軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第185話 読めない魔法理論

春休み初日。

学院は、いつもより静かだった。

授業のない校舎は、同じ場所なのに少しだけ別の建物のように感じる。

寮生の多くは学院に残っているとはいえ、今日は休みの初日だ。

急いで教室へ向かう必要もなければ、教師に呼ばれて走る必要もない。

そんな中、俺は鞄の中の一冊の本の重さを、妙にはっきり感じながら歩いていた。

福嶋亮太の『魔法理論』。

王立図書館で見つけた古い本。

表紙はこの世界の文字で書かれているのに、中身は日本語で書かれている。

そして、そこには今の学院では教えられていない魔法が載っている。

訓練場へ入ると、セレナはすでに来ていた。

「早いな、セレナ」

「少し気になっていたのよ。あなたが見せたい本というのが、どういうものなのか」

「そんなに怪しいものではない……と思いたい」

「その言い方がもう怪しいわ」

セレナは呆れたように言った。

けれど、表情は真剣だった。

俺は訓練場の端にある長椅子の上に鞄を置き、古い本を取り出した。

革の表紙。

この世界の文字で書かれた『魔法理論』。

それだけ見れば、ただの古い魔法書だ。

「それが、例の本ね」

「ああ」

俺は本を開いた。

セレナが横から覗き込む。

その瞬間、彼女の眉が動いた。

「……何、この文字」

「読めないか?」

「少なくとも、私が知っている文字ではないわ」

セレナはページをじっと見つめる。

それから、ゆっくりと俺を見る。

「あなたは、これを読めるの?」

来ると思っていた質問だった。

それでも、すぐには答えられなかった。

「……読める」

「どうして?」

「そこは、まだうまく説明できない」

セレナはしばらく黙っていた。

責めるような目ではない。

ただ、分からないものを前にして、慎重に距離を測っている顔だった。

「そう。なら今は聞かないわ」

「助かる」

「でも、この文字だけでも十分に異常よ」

セレナはもう一度、本へ視線を落とした。

「それで、この本を書いた人は誰なの?」

「福嶋亮太」

俺がそう言うと、セレナは聞き慣れない音を確かめるように、ゆっくり繰り返した。

「フクシマ、リョウタ?」

「ああ」

「それは、人の名前なの?」

「たぶん」

「たぶん?」

「少なくとも、本にはそう書かれている」

セレナは少し考え込む。

「王国の人間の名前ではないわね。

南方でも、東方でも、北方でも聞いたことがない響きだわ」

当然だ。

この世界に、日本人の名前などあるはずがない。

そう思ったが、口には出さなかった。

「この本には、いくつか独自の魔法が載っている」

俺は話を進めた。

「今日は、その中のいくつかを試してみたい」

「危なくない範囲で、でしょうね」

「ああ。そのつもりだ」

「そのつもり、という言い方が少し不安だけれど」

セレナはそう言いながらも、止めはしなかった。

最初に開いたのは、亜空間収納の項目だった。

「まず試したいのは、亜空間収納という魔法だ」

「亜空間?」

セレナがすぐに聞き返した。

「俺も正確には分からない。ただ、本にはそう書かれている」

「亜空間……」

セレナはその響きを確かめるように呟く。

「学院の魔法理論では聞いたことがないわ」

「本の説明だと、物を消すんじゃない。

目に見えない別の場所へ、一時的に保管する魔法らしい」

「別の場所へ保管する?」

「そういう感覚に近いと思う」

「分かるようで、分からないわね」

「俺も、完全には分かってない」

ただ、イメージはできる。

前世で子どもの頃に何度も見た、ネコ型ロボットのアニメ。

腹についた不思議なポケットから、何でも取り出す道具。

福嶋亮太の説明を読んだ時、俺は自然とあれを思い浮かべた。

この世界の人間には、たぶんその映像がない。

でも、俺にはある。

だから、分かってしまう。

俺は訓練場の中央に立ち、手を前へ出した。

まず、魔力を集める。

火でもない。

水でもない。

風でも土でもない。

空間に、物を入れるための口を作る。

そう意識した。

だが、うまくいかない。

目の前の空気がわずかに歪んだだけで、すぐに消えた。

「失敗?」

セレナが聞く。

「たぶん」

もう一度やってみる。

今度も、空気が揺らいだだけだった。

何かが足りない。

そこで、綻びの目を使う。

視界に文字が浮かんだ。

《入口形成:不安定》

《魔力固定:不足》

《綻び:輪郭の崩れ》

《原因:取り出し側の意識過多》

取り出し側。

俺は思わず息を吐いた。

入れる前から、取り出すことまで考えすぎている。

まず作るべきなのは、収納するための入口だ。

取り出すことは後でいい。

俺はもう一度、手を前へ出した。

不思議なポケット。

手を入れれば物が入る。

必要な時に取り出せる。

今は、その入口だけでいい。

空間の一点に、魔力を固定する。

今度は、感覚が違った。

目の前の空気が、薄く裂けるように歪む。

黒い穴ではない。

光っているわけでもない。

ただ、そこだけ空間の見え方が違う。

空気に、手を入れられるほどの違和感が生まれていた。

セレナが息を呑む。

「……何、今の」

「入口、だと思う」

「入口?」

「試してみる」

俺は訓練場の端に並んでいた木剣の一本を手に取った。

セレナが少しだけ身構える。

「本当に入れるの?」

「ああ。木剣なら、万が一壊れても危険は少ない」

「そういう問題かしら」

それでもセレナは見守った。

俺は木剣の先を、目の前の歪みに近づける。

木剣の先が、消えた。

抵抗はない。

そのまま押し込む。

半分。

さらに奥へ。

最後には、柄まで完全に消えた。

俺が魔力を切ると、空間の歪みも消える。

セレナはしばらく木剣が消えた場所を見ていた。

「……消えた?」

「消したんじゃない。入れた」

「同じことにしか見えないわ」

「俺にもそう見える」

俺は苦笑しながら、もう一度入口を作った。

さっきより少しだけ早くできる。

手を入れる。

何もない空間に手を突っ込んでいるような、妙な感覚だった。

でも、指先に確かに木剣の感触がある。

それを掴み、引き出した。

さっき入れた木剣が、何事もなかったように訓練場へ戻ってくる。

セレナが目を見開いた。

「本当に……戻ってきた」

「ああ」

成功した。

俺は木剣を見ながら、少しだけ息を吐いた。

入口を作るだけで、思った以上に集中力を使う。

今はこれが限界だろう。

もしこれを安定して使えるようになれば、冒険でも、領地運営でも、運搬でも、かなり使える。

しかも本の記述によれば、亜空間内では外界の温度や湿気の影響を受けにくい。

食料や薬草の劣化も、かなり抑えられるらしい。

ただ物を入れるだけではない。

保存にも使える。

それだけでも、チートすぎる魔法だ。

「次は?」

セレナが警戒した声で言った。

「浮遊魔法」

「浮遊?」

「風魔法の発展形らしい」

俺は本の該当箇所を開いた。

福嶋亮太の説明は、やはり妙に読みやすい。

飛ぶというより、落ちる力を風と魔力で受け流す。

体を持ち上げるのではなく、体にかかる重さの感覚を薄くする。

そういう説明だった。

「風で体を押し上げるのとは違うの?」

セレナが聞く。

「たぶん違う。無理に押すというより、落ちる力を逃がす感じだと思う」

「それも、学院では聞いたことがないわ」

「俺もない」

俺は訓練場の中央で、足元に魔力を集めた。

風魔法を使う。

ただし、下から強く吹き上げるのではない。

体の周りに薄く流し、重さの感覚を削る。

一回目。

足元がわずかに軽くなった気がした。

だが、次の瞬間、普通に足が地面についたままだと分かる。

失敗。

二回目。

今度は体が少し傾いた。

「ちょっと、危ないわよ」

セレナが一歩近づく。

「大丈夫。まだ倒れてない」

「倒れてからでは遅いのよ」

それはそうだ。

俺は綻びの目で、自分の魔法を確認した。

《浮遊姿勢:不安定》

《魔力配分:右側に偏り》

《風圧制御:過剰》

《綻び:重心固定》

重心固定。

ただ浮かせるのでは駄目だ。

体の中心を決める。

そこを基準に、重さを薄くする。

三回目。

今度は、足元からふっと力が抜けるような感覚があった。

地面が遠くなる。

いや、俺の体が浮いていた。

ほんの数十センチ。

それでも、確かに浮いている。

セレナが呆然と呟いた。

「本当に浮いた……」

数秒で限界が来た。

俺はゆっくり地面に降りる。

足がついた瞬間、少しだけ膝に力が抜けた。

「自由に飛び回るのは、まだ無理だな」

「当たり前よ。今のだけでも十分おかしいわ」

「でも、落下を緩めるくらいなら、訓練すればできそうだ」

「それだけでもかなり有用よ」

セレナは真剣な顔で言う。

「高所から落ちた時、崖や塔で足場を失った時、戦闘中に体勢を崩した時。

使い道はいくらでもあるわ」

「だな」

亜空間収納ほど派手ではない。

だが、浮遊魔法もまた、この世界ではチートと言えるだろう。

そして、俺は次のページを開いた。

転移魔法。

国民的RPGに出てくる、一度行った町へ戻る魔法。

福嶋亮太の説明は、そこから始まっていた。

ただし、この世界で再現するには制限がある。

一度行った場所の魔力の癖を覚える。

そこに自分の魔力で目印を置く。

今いる場所と目印をつなぐ。

その線に沿って、自分の位置を移す。

距離が遠いほど魔力を使う。

知らない場所へは飛べない。

結界や強い魔力の乱れがある場所では、安定しない。

そして、使えば使うほど、魔力の通し方に体が慣れる。

消耗は少しずつ減り、飛べる距離も広がる。

そう書かれていた。

「次は何?」

セレナが聞く。

「転移魔法」

その言葉に、セレナの表情が固まった。

「……転移?」

「ああ」

「場所を移動する魔法、という意味?」

「たぶん」

「たぶんで試していい魔法じゃないわよ」

「訓練場の端から端だけだ。遠くへ飛ぶつもりはない」

俺は訓練場の反対側を指した。

見えている距離。

歩けばすぐ行ける場所。

それでも、初めて試すには十分だ。

俺はまず、訓練場の端まで歩いた。

そこに魔力を少しだけ残す。

目印。

そう意識する。

それから元の位置へ戻った。

セレナは不安そうに見ている。

「本当にやるの?」

「ここでやめた方がいい気もする」

「なら、やめなさい」

「でも、今なら少し分かる気がする」

「そういうところが一番危ないのよ」

返す言葉がない。

だが、分かる気がするのも本当だった。

一度行った場所へ戻る。

国民的RPGで、何度も使った魔法。

町へ戻る。

拠点へ戻る。

そのイメージが、俺の中にはある。

福嶋亮太の説明は、その感覚に妙に重なった。

俺は息を整えた。

今いる場所。

先ほど魔力の目印を置いた場所。

二つをつなぐ。

次の瞬間、体の内側から魔力がごっそり引き抜かれるような感覚があった。

視界がぶれる。

足元の感覚が消える。

そして、一瞬後。

俺は訓練場の反対側に立っていた。

「リオン!?」

セレナの声が遠くから聞こえた。

いや、遠くからではない。

さっきまで近くにいたセレナが、今は訓練場の向こう側にいる。

成功した。

俺自身も、少し遅れてそれを理解した。

ただ、体が重い。

息が上がる。

今の一回で、かなり魔力を持っていかれた。

セレナが走ってくる。

「今の、何をしたの?」

「転移、だと思う」

「思う、じゃないわよ。あなた、今、消えたわよ」

「俺も、少し驚いてる」

「少し?」

セレナの声が少し低くなる。

だが、俺は別のことを考えていた。

使える。

今は訓練場の端から端で、かなり消耗した。

連発は無理だ。

だが、本に書かれている通り、使えば使うほど消耗が減るなら。

飛べる距離が伸びるなら。

いつか、王都とハル領を一瞬で行き来できるかもしれない。

そうなれば、ハル領の運営は大きく変わる。

今まで馬車や早馬に頼っていたものが、まったく違う形になる。

これは、ただ便利な魔法じゃない。

領地の未来を変えるチート魔法かもしれない。

「リオン」

セレナの声で、俺は我に返った。

「今日はここまで」

「まだ少し読めるけど」

「駄目よ」

セレナの声は、いつもより強かった。

「亜空間収納。浮遊。転移。どれも学院で習う魔法とは違いすぎるわ。

これ以上続けたら、何が起きるか分からない」

「……分かった。今日はやめる」

俺は素直に頷いた。

セレナの判断は正しい。

むしろ、三つも試した時点で十分やりすぎだ。

セレナは本を見た。

「この本には、他にもこんな意味の分からない魔法が載っているの?」

「ああ」

「他には何があるの?」

俺は目次らしき箇所を開いた。

日本語で並ぶ見出しを、順に読む。

「探知魔法。幻像魔法。術式解除。簡易鑑定。

それから、転移の応用として脱出魔法」

セレナはしばらく黙った。

「……本当に、魔法体系そのものが違うわ」

「俺もそう思う」

「なぜ、こんな魔法が今の時代に残っていないの?」

セレナの疑問は、俺も感じていた。

亜空間収納。

浮遊。

転移。

どれも反則みたいな魔法だ。

もし福嶋亮太が本当にこれを使えたなら、なぜ今の時代に何一つ残っていないのか。

俺はページをめくった。

魔法理論の説明とは少し違う文体の場所がある。

日記のような、覚え書きのような文章。

そこに、理由らしきものが書かれていた。

俺は黙って読み進める。

『この魔法は、俺には使えた。

でも、他の人に教えるのはほとんど無理だった。

理由は簡単だ。

俺のイメージが、この世界の人間には伝わらなかったからだ。

俺は前の世界の漫画やアニメやゲームを見て育った。

ポケットから何でも出てくる道具も、一度行った町へ戻る呪文も、空を浮く感覚も、幻みたいに分身する動きも、頭の中に映像としてあった。

でも、この世界の人間にはその映像がない。

言葉で説明しても、絵を描いても、うまく伝わらなかった。

魔法は、最後はイメージだ。

だから俺は、この本を日本語で残すことにした。

いつか、俺と同じようにこの世界へ来たやつがいたら、

そいつには、この説明が届くかもしれないから。』

俺は本から顔を上げられなかった。

福嶋亮太の魔法は、この世界に残らなかった。

使えなかったからではない。

伝わらなかったのだ。

前の世界の漫画やアニメやゲームを知らない人間には、あのイメージが届かなかった。

でも、俺には届いた。

子どもの頃に何度も見た、あの青いネコ型ロボットの道具。

国民的RPGで何度も使った、町へ戻る呪文。

全部、俺には分かってしまう。

「リオン?」

セレナの声で、俺はようやく顔を上げた。

彼女には、この文字は読めない。

この本の本当の意味も、まだ分からない。

でも、目の前で起きた魔法だけは見ている。

亜空間収納。

浮遊。

転移。

福嶋亮太の本は、ただの魔法理論書ではなかった。

俺と同じような誰かへ向けて残された、時代を越えた手紙だった。