作品タイトル不明
第177話 集中できない理由
翌日の放課後。
俺たちは、王立学院の図書室に集まっていた。
窓際の長机に、俺たちはそれぞれ資料を広げた。
セレナはノートを開き、すぐに自分の確認に入る。
ヴィクトルは筆記の資料を並べ、苦手そうな範囲に印をつけていた。
エドガーは静かに参考書を読んでいる。
ガイルは今日もナディアの隣だ。
「ガイルさん、昨日の続きからで大丈夫ですか?」
「ああ。頼む」
ガイルは真面目な顔で頷いた。
その様子を見て、俺も自分の資料へ目を落とす。
飛び級のためにやるべきことは分かっている。
分かっているのに、目の前の文字が頭に入ってこなかった。
◇
同じ行を、もう三回は読んでいる。
読んでいるはずなのに、意味が少しも残らない。
頭の隅に、昨日の本の文字がちらつく。
福嶋亮太。
亜空間収納。
転移。
魔力の目印……。
駄目だ。
今は試験対策だ。
そう思って、もう一度資料に目を落とした時だった。
「リオン」
ガイルの声が飛んできた。
「ここなんだが」
「ああ」
俺は顔を上げ、ガイルの示した箇所を見た。
見た。
……はずだった。
「リオン?」
「悪い。もう一度言ってくれ」
ガイルが少しだけ眉を寄せる。
「今日は反応が鈍いな」
その言葉に、セレナがこちらを見た。
ヴィクトルも顔を上げる。
「珍しいな。いつもなら、ガイルが詰まる前に気づくところだろ」
「少し寝不足なだけだ」
俺はそう言って誤魔化した。
ナディアが心配そうにこちらを見る。
「無理はしないでくださいね、リオンさん」
「大丈夫。ありがとう」
そう返したが、自分でもあまり説得力がないと思った。
エドガーは何も言わなかった。
ただ、一度だけこちらへ視線を向けて、すぐ本へ戻った。
それがかえって気になった。
◇
勉強会は続いた。
ナディアはガイルの横で、丁寧に問題の見方を説明している。
「ここは、最初に目に入る言葉ではなく、最後に何を答えるように求めているかを見ると分かりやすいです」
「分かった」
「はい。では、もう一度読んでみましょう」
ガイルは素直に頷き、問題文へ目を戻した。
昨日よりも、少し落ち着いている。
少なくとも、今の俺よりはずっと集中していた。
しばらくして、セレナが資料を持って俺の隣へ来た。
「リオン、少しいい?」
「ああ」
俺は顔を上げる。
セレナは座るなり、資料ではなく俺の顔を見た。
「昨日の本のことね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ詰まった。
否定はできなかった。
「……そうだな」
「やっぱり」
セレナは小さく息を吐いた。
「そんなに危ない本なの?」
危ない。
その言葉は間違っていない。
でも、それだけでもなかった。
危ない。
そして重い。
それを理解できてしまう。
「危ないというより……重いかな」
「何よ、それ」
「俺にも、まだうまく言えない」
セレナはじっとこちらを見る。
「その本に、何が書いてあったの?」
言いたい。
そう思った。
セレナなら、きっと真剣に聞いてくれる。
俺が危ないことをしようとしたら止めるだろう。
一緒に考えてくれるかもしれない。
でも、どう説明する?
日本語が読める理由。
福嶋亮太という日本人転移者。
失われた魔法。
どれか一つを話せば、次の説明が必要になる。
そして最後には、俺自身の前世の話に触れざるを得ない。
俺は黙った。
セレナは、その沈黙だけで何かを察したようだった。
「……言えないのね」
「悪い」
「謝らなくていいわ」
セレナは少しだけ目を伏せた。
「言えないことくらい、誰にでもあるもの」
その言い方は、責めているようではなかった。
でも、少し寂しそうにも聞こえた。
「ただし」
セレナはそこで顔を上げる。
「一人で試すのは駄目」
「何を?」
「その本に書いてあったことよ」
俺は返事に詰まった。
セレナは俺をまっすぐ見る。
「あなた、できそうだと思ったら試すでしょう」
「……否定しづらいな」
「否定できないなら、やめておきなさい」
強い言い方だった。
でも、その奥にあるのは怒りではない。
心配だ。
「分かった。少なくとも、試験前には試さない」
「試験前だけ?」
「……試験後も、一人では試さない」
「よろしい」
セレナはそう言って、ようやく資料を机に置いた。
「今日はここだけやりなさい」
「ここだけ?」
「あなた、今の状態で全部見ようとしても無理よ。頭が散っているもの」
「セレナが仕切るのか」
「あなたが使い物にならないからよ」
「ひどいな」
「事実でしょ」
言い返せなかった。
セレナは資料の一部を指差す。
「今日はここ。ここを落とさなければいいわ。
無理に全体を見ようとしないこと」
いつもなら俺が全体を見る側だ。
だが、今日はどう見てもその役目を果たせていない。
「分かった。そうする」
素直に頷くと、セレナは少しだけ表情を緩めた。
「それでいいのよ」
◇
その後の勉強会では、俺はセレナに指定された範囲だけを見ることにした。
不思議なもので、やることを絞られると少しだけ頭が戻った。
完全ではない。
それでも、さっきよりはましだ。
横では、ガイルがナディアの説明を受けながら問題を解き直していた。
以前なら、分からない部分で少し苛立っていたかもしれない。
だが今は、止まってもすぐに聞く。
「ここは、こういう意味か?」
「はい。そこまで分かっていれば大丈夫です。あとは、答え方だけですね」
「分かった」
ガイルは短く答え、もう一度書き直した。
その様子を見て、少しだけ感心する。
本当に伸びている。
森で複数の魔物を見るようになった時と同じだ。
勉強でも着実に成長している。
ガイルがふと顔を上げ、こちらを見た。
「リオン」
「何だ?」
「今日は、俺の方が集中しているかもしれないな」
ヴィクトルが小さく笑う。
「それはなかなか珍しい日だね」
俺も苦笑した。
「そうかもしれない」
今までなら、俺が見て、俺が整理して、俺が全体を回そうとしていた。
でも、今日は違う。
セレナが範囲を絞る。
ナディアがガイルを見る。
ヴィクトルは自分の抜けを潰す。
エドガーは静かに必要なところだけを拾う。
俺が少し乱れても、勉強会は崩れなかった。
それは、少し悔しくもあり、少しほっともした。
◇
夕方になり、図書室の窓の外が薄暗くなってきた頃、勉強会は一区切りになった。
「今日はここまでにしましょう」
セレナが言う。
ヴィクトルは資料をまとめながら伸びをした。
「だいぶ詰められたね。リオン以外は」
「俺も少しはやっただろ」
「少しはね」
ヴィクトルは悪びれずに笑う。
ガイルは自分の答案を見ながら、ナディアに頭を下げた。
「今日も助かった」
「いえ。昨日よりかなり良くなっています」
「そうか」
ガイルは少しだけ嬉しそうだった。
エドガーは参考書を閉じ、短く言った。
「この調子なら、間に合う」
それだけだった。
でも、エドガーがそう言うなら、たぶん本当にそうなのだろう。
俺たちは資料を片づけ、図書室を出た。
◇
寮へ戻る道で、セレナが俺の隣に並んだ。
「リオン」
「ああ」
「さっきの話だけど」
来ると思っていた。
俺は少しだけ身構える。
セレナは前を向いたまま言った。
「無理に今話せとは言わないわ」
「……助かる」
「でも、あなたが一人で抱え込んで、変なことをするのは嫌よ」
「変なことはしない」
そう言うと、セレナは横目で俺を見た。
「その言葉、あまり信用できないわ」
「少しは信用してくれるのか」
「かなり譲歩してるのよ」
「そうか」
少しだけ笑ってしまった。
セレナも、ほんの少し表情を緩める。
でも、すぐに真面目な顔に戻った。
「本当に危ないものなら、誰かに話しなさい。私じゃなくてもいい。
リオンが信頼できる人に」
「分かってる」
「分かってるだけじゃ駄目よ」
「……試験が終わったら、少し話す」
セレナが足を止めた。
俺も少し遅れて止まる。
「約束?」
「ああ。話せる範囲で」
「またそれ?」
「全部を一度に話せるか分からないんだ」
セレナは少しだけ不満そうだった。
だが、最後には頷いた。
「いいわ。まずはそれで」
「ありがとう」
「しつこいけど、試験が終わるまで一人で何か試すのは禁止」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
今度は、はっきり言えた。
少なくとも試験が終わるまでは、福嶋亮太の魔法には触らない。
そう決めた。
◇
寮の部屋に戻ると、机の端に置いた古い本がすぐ目に入った。
でも今日は開かない。
そう決めて、俺は本を机の奥へ押しやった。
試験資料を開く。
セレナに指定された範囲をもう一度確認する。
ペンを握る。
視線が、少しだけ本の方へ流れた。
駄目だ。
俺はすぐに資料へ目を戻した。
セレナの言葉をもう一度思い出しながら、俺は目の前の問題に向き直った。