作品タイトル不明
第186話 報告すべき相手
訓練場に、しばらく沈黙が落ちていた。
俺は福嶋亮太の『魔法理論』を閉じる。
セレナは、木剣が消えた場所と、俺が転移した訓練場の端を交互に見ていた。
この本に書かれている魔法に成功した瞬間から、俺の中に湧いてきたのは喜びだけではなかった。
これは、まずい。
便利だとか、すごいとか、そういう話で済む魔法じゃない。
「リオン」
セレナが静かに言った。
「これは、面白い魔法を見つけた、で済むものじゃないわ」
「ああ」
俺も否定できなかった。
「俺たちだけで扱うには、大きすぎるな」
「ええ」
セレナは本を見た。
「それに、この本をどうするかも、私たちだけで決めるべきではないと思う」
「……確かに」
王立図書館に返せば、また元の棚に戻る。
そうなれば、誰かが偶然手に取る可能性はある。
ただし、この文字を読める人間はおそらくほとんどいない。
だから安全だと言えるかもしれない。
だが、本当にそうか。
俺が読めた。
なら、いつか別の誰かが読める可能性もある。
「……そうだな。俺が勝手に判断するには大きすぎる」
「そう思うわ」
セレナは少し表情を緩めた。
「だから、まずは大人に渡すべきよ」
「学院長か?」
「直接行くより、まずはローヴェン先生だと思う」
「ローヴェン先生?」
俺が聞き返すと、セレナは真面目な顔で頷いた。
「先生は王国史の研究者でもあるでしょう。
特に建国期の古文書や王立図書館の蔵書には詳しいはずよ」
「ああ……そうか」
言われて、すぐに納得した。
この本は、ただの魔法書ではない。
福嶋亮太という人物は、本人の記述によれば、アルスレイン王国の建国にも関わっているらしい。
つまり、魔法だけの話ではない。
王国史にも関わる。
しかも王立図書館の古書だ。
最初に相談すべき相手として、ローヴェン先生以上の人はいないかもしれない。
「分かった」
俺は本を鞄に戻した。
「このまま、ローヴェン先生の研究室へ行こう」
「今から?」
「ああ。急いだ方が良いだろ?」
「……それもそうね」
セレナは小さく頷いた。
◇
訓練場を出て、俺たちはローヴェン先生の研究室へ向かった。
向かう途中、俺は考えた。
もし転移魔法が広まったらどうなる。
もし亜空間収納が使える者が増えたらどうなる。
もし術式解除や探知魔法まで実用化されたら。
頭の中に、いろいろな可能性が浮かんでは消える。
そのたびに、俺は思う。
やはり、俺たちだけで決めていいものではない。
ローヴェン先生の研究室が近づくにつれ、少しだけ緊張が増した。
「リオン」
「ああ」
「あなたが読める理由については、無理に話す必要はないと思うわ」
俺は少しだけセレナを見た。
「いいのか?」
「今大事なのは、あの本の内容と、実際に起きた魔法でしょう」
セレナは静かに言った。
「あなたの秘密を無理に明かすことではないわ」
「……助かる」
セレナは少しだけ口元を緩めた。
俺は扉を叩く。
「どうぞ」
中から、ローヴェン先生の声がした。
◇
研究室に入ると、独特の紙の匂いがした。
棚には古い本や巻物が並んでいる。
机の上には、古文書の写しが広げられていた。
ローヴェン先生は机に向かって何かを書いていたが、俺たちを見ると少しだけ眉を上げた。
「春休み初日から、二人揃って何だ」
いつもの声だった。
だが、俺とセレナの表情を見たのだろう。
先生の目がすぐに変わった。
「……何があった」
俺は一度息を吸った。
「先生。王立図書館で借りた古書について、相談したいことがあります」
「古書?」
ローヴェン先生の視線が鋭くなる。
セレナが続けた。
「建国期に関わる可能性があります。
さらに、魔法理論としても極めて異質です」
その言葉で、ローヴェン先生の表情が完全に変わった。
もう、生徒の相談を聞く顔ではない。
研究者の顔だった。
「そこに座ってくれ」
短く言われ、俺たちは研究室の椅子に腰を下ろした。
ローヴェン先生は机の上の資料を脇へ寄せる。
「順番に話せ。まず、その本は今どこにある」
「ここにあります」
俺は鞄から福嶋亮太の『魔法理論』を取り出した。
ローヴェン先生はすぐには手に取らなかった。
まず、表紙を見た。
「魔法理論……表紙は普通だな」
「はい。ですが、中身は違います」
「開いていいか」
「はい」
ローヴェン先生は慎重に本を開いた。
最初のページを見た瞬間、眉間に皺が寄る。
「……何だ、この文字は」
やはり、ローヴェン先生にも読めない。
先生はページをめくる。
一枚、また一枚。
表情はどんどん険しくなっていった。
「少なくとも、私が知る古代文字ではない。王国の古文書にも、見覚えがない」
セレナが静かに言う。
「私も読めませんでした」
ローヴェン先生の視線が俺へ向く。
「ハル」
「はい」
「お前は、これを読めるのか」
来ると思っていた問いだ。
俺は一瞬だけ黙った。
だが、ここで誤魔化しても意味がない。
「……はい」
ローヴェン先生の目がさらに鋭くなる。
けれど、すぐに追及はしなかった。
「この本には何が書かれていた?」
「福嶋亮太という人物の名前がありました」
「フクシマ、リョータ……」
ローヴェン先生は聞き慣れない響きを確かめるように繰り返した。
「聞かない名だな。少なくとも、一般的な建国史には出てこない」
「では、存在しない人物ですか?」
思わず聞いた。
ローヴェン先生は首を振る。
「そうとは限らん。建国期の記録には欠落が多い。
表に残らなかった協力者がいた可能性はある」
その言葉に、胸の奥が少し動いた。
福嶋亮太は、正史には残っていない。
だが、存在しなかったとは限らない。
「本には、本人がアルスレイン王国の建国に関わったと書かれていました」
「……建国に」
ローヴェン先生の声が低くなる。
「それが事実なら、王国史そのものに関わる話だ」
「はい」
「魔法理論として異質、というのは?」
ローヴェン先生が本から視線を上げる。
俺はセレナと一度目を合わせた。
セレナが小さく頷く。
俺は話し始めた。
「本に載っていた魔法の一部を、訓練場で試しました」
ローヴェン先生の目が細くなる。
「試した? 何を試したんだ」
「亜空間収納、浮遊、転移です」
研究室の空気が、一瞬止まった。
「……転移?」
ローヴェン先生の声は低かった。
「はい。訓練場の端から端だけです。ただ、実際に移動しました」
セレナが続ける。
「私も見ました。リオンは一瞬で、訓練場の反対側へ移動しました」
ローヴェン先生はしばらく黙っていた。
その沈黙が重い。
やがて、先生は本をゆっくり閉じた。
「他の誰かに話したか」
「いいえ。どう扱うべきか、先生に判断して頂こうと思って来ました」
ローヴェン先生はそこで、初めて少しだけ表情を緩めた。
「正しい判断だ」
短い言葉だった。
だが、その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
ローヴェン先生は、閉じた本に視線を落とす。
「この本に書かれている内容は、すべて分かるのか?」
「はい。書かれている内容自体は、読めます」
「その魔法以外には、どのようなことが書かれていた?」
「他にもいくつか魔法を紹介していました。
探知、幻像、術式解除、簡易鑑定、脱出魔法などです。
ただ、それ以外は日記のような記述が多いです」
ローヴェン先生の表情が、さらに険しくなった。
「……それらが、ただ書かれているだけではなく、実際に使えたのだな」
「はい。すべてではありませんが、亜空間収納、浮遊、転移は小規模ですが発動しました」
先生は少し黙った。
それから、低い声で言った。
「ハル。ここに書かれている魔法で、今この場で危険なく見せられるものはあるか」
俺は少し考えた。
転移は論外だ。
浮遊も、この研究室で試すべきではない。
「亜空間収納なら、たぶん見せられます」
「やれ。ただし、危険を感じたら即座に止めろ」
「はい」
俺は机の上に置かれた福嶋亮太の本を見た。
さすがに、この本を入れるわけにはいかない。
俺は鞄を下ろし、中身を確認する。
空にしてから、その鞄だけを手に取った。
先程と同じように、目の前の空間へ魔力を集める。
最初よりは、少しだけ感覚が掴めている。
空間の一点に、入口を作る。
空気が薄く歪んだ。
ローヴェン先生の目が、わずかに見開かれる。
「……何だ、それは」
「亜空間の入口、だと思います」
俺は鞄の先を、その歪みに近づけた。
鞄の端が、すっと消える。
そのまま押し込むと、鞄全体が空間の向こうへ入っていった。
俺が魔力を切ると、歪みは消える。
研究室に、俺の鞄はなくなっていた。
ローヴェン先生は、しばらく何も言わなかった。
セレナも黙っている。
俺はもう一度、同じ場所に入口を作った。
手を入れる。
指先に鞄の感触があった。
それを掴み、引き出す。
消えたはずの鞄が、何事もなかったように俺の手元へ戻ってきた。
「……収納した、ということか」
ローヴェン先生が低く言った。
「はい。少なくとも、そういう魔法だと思います」
「浮遊と転移も、同じ本の理論で発動したのだな」
「はい。浮遊は数十センチ程度、転移は訓練場の端から端までです」
ローヴェン先生は、ゆっくりと息を吐いた。
「十分だ」
その一言は、重かった。
研究室の空気が、さっきよりさらに張り詰める。
ローヴェン先生は、しばらく本を見ていた。
「これは王国の歴史と魔法理論に関わる話だ。
私の方から学院長に話をしよう」
「はい」
俺とセレナは自然と背筋を伸ばした。
「ハル、お前がこの文字を読める理由については、今は後回しでいい」
俺は目を上げた。
ローヴェン先生は、静かにこちらを見ていた。
「今重要なのは、本の危険性と、実際に発動した魔法だ」
「はい」
「それと」
ローヴェン先生は俺をまっすぐ見た。
「二人とも、よくそこで止めた」
その言葉に、セレナが小さく息を吐いた。
「止めたのはセレナです」
俺が言うと、ローヴェン先生はセレナを見た。
「正しい判断だ」
「ありがとうございます」
セレナは静かに頭を下げた。
「特にハル、お前は、できると思った時に踏み込みすぎるところがある」
「……はい」
「今回もそうだ。だが、その後に大人へ持ってきたことは評価する」
「はい」
耳が痛い。
だが、言い返すことはなかった。
まったくその通りだからだ。
ローヴェン先生は机の上にあった資料を閉じ、本を慎重に手に取った。
「行くぞ」
短く言う。
「この件は、学院長に直接報告する」
俺は頷いた。
福嶋亮太の残した本によって、事態は思わぬ方向へ動き出した。