軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第176話 先に来た者

寮の部屋に戻ってからも、俺はしばらく鞄を開けられなかった。

机の上には、試験用の資料がある。

筆記、応用課題、実技。

飛び級を狙うなら、今やるべきことははっきりしている。

それなのに、鞄の中の古い本の存在だけが、やけにはっきりと頭に残っていた。

王立図書館で借りた一冊。

「……少しだけなら」

誰に言うでもなく呟いてから、俺は鞄を開けた。

『魔法理論』とだけ書かれた古い革表紙の本を机に置く。

試験資料の横に並べると、その一冊だけが明らかに異物に見えた。

いや、異物なのは本そのものじゃない。

そこに書かれている内容だ。

俺は息を吐いて、もう一度本を開いた。

福嶋亮太の文章は、やはり妙に読みやすかった。

魔法書というより、後輩に向けた覚え書きに近い。

堅苦しい言葉は少ない。

ところどころ軽い。

けれど、書いてある内容はまったく軽くない。

しばらく読み進めると、見出しのような一文が目に入った。

『この本の魔法を使いたいなら、まず一つだけ覚えておけ。

大事なのは魔力量じゃない。

魔力量だけなら、俺より多いやつはいくらでもいた。

でも、魔力が多いだけではこの魔法は使えない。

必要なのは、何を起こしたいかを細かく思い描く力だ。』

水を出すのではなく、どう当てるか。

風を吹かせるのではなく、何を動かすか。

土を固めるのではなく、どんな形にするか。

福嶋亮太の言葉は、俺の中にある感覚をそのまま引っ張り出してくる。

だからこそ、怖い。

この本に書かれている魔法は、ただ難しいだけじゃない。

俺にとって、妙に理解できてしまう。

それが一番まずかった。

俺は亜空間収納の続きを開いた。

図書館で見たのは、あくまで入口の説明だけだ。

その先には、さらに細かい考え方が続いていた。

『亜空間収納で一番大事なのは、収納する場所を「袋」として考えないことだ。

袋だと思うと、どうしても形に引っ張られる。

そうじゃない。

これは、現実の空間とは少しだけずれた場所に、小さな部屋を作る魔法だと思った方がいい。

入口を決める。

入口の向こうに、物を置く空間を作る。

そして、その入口を自分の魔力で覚えておく。

この三つを同時にやる。

収納できる量は、使い手の魔力量と、空間をどれだけ安定してイメージできるかで決まる。』

小さな部屋。

袋ではなく、部屋。

そう考えると、急に分かりやすくなった。

入口を開く。

中に空間を作る。

そこへ物を入れる。

前世の漫画に出てきた不思議なポケットそのものを想像するより、俺にはそちらの方がしっくりきた。

たとえば、棚だ。

目に見えない場所に、自分だけが開けられる棚を作る。

そこへ荷物を置く。

その棚の大きさが、魔力量とイメージの安定度で変わる。

「……分かるな」

思わず呟いてしまった。

分かる。

完全にできるとは言えない。

だが、何をしようとしている魔法なのかは分かる。

今の俺なら、かなり小さいものなら試せるかもしれない。

たとえば、小石。

あるいは、紙片。

そこまで考えて、俺は本から顔を上げた。

「駄目だ」

ここは寮の部屋だ。

試す場所じゃない。

まして試験前だ。

俺は自分の手を見た。

指先が、少しだけ熱を持っている気がした。

本当に危ないのは、魔法そのものよりも、今の俺が「できるかもしれない」と思ってしまっていることだ。

次に、転移・帰還系魔法の続きへ目を通した。

これは、亜空間収納とは別の意味で厄介だった。

物を入れる魔法ではない。

自分自身を移す魔法だ。

『転移や帰還を、ただの移動だと思うな。

歩く、走る、馬車に乗る。

それらは、今いる場所から目的地までを順番に進む。

でも転移は違う。

今いる場所と、戻りたい場所を、魔力の目印でつなぐ。

そのつながりを使って、自分の位置を入れ替える。

だから、重要なのは距離じゃない。

目印の正確さだ。

遠いか近いかよりも、その場所をどれだけ正確に覚えているか。

そこに流れている魔力の癖を、どれだけ掴めているか。

そこが曖昧だと、魔法として成立しない。』

俺は眉を寄せた。

目印。

魔力の癖。

場所を正確に覚える。

福嶋亮太はさらっと書いているが、かなり難しい。

ただ、まったく分からないわけではなかった。

俺には綻びの目がある。

人の状態だけじゃない。

物の流れ、組織の歪み、危険の兆し。

これまでも、普通なら見えないものを見てきた。

もし、場所に残る魔力の癖のようなものまで見えるなら。

もし、それを目印として覚えられるなら。

転移や帰還という魔法も、完全な夢物語ではなくなる。

そこまで考えた瞬間、俺は本を閉じた。

音が思ったより大きく響く。

「今は駄目だ」

もう一度、声に出した。

亜空間収納はまだいい。

いや、よくはないが、少なくとも対象は物だ。

だが、転移は違う。

自分自身を動かす魔法だ。

これは今の俺が、勢いで触っていいものじゃない。

福嶋亮太が残した魔法は、便利そうに見える。

だが、便利すぎる魔法は、扱い方を間違えればそれだけで災厄になる。

俺は椅子にもたれた。

飛び級試験の資料。

そして、福嶋亮太の魔法理論書。

片方は、今越えるべき壁。

もう片方は、たぶんこの先ずっと俺を引っ張る本だ。

どちらを先に見るべきかは分かっている。

試験だ。

ここで飛び級を逃せば、先へ進む速度が落ちる。

それに、セレナもガイルも本気で狙っている。

俺だけが別のことに気を取られている場合じゃない。

そう分かっているのに、頭はどうしても福嶋亮太へ戻る。

福嶋亮太は、なぜこの本を日本語で残したのか。

誰に向けて書いたのか。

そして、なぜこの魔法体系は今の時代に残っていないのか。

亜空間収納も、転移も、もし本当に使えたなら、世界の形を変えるほどの魔法だ。

それなのに、今の学院では教えられていない。

王立図書館でも、読まれない古い本として眠っていた。

失われたのか。

隠されたのか。

それとも、残すべきではないと判断されたのか。

「……考えすぎても、今は答えが出ないな」

俺は小さく息を吐いた。

誰に話すべきかも、まだ決められなかった。

真っ先に浮かんだのは、父と母だった。

あの二人なら、俺が何を話しても受け止めようとしてくれる気がする。

でも、これは親子の信頼だけで済む話じゃない。

セレナに話したい。

彼女なら、俺が一人で危ないことをしようとしたら止めるだろう。

それに一緒に考えてくれるはずだ。

でも、この本は軽く見せられるものじゃない。

日本語。

転移者。

建国。

失われた魔法。

どれか一つでも重いのに、全部が一冊に詰まっている。

一人で抱えるには大きすぎる。

だが、誰かに話すには、まだ整理が足りなかった。

しばらくして、俺はようやく本を机の端へ押しやった。

読まない。

少なくとも、今夜はこれ以上読まない。

そう決めて、試験資料を手元に引き寄せる。

だが、数行読んだところで、また視線が本へ戻る。

革表紙。

この世界の文字で書かれた『魔法理論』。

中身を知らなければ、ただの古書だ。

でも、俺にはもう違って見える。

あれは、先に来た者が残した道標だ。

そして同時に、開けてはいけない箱にも見える。

俺はもう一度深く息を吐き、ペンを握った。

まずは試験。

何度もそう言い聞かせながら、俺は目の前の期末試験対策資料へ視線を戻した。