作品タイトル不明
第187話 学院長への報告
ローヴェン先生は、福嶋亮太の『魔法理論』を慎重に手に取った。
「行くぞ」
ローヴェン先生が短く言う。
「この件は、学院長に直接報告する」
「はい」
俺とセレナは頷き、研究室を出た。
静けさの中で、俺たち三人の足音だけがやけにはっきり響いていた。
ローヴェン先生は何も言わない。
セレナも口を開かなかった。
俺も、何を言えばいいのか分からなかった。
◇
学院長室の前に着くと、ローヴェン先生は一度だけ俺たちを振り返った。
「色々と言いたいことはあるかもしれないが、ここでは確認できた事実と、読めた内容を伝えよう」
「はい」
「分かりました」
俺とセレナが答えると、ローヴェン先生は扉を叩いた。
「どうぞ」
中から、低い声が返ってくる。
学院長室へ入ると、白髪交じりの髪に、温和な顔をした学院長は机の向こうで書類に目を通していた。
学院長は俺たちを見て、眉を少しだけ上げた。
「ローヴェン。春休み初日から物騒な顔をしてるな」
「緊急に報告すべきことがあります」
「まぁ、まずは座れ」
学院長は短く言った。
俺たちは椅子に座る。
ローヴェン先生は、持っていた古い本を机の上に置いた。
「王立図書館の古書です。表紙には魔法理論とあります」
「古書?」
学院長は本を見る。
それから表紙へ目を落とした。
「魔法理論、か。それがどうかしたのか?」
「問題は中身です」
ローヴェン先生が言うと、学院長は本を開いた。
しばらくページを見つめる。
そして、すぐに顔を上げた。
「読めん」
あまりにも短い一言だった。
学院長は本をローヴェン先生の方へ少し押した。
「ローヴェン。お前は?」
「私にも読めません。
古代文字でも、王国の古文書に見られる文字でもありません」
ローヴェン先生が、これまでの経緯を簡潔に説明した。
王立図書館でリオンがこの本を見つけたこと。
著者名として福嶋亮太という名前が出てくること。
本人の記述では、アルスレイン王国の建国に関わったらしいこと。
そして、現代の学院では扱われていない魔法理論が記されていること。
学院長は黙ってローヴェン先生の話を聞いていた。
途中で口を挟まない。
ただ、転移という言葉が出た瞬間だけ、目が少し細くなった。
「転移が発動したのか」
学院長が低い声で言う。
俺は頷いた。
「はい。訓練場の端から端だけです。ただ、実際に移動しました」
「ヴァレスト」
学院長がセレナを見る。
「見たのか」
「はい。私も見ました。リオンが一瞬で訓練場の反対側へ移動しました」
学院長はしばらく黙った。
その沈黙だけで、この魔法の重さが伝わってくる。
やがて、学院長は本を閉じた。
「この本は私が預かろう」
即断だった。
「王立図書館にはこっちから話を通す。
こんなものを普通の棚に戻すわけにはいかん」
「はい」
ローヴェン先生が頷く。
「王立研究所にも回す。文字、紙、装丁、魔法理論。
調べることはいくらでもある」
王立研究所。
王国の魔法研究や古文書、魔道具の調査を担う機関だ。
学院とは別組織だが、王立学院とは研究上のつながりがあると聞いたことがある。
学院長は俺を見る。
「ただし、研究所でも読めん可能性は高い。その時は、ハル」
「はい」
「悪いが、君に協力してもらうことになる」
「分かりました」
「分かりました、で済む話じゃないぞ」
学院長の声が少しだけ低くなった。
「お前が読めるということ自体が、相当重い」
「……はい」
その通りだった。
福嶋亮太の本は、この世界の誰にも読めないかもしれない。
だが、俺には読める。
その事実が、少しずつ自分の上に乗ってくる。
学院長は続けた。
「ハル、ヴァレスト」
「はい」
「この本のことは口外するな。友人、家族にもだ」
エドガーにも、ガイルにも、ナディアにも、ヴィクトルにも話せない。
それは当然だ。
だが、少しだけ苦かった。
「今はまだ、話を広げる段階じゃない」
「承知しました」
セレナが静かに答える。
俺も頷いた。
「分かりました」
「もう一つ」
学院長は机の上の本を軽く叩いた。
「ここに書かれている魔法は、人前で使うな。亜空間収納も、浮遊も、転移もだ」
「はい」
俺は深く頷いた。
学院長はローヴェン先生へ視線を移した。
「ローヴェン。この件は、お前が窓口になってくれるか。
研究所と図書館への連絡は私がする」
「承知しました」
「ハルとヴァレストへの連絡も、当面は君を通すこととしよう」
「はい」
学院長はもう一度、本を見た。
「フクシマ リョータ、か」
聞き慣れない名前が、学院長の口から出る。
ローヴェン先生が頷いた。
「はい。少なくとも、一般的な建国史には出てきません。
ただ、建国期の記録には欠落も多くあります」
「表に出なかった協力者、か」
学院長は短く息を吐いた。
「厄介だな。魔法だけじゃなく、王国史にも触れる」
それ以上は言わなかった。
「話は以上だ」
学院長は本を手元に引き寄せた。
「ハル、ヴァレスト。この本のことが気になるだろうが、まずは三年に上がる準備をしっかりしよう」
「はい」
「二年の範囲を飛ばすんだ。そっちの方も軽く見てはいかんぞ」
「分かりました」
学院長は少しだけ目を細めた。
「ハル。気を付けるんだぞ」
刺さる。
「……気をつけます」
学院長はそれで話を切った。
ローヴェン先生が立ち上がり、俺たちも続く。
福嶋亮太の『魔法理論』は、学院長の机の上に残った。
◇
学院長室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
本は、もう手元にない。
それだけで、妙に軽くなったような、逆に落ち着かないような気分だった。
「リオン」
セレナが隣で言った。
「正しい判断だったと思うわ」
「ああ」
俺は頷く。
ローヴェン先生が振り返る。
「ハル、ヴァレスト」
「はい」
「学院長の言った通りだ。この件は私が窓口になる。何かあれば私に言え」
「分かりました」
「それと、春休み中の自習を疎かにするな」
ローヴェン先生はいつもの調子に戻っていた。
「三年に上がってから、二年の範囲が分かりませんでは話にならん」
「はい」
俺とセレナは、同時に返事をした。
◇
その日の午後。
俺とセレナは、学院の図書室へ向かった。
春休みに入ったとはいえ、図書室には何人かの生徒が残っていた。
短い休みの間に、次の学年の準備を進めているようだった。
奥の長机には、すでにエドガー、ナディア、ガイル、ヴィクトルが集まっていた。
机の上には、二年生用の魔法理論の参考書や、応用課題の過去資料、実技理論の解説書が広げられている。
どうやら俺たちが来る前から、飛び級に向けて二年の学習内容を確認していたらしい。
俺たちが近づくと、ヴィクトルが顔を上げた。
「二人とも、遅かったな」
「少し、ローヴェン先生に相談してた」
「春休み初日から先生に相談って、真面目すぎないか?」
ヴィクトルが肩をすくめる。
その軽さに、少しだけ救われた気がした。
セレナが淡々と言う。
「今はそれより、二年の範囲をどう埋めるかよ」
「逃げたな」
「逃げていないわ。優先順位を変えただけよ」
「それを逃げたって言うんじゃないか?」
ヴィクトルが笑う。
だが、エドガーは俺とセレナを一度だけ見て、何も言わなかった。
気づいているのかもしれない。
何かあったことには。
でも、聞かない。
そういうところがエドガーらしかった。
俺は机の上に広げられた参考書や資料を見る。
二年の範囲。
魔法理論。
応用課題。
実技理論。
そして筆記で問われる基礎知識。
思っていた以上に量がある。
学院長が言っていた通り、三年では一年と二年の内容を理解している前提で授業が進む。
この春休みで、少なくとも大きな穴は埋めなければならない。
俺がそう言うと、ヴィクトルが目の前の参考書の山を見て、深く息を吐いた。
「春休みって、休みって意味じゃなかったっけ?」
誰かが小さく笑った。
けれど、誰も席を立とうとはしなかった。
俺たちは、三年生になるための準備を始めることになった。