きながら言った。
「王立研究所から連絡があった」
「本の件ですか」
「ああ。結論から言うと、読めなかったそうだ」
予想はしていた。
それでも、実際にそう聞くと、少し胸が重くなる。
「文字体系は不明。王国の古代文字でもない。
紙や装丁は古いが、保存状態は妙に良い。
表紙と中身の文字体系が違うことも説明がつかない」
「そうですか」
「それで、研究所はお前の協力を求めている」
やはり、そうなるか。
学院長にも言われていた。
王立研究所でも読めない可能性が高い。
その時は、俺に協力を求めることになる、と。
「時間の許す範囲で構わない。
学院長からも、三年に上がる準備を妨げすぎるなとは伝えてある」
「分かりました。協力します」
俺は頷いた。
あの本は、俺にしか読めない可能性が高い。
なら、俺が読まなければ、何も進まない。
◇
王立研究所は、王立学院とは別の敷地にある大きな建物だった。
石造りの壁。
高い天井。
研究員らしき人たちが、資料や器具を持って行き来している。
俺はローヴェン先生に連れられ、奥の部屋へ通された。
そこには、福嶋亮太の『魔法理論』が置かれていた。
周囲には数人の研究員がいる。
全員、真剣な顔だった。
「君がリオン・ハル君か」
年配の研究員が言った。
「はい」
「この本を読めると聞いている」
「はい、読めます。」
「まずは、読める範囲から確認したい」
俺は椅子に座り、本を開いた。
日本語の文章が目に入る。
読める。
読むだけなら、何の問題もない。
だが、すぐに分かった。
難しいのは、文字を読むことではない。
そこに書かれている概念を、この世界の言葉でどう説明するかだ。
「ここには、亜空間収納について書かれています」
「亜空間、とは?」
早速そこだった。
俺は少し言葉に詰まる。
「通常の空間とは別に、物を一時的に預けるための場所……と考えるのが近いと思います」
「別の空間を作るということか?」
「作るというより、入口を作って、そこに物を預ける感覚です」
「入口?」
研究員たちが顔を見合わせる。
説明しながら、俺は思った。
難しい。
俺の中には、前世の映像がある。
青いネコ型ロボットの不思議なポケット。
国民的RPGの移動魔法。
漫画やアニメで見た、残像のような動き。
それらを知っているから、福嶋亮太の説明は感覚的に分かる。
でも、この世界の人たちには、その前提がない。
「次に出てくるこの言葉は?」
研究員が別の箇所を指差す。
俺はその文字を見た。
漫画。
少し困った。
「絵と文字で物語を伝える本、のようなものです」
「挿絵付きの物語か?」
「近いですが、少し違います。絵そのものが連続して、動きや会話を表します」
「ふむ……」
研究員は真剣に書き留める。
だが、どこまで伝わっているかは分からない。
次に出てきたのは、アニメ。
さらに困った。
「動く絵、です」
「動く絵?」
「ええと……たくさんの絵を連続して見せることで、動いているように見えるものです」
「幻像魔法の一種か?」
「違います。魔法ではなく、前……」
言いかけて、俺は止まった。
前世。
その言葉をここで出していいのか分からなかった。
「別の文化にある表現方法のようなものです」
俺は言い換えた。
研究員は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
そして、RPG。
これが一番説明に困った。
「これは、物語の中で役割を持って冒険する遊び、のようなものです」
「遊び?」
「はい。ただ、その中に、一度行った町へ戻る魔法の概念があって……」
説明しながら、俺は福嶋亮太の苦労が少し分かった気がした。
伝えられない。
魔法の理論だけではない。
その魔法を思い浮かべるための土台そのものが、この世界にはない。
俺にとっては当たり前に近い映像や言葉が、この世界では一つ一つ説明しなければならないものになる。
福嶋亮太が、この本を日本語で残した理由。
それが、少しずつ実感として分かってきた。
◇
それからの日々は、机に向かう時間ばかりが増えていった。
朝から図書室で二年範囲の勉強。
呼ばれた日は、途中で王立研究所へ行き、福嶋亮太の本の翻訳に協力する。
終わればまた図書室へ戻る。
夕方まで参考書と資料に向かう。
寮に帰ってからも、その日の復習を少しだけする。
セレナは俺が疲れていることに気づいていた。
「リオン、今日はもういいわ」
「まだ少しできる」
「できるかどうかではなく、続けていい状態かどうかよ」
そう言われると、返す言葉がなかった。
実際、文字を追っていても、同じ行を何度も読んでいることが増えていた。
それは俺だけではない。
ガイルは明らかに鬱屈していた。
長時間机に向かっているせいで、肩が固まっているのが分かる。
ヴィクトルは、参考書に突っ伏す時間が増えた。
ナディアも、いつもより少し目元に疲れが見える。
セレナは平気な顔をしているが、口数が少なくなっていた。
エドガーも、公務と勉強を両方こなしているせいか、いつも以上に静かだった。
そんな日が続いたある夕方。
図書室の長机には、開かれた参考書と、書きかけの答案が広がっていた。
だが、誰の手もあまり動いていない。
最初に口を開いたのは、ヴィクトルだった。
「今日はもう無理だな」
いつもの軽口ではなかった。
本当に無理だ、という声だった。
ナディアも小さく頷く。
「少し休んだ方がいいかもしれません」
ガイルは黙っていたが、否定しなかった。
セレナも、しばらく資料を見つめた後、静かに本を閉じた。
「そうね。効率が落ちているわ」
ガイルが短く言う。
「明日は机から離れよう」
ガイルがそう言ったことで、全員の空気が少し変わった。
真面目なガイルが休みを提案するなら、かなり限界に近い。
俺も頷いた。
「そうだな。明日は休もう」
その瞬間、ヴィクトルが少しだけ顔を上げた。
「ようやく春休みらしい言葉が出たな」
だが、次の瞬間、ガイルが言った。
「体を動かしたい」
ヴィクトルの表情が止まる。
「……まさか」
「森へ行きたい。魔物討伐だ」
「それは休みじゃないだろ」
ヴィクトルが即座に言った。
だが、ガイルは真面目な顔のままだ。
「俺にはその方が休みになる」
「それは、ガイルだけの理屈だと思う」
「そうか」
「納得早いな」
俺は少し笑った。
だが、ガイルの言うことも分からなくはない。
ずっと机に向かっていたせいで、頭も体も重い。
森に出て体を動かすのは、気分転換として悪くない。
もちろん、無茶をするつもりはない。
軽めの依頼を選べばいい。
「俺は、少しならいいと思う」
俺が言うと、セレナも頷いた。
「私も。危険度の低い依頼なら、気分転換にはなるわ」
ヴィクトルが信じられないものを見るように俺たちを見た。
「机に疲れたから魔物討伐って、やっぱりおかしいよね?」
ヴィクトルはため息をついた。
エドガーは静かに首を振る。
「僕は明日、公務がある。参加できない」
「それは仕方ないな」
俺が言うと、エドガーは頷いた。
「気をつけて行ってくれ」
「俺は行かないよ」
ヴィクトルが即座に言った。
「俺はちゃんと休む。森に行ったら、さらに疲れる未来しか見えない」
「分かった」
無理に誘うつもりはない。
ヴィクトルにはヴィクトルの休み方がある。
これで参加するのは、俺、セレナ、ガイル。
そう思った時だった。
「私も行ってもいいですか?」
ナディアが静かに言った。
俺たちは、一斉にナディアを見る。
「ナディアも?」
俺が聞くと、ナディアは少しだけ照れたように頷いた。
「はい。ずっと机に向かっていましたし、私も少し体を動かしたいんです」
ナディアが加わるのは、正直かなり心強い。
剣も回復魔法も扱える。
何より、周囲を見るのがうまい。
森の中で彼女がいてくれるなら、パーティーとしてかなり安定する。
ガイルも短く言った。
「助かる」
セレナも頷く。
「ええ。ナディアが来てくれるなら心強いわ」
ナディアは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
ヴィクトルは椅子にもたれたまま、呆れたように言う。
「休みの日に森へ行く人たちが、また一人増えた」
「ヴィクトルはしっかり休んでくれ」
「言われなくても休むよ」
その言い方に、少しだけ笑いが起きた。
明日は、久しぶりに森へ出る。
机に向かい続けた日々で、頭も体も重くなっていた。
休み方として正しいのかは分からない。
けれど、今の俺たちには、きっと必要な一日だった。