作品タイトル不明
第185話 読めない魔法理論
春休み初日。
学院は、いつもより静かだった。
授業のない校舎は、同じ場所なのに少しだけ別の建物のように感じる。
寮生の多くは学院に残っているとはいえ、今日は休みの初日だ。
急いで教室へ向かう必要もなければ、教師に呼ばれて走る必要もない。
そんな中、俺は鞄の中の一冊の本の重さを、妙にはっきり感じながら歩いていた。
福嶋亮太の『魔法理論』。
王立図書館で見つけた古い本。
表紙はこの世界の文字で書かれているのに、中身は日本語で書かれている。
そして、そこには今の学院では教えられていない魔法が載っている。
◇
訓練場へ入ると、セレナはすでに来ていた。
「早いな、セレナ」
「少し気になっていたのよ。あなたが見せたい本というのが、どういうものなのか」
「そんなに怪しいものではない……と思いたい」
「その言い方がもう怪しいわ」
セレナは呆れたように言った。
けれど、表情は真剣だった。
俺は訓練場の端にある長椅子の上に鞄を置き、古い本を取り出した。
革の表紙。
この世界の文字で書かれた『魔法理論』。
それだけ見れば、ただの古い魔法書だ。
「それが、例の本ね」
「ああ」
俺は本を開いた。
セレナが横から覗き込む。
その瞬間、彼女の眉が動いた。
「……何、この文字」
「読めないか?」
「少なくとも、私が知っている文字ではないわ」
セレナはページをじっと見つめる。
それから、ゆっくりと俺を見る。
「あなたは、これを読めるの?」
来ると思っていた質問だった。
それでも、すぐには答えられなかった。
「……読める」
「どうして?」
「そこは、まだうまく説明できない」
セレナはしばらく黙っていた。
責めるような目ではない。
ただ、分からないものを前にして、慎重に距離を測っている顔だった。
「そう。なら今は聞かないわ」
「助かる」
「でも、この文字だけでも十分に異常よ」
セレナはもう一度、本へ視線を落とした。
「それで、この本を書いた人は誰なの?」
「福嶋亮太」
俺がそう言うと、セレナは聞き慣れない音を確かめるように、ゆっくり繰り返した。
「フクシマ、リョウタ?」
「ああ」
「それは、人の名前なの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「少なくとも、本にはそう書かれている」
セレナは少し考え込む。
「王国の人間の名前ではないわね。
南方でも、東方でも、北方でも聞いたことがない響きだわ」
当然だ。
この世界に、日本人の名前などあるはずがない。
そう思ったが、口には出さなかった。
「この本には、いくつか独自の魔法が載っている」
俺は話を進めた。
「今日は、その中のいくつかを試してみたい」
「危なくない範囲で、でしょうね」
「ああ。そのつもりだ」
「そのつもり、という言い方が少し不安だけれど」
セレナはそう言いながらも、止めはしなかった。
◇
最初に開いたのは、亜空間収納の項目だった。
「まず試したいのは、亜空間収納という魔法だ」
「亜空間?」
セレナがすぐに聞き返した。
「俺も正確には分からない。ただ、本にはそう書かれている」
「亜空間……」
セレナはその響きを確かめるように呟く。
「学院の魔法理論では聞いたことがないわ」
「本の説明だと、物を消すんじゃない。
目に見えない別の場所へ、一時的に保管する魔法らしい」
「別の場所へ保管する?」
「そういう感覚に近いと思う」
「分かるようで、分からないわね」
「俺も、完全には分かってない」
ただ、イメージはできる。
前世で子どもの頃に何度も見た、ネコ型ロボットのアニメ。
腹についた不思議なポケットから、何でも取り出す道具。
福嶋亮太の説明を読んだ時、俺は自然とあれを思い浮かべた。
この世界の人間には、たぶんその映像がない。
でも、俺にはある。
だから、分かってしまう。
俺は訓練場の中央に立ち、手を前へ出した。
まず、魔力を集める。
火でもない。
水でもない。
風でも土でもない。
空間に、物を入れるための口を作る。
そう意識した。
だが、うまくいかない。
目の前の空気がわずかに歪んだだけで、すぐに消えた。
「失敗?」
セレナが聞く。
「たぶん」
もう一度やってみる。
今度も、空気が揺らいだだけだった。
何かが足りない。
そこで、綻びの目を使う。
視界に文字が浮かんだ。
《入口形成:不安定》
《魔力固定:不足》
《綻び:輪郭の崩れ》
《原因:取り出し側の意識過多》
取り出し側。
俺は思わず息を吐いた。
入れる前から、取り出すことまで考えすぎている。
まず作るべきなのは、収納するための入口だ。
取り出すことは後でいい。
俺はもう一度、手を前へ出した。
不思議なポケット。
手を入れれば物が入る。
必要な時に取り出せる。
今は、その入口だけでいい。
空間の一点に、魔力を固定する。
今度は、感覚が違った。
目の前の空気が、薄く裂けるように歪む。
黒い穴ではない。
光っているわけでもない。
ただ、そこだけ空間の見え方が違う。
空気に、手を入れられるほどの違和感が生まれていた。
セレナが息を呑む。
「……何、今の」
「入口、だと思う」
「入口?」
「試してみる」
俺は訓練場の端に並んでいた木剣の一本を手に取った。
セレナが少しだけ身構える。
「本当に入れるの?」
「ああ。木剣なら、万が一壊れても危険は少ない」
「そういう問題かしら」
それでもセレナは見守った。
俺は木剣の先を、目の前の歪みに近づける。
木剣の先が、消えた。
抵抗はない。
そのまま押し込む。
半分。
さらに奥へ。
最後には、柄まで完全に消えた。
俺が魔力を切ると、空間の歪みも消える。
セレナはしばらく木剣が消えた場所を見ていた。
「……消えた?」
「消したんじゃない。入れた」
「同じことにしか見えないわ」
「俺にもそう見える」
俺は苦笑しながら、もう一度入口を作った。
さっきより少しだけ早くできる。
手を入れる。
何もない空間に手を突っ込んでいるような、妙な感覚だった。
でも、指先に確かに木剣の感触がある。
それを掴み、引き出した。
さっき入れた木剣が、何事もなかったように訓練場へ戻ってくる。
セレナが目を見開いた。
「本当に……戻ってきた」
「ああ」
成功した。
俺は木剣を見ながら、少しだけ息を吐いた。
入口を作るだけで、思った以上に集中力を使う。
今はこれが限界だろう。
もしこれを安定して使えるようになれば、冒険でも、領地運営でも、運搬でも、かなり使える。
しかも本の記述によれば、亜空間内では外界の温度や湿気の影響を受けにくい。
食料や薬草の劣化も、かなり抑えられるらしい。
ただ物を入れるだけではない。
保存にも使える。
それだけでも、チートすぎる魔法だ。
◇
「次は?」
セレナが警戒した声で言った。
「浮遊魔法」
「浮遊?」
「風魔法の発展形らしい」
俺は本の該当箇所を開いた。
福嶋亮太の説明は、やはり妙に読みやすい。
飛ぶというより、落ちる力を風と魔力で受け流す。
体を持ち上げるのではなく、体にかかる重さの感覚を薄くする。
そういう説明だった。
「風で体を押し上げるのとは違うの?」
セレナが聞く。
「たぶん違う。無理に押すというより、落ちる力を逃がす感じだと思う」
「それも、学院では聞いたことがないわ」
「俺もない」
俺は訓練場の中央で、足元に魔力を集めた。
風魔法を使う。
ただし、下から強く吹き上げるのではない。
体の周りに薄く流し、重さの感覚を削る。
一回目。
足元がわずかに軽くなった気がした。
だが、次の瞬間、普通に足が地面についたままだと分かる。
失敗。
二回目。
今度は体が少し傾いた。
「ちょっと、危ないわよ」
セレナが一歩近づく。
「大丈夫。まだ倒れてない」
「倒れてからでは遅いのよ」
それはそうだ。
俺は綻びの目で、自分の魔法を確認した。
《浮遊姿勢:不安定》
《魔力配分:右側に偏り》
《風圧制御:過剰》
《綻び:重心固定》
重心固定。
ただ浮かせるのでは駄目だ。
体の中心を決める。
そこを基準に、重さを薄くする。
三回目。
今度は、足元からふっと力が抜けるような感覚があった。
地面が遠くなる。
いや、俺の体が浮いていた。
ほんの数十センチ。
それでも、確かに浮いている。
セレナが呆然と呟いた。
「本当に浮いた……」
数秒で限界が来た。
俺はゆっくり地面に降りる。
足がついた瞬間、少しだけ膝に力が抜けた。
「自由に飛び回るのは、まだ無理だな」
「当たり前よ。今のだけでも十分おかしいわ」
「でも、落下を緩めるくらいなら、訓練すればできそうだ」
「それだけでもかなり有用よ」
セレナは真剣な顔で言う。
「高所から落ちた時、崖や塔で足場を失った時、戦闘中に体勢を崩した時。
使い道はいくらでもあるわ」
「だな」
亜空間収納ほど派手ではない。
だが、浮遊魔法もまた、この世界ではチートと言えるだろう。
◇
そして、俺は次のページを開いた。
転移魔法。
国民的RPGに出てくる、一度行った町へ戻る魔法。
福嶋亮太の説明は、そこから始まっていた。
ただし、この世界で再現するには制限がある。
一度行った場所の魔力の癖を覚える。
そこに自分の魔力で目印を置く。
今いる場所と目印をつなぐ。
その線に沿って、自分の位置を移す。
距離が遠いほど魔力を使う。
知らない場所へは飛べない。
結界や強い魔力の乱れがある場所では、安定しない。
そして、使えば使うほど、魔力の通し方に体が慣れる。
消耗は少しずつ減り、飛べる距離も広がる。
そう書かれていた。
「次は何?」
セレナが聞く。
「転移魔法」
その言葉に、セレナの表情が固まった。
「……転移?」
「ああ」
「場所を移動する魔法、という意味?」
「たぶん」
「たぶんで試していい魔法じゃないわよ」
「訓練場の端から端だけだ。遠くへ飛ぶつもりはない」
俺は訓練場の反対側を指した。
見えている距離。
歩けばすぐ行ける場所。
それでも、初めて試すには十分だ。
俺はまず、訓練場の端まで歩いた。
そこに魔力を少しだけ残す。
目印。
そう意識する。
それから元の位置へ戻った。
セレナは不安そうに見ている。
「本当にやるの?」
「ここでやめた方がいい気もする」
「なら、やめなさい」
「でも、今なら少し分かる気がする」
「そういうところが一番危ないのよ」
返す言葉がない。
だが、分かる気がするのも本当だった。
一度行った場所へ戻る。
国民的RPGで、何度も使った魔法。
町へ戻る。
拠点へ戻る。
そのイメージが、俺の中にはある。
福嶋亮太の説明は、その感覚に妙に重なった。
俺は息を整えた。
今いる場所。
先ほど魔力の目印を置いた場所。
二つをつなぐ。
次の瞬間、体の内側から魔力がごっそり引き抜かれるような感覚があった。
視界がぶれる。
足元の感覚が消える。
そして、一瞬後。
俺は訓練場の反対側に立っていた。
「リオン!?」
セレナの声が遠くから聞こえた。
いや、遠くからではない。
さっきまで近くにいたセレナが、今は訓練場の向こう側にいる。
成功した。
俺自身も、少し遅れてそれを理解した。
ただ、体が重い。
息が上がる。
今の一回で、かなり魔力を持っていかれた。
セレナが走ってくる。
「今の、何をしたの?」
「転移、だと思う」
「思う、じゃないわよ。あなた、今、消えたわよ」
「俺も、少し驚いてる」
「少し?」
セレナの声が少し低くなる。
だが、俺は別のことを考えていた。
使える。
今は訓練場の端から端で、かなり消耗した。
連発は無理だ。
だが、本に書かれている通り、使えば使うほど消耗が減るなら。
飛べる距離が伸びるなら。
いつか、王都とハル領を一瞬で行き来できるかもしれない。
そうなれば、ハル領の運営は大きく変わる。
今まで馬車や早馬に頼っていたものが、まったく違う形になる。
これは、ただ便利な魔法じゃない。
領地の未来を変えるチート魔法かもしれない。
「リオン」
セレナの声で、俺は我に返った。
「今日はここまで」
「まだ少し読めるけど」
「駄目よ」
セレナの声は、いつもより強かった。
「亜空間収納。浮遊。転移。どれも学院で習う魔法とは違いすぎるわ。
これ以上続けたら、何が起きるか分からない」
「……分かった。今日はやめる」
俺は素直に頷いた。
セレナの判断は正しい。
むしろ、三つも試した時点で十分やりすぎだ。
◇
セレナは本を見た。
「この本には、他にもこんな意味の分からない魔法が載っているの?」
「ああ」
「他には何があるの?」
俺は目次らしき箇所を開いた。
日本語で並ぶ見出しを、順に読む。
「探知魔法。幻像魔法。術式解除。簡易鑑定。
それから、転移の応用として脱出魔法」
セレナはしばらく黙った。
「……本当に、魔法体系そのものが違うわ」
「俺もそう思う」
「なぜ、こんな魔法が今の時代に残っていないの?」
セレナの疑問は、俺も感じていた。
亜空間収納。
浮遊。
転移。
どれも反則みたいな魔法だ。
もし福嶋亮太が本当にこれを使えたなら、なぜ今の時代に何一つ残っていないのか。
俺はページをめくった。
魔法理論の説明とは少し違う文体の場所がある。
日記のような、覚え書きのような文章。
そこに、理由らしきものが書かれていた。
俺は黙って読み進める。
『この魔法は、俺には使えた。
でも、他の人に教えるのはほとんど無理だった。
理由は簡単だ。
俺のイメージが、この世界の人間には伝わらなかったからだ。
俺は前の世界の漫画やアニメやゲームを見て育った。
ポケットから何でも出てくる道具も、一度行った町へ戻る呪文も、空を浮く感覚も、幻みたいに分身する動きも、頭の中に映像としてあった。
でも、この世界の人間にはその映像がない。
言葉で説明しても、絵を描いても、うまく伝わらなかった。
魔法は、最後はイメージだ。
だから俺は、この本を日本語で残すことにした。
いつか、俺と同じようにこの世界へ来たやつがいたら、
そいつには、この説明が届くかもしれないから。』
俺は本から顔を上げられなかった。
福嶋亮太の魔法は、この世界に残らなかった。
使えなかったからではない。
伝わらなかったのだ。
前の世界の漫画やアニメやゲームを知らない人間には、あのイメージが届かなかった。
でも、俺には届いた。
子どもの頃に何度も見た、あの青いネコ型ロボットの道具。
国民的RPGで何度も使った、町へ戻る呪文。
全部、俺には分かってしまう。
「リオン?」
セレナの声で、俺はようやく顔を上げた。
彼女には、この文字は読めない。
この本の本当の意味も、まだ分からない。
でも、目の前で起きた魔法だけは見ている。
亜空間収納。
浮遊。
転移。
福嶋亮太の本は、ただの魔法理論書ではなかった。
俺と同じような誰かへ向けて残された、時代を越えた手紙だった。