作品タイトル不明
第176話 先に来た者
寮の部屋に戻ってからも、俺はしばらく鞄を開けられなかった。
机の上には、試験用の資料がある。
筆記、応用課題、実技。
飛び級を狙うなら、今やるべきことははっきりしている。
それなのに、鞄の中の古い本の存在だけが、やけにはっきりと頭に残っていた。
王立図書館で借りた一冊。
「……少しだけなら」
誰に言うでもなく呟いてから、俺は鞄を開けた。
『魔法理論』とだけ書かれた古い革表紙の本を机に置く。
試験資料の横に並べると、その一冊だけが明らかに異物に見えた。
いや、異物なのは本そのものじゃない。
そこに書かれている内容だ。
俺は息を吐いて、もう一度本を開いた。
◇
福嶋亮太の文章は、やはり妙に読みやすかった。
魔法書というより、後輩に向けた覚え書きに近い。
堅苦しい言葉は少ない。
ところどころ軽い。
けれど、書いてある内容はまったく軽くない。
しばらく読み進めると、見出しのような一文が目に入った。
『この本の魔法を使いたいなら、まず一つだけ覚えておけ。
大事なのは魔力量じゃない。
魔力量だけなら、俺より多いやつはいくらでもいた。
でも、魔力が多いだけではこの魔法は使えない。
必要なのは、何を起こしたいかを細かく思い描く力だ。』
水を出すのではなく、どう当てるか。
風を吹かせるのではなく、何を動かすか。
土を固めるのではなく、どんな形にするか。
福嶋亮太の言葉は、俺の中にある感覚をそのまま引っ張り出してくる。
だからこそ、怖い。
この本に書かれている魔法は、ただ難しいだけじゃない。
俺にとって、妙に理解できてしまう。
それが一番まずかった。
◇
俺は亜空間収納の続きを開いた。
図書館で見たのは、あくまで入口の説明だけだ。
その先には、さらに細かい考え方が続いていた。
『亜空間収納で一番大事なのは、収納する場所を「袋」として考えないことだ。
袋だと思うと、どうしても形に引っ張られる。
そうじゃない。
これは、現実の空間とは少しだけずれた場所に、小さな部屋を作る魔法だと思った方がいい。
入口を決める。
入口の向こうに、物を置く空間を作る。
そして、その入口を自分の魔力で覚えておく。
この三つを同時にやる。
収納できる量は、使い手の魔力量と、空間をどれだけ安定してイメージできるかで決まる。』
小さな部屋。
袋ではなく、部屋。
そう考えると、急に分かりやすくなった。
入口を開く。
中に空間を作る。
そこへ物を入れる。
前世の漫画に出てきた不思議なポケットそのものを想像するより、俺にはそちらの方がしっくりきた。
たとえば、棚だ。
目に見えない場所に、自分だけが開けられる棚を作る。
そこへ荷物を置く。
その棚の大きさが、魔力量とイメージの安定度で変わる。
「……分かるな」
思わず呟いてしまった。
分かる。
完全にできるとは言えない。
だが、何をしようとしている魔法なのかは分かる。
今の俺なら、かなり小さいものなら試せるかもしれない。
たとえば、小石。
あるいは、紙片。
そこまで考えて、俺は本から顔を上げた。
「駄目だ」
ここは寮の部屋だ。
試す場所じゃない。
まして試験前だ。
俺は自分の手を見た。
指先が、少しだけ熱を持っている気がした。
本当に危ないのは、魔法そのものよりも、今の俺が「できるかもしれない」と思ってしまっていることだ。
◇
次に、転移・帰還系魔法の続きへ目を通した。
これは、亜空間収納とは別の意味で厄介だった。
物を入れる魔法ではない。
自分自身を移す魔法だ。
『転移や帰還を、ただの移動だと思うな。
歩く、走る、馬車に乗る。
それらは、今いる場所から目的地までを順番に進む。
でも転移は違う。
今いる場所と、戻りたい場所を、魔力の目印でつなぐ。
そのつながりを使って、自分の位置を入れ替える。
だから、重要なのは距離じゃない。
目印の正確さだ。
遠いか近いかよりも、その場所をどれだけ正確に覚えているか。
そこに流れている魔力の癖を、どれだけ掴めているか。
そこが曖昧だと、魔法として成立しない。』
俺は眉を寄せた。
目印。
魔力の癖。
場所を正確に覚える。
福嶋亮太はさらっと書いているが、かなり難しい。
ただ、まったく分からないわけではなかった。
俺には綻びの目がある。
人の状態だけじゃない。
物の流れ、組織の歪み、危険の兆し。
これまでも、普通なら見えないものを見てきた。
もし、場所に残る魔力の癖のようなものまで見えるなら。
もし、それを目印として覚えられるなら。
転移や帰還という魔法も、完全な夢物語ではなくなる。
そこまで考えた瞬間、俺は本を閉じた。
音が思ったより大きく響く。
「今は駄目だ」
もう一度、声に出した。
亜空間収納はまだいい。
いや、よくはないが、少なくとも対象は物だ。
だが、転移は違う。
自分自身を動かす魔法だ。
これは今の俺が、勢いで触っていいものじゃない。
福嶋亮太が残した魔法は、便利そうに見える。
だが、便利すぎる魔法は、扱い方を間違えればそれだけで災厄になる。
◇
俺は椅子にもたれた。
飛び級試験の資料。
そして、福嶋亮太の魔法理論書。
片方は、今越えるべき壁。
もう片方は、たぶんこの先ずっと俺を引っ張る本だ。
どちらを先に見るべきかは分かっている。
試験だ。
ここで飛び級を逃せば、先へ進む速度が落ちる。
それに、セレナもガイルも本気で狙っている。
俺だけが別のことに気を取られている場合じゃない。
そう分かっているのに、頭はどうしても福嶋亮太へ戻る。
福嶋亮太は、なぜこの本を日本語で残したのか。
誰に向けて書いたのか。
そして、なぜこの魔法体系は今の時代に残っていないのか。
亜空間収納も、転移も、もし本当に使えたなら、世界の形を変えるほどの魔法だ。
それなのに、今の学院では教えられていない。
王立図書館でも、読まれない古い本として眠っていた。
失われたのか。
隠されたのか。
それとも、残すべきではないと判断されたのか。
「……考えすぎても、今は答えが出ないな」
俺は小さく息を吐いた。
◇
誰に話すべきかも、まだ決められなかった。
真っ先に浮かんだのは、父と母だった。
あの二人なら、俺が何を話しても受け止めようとしてくれる気がする。
でも、これは親子の信頼だけで済む話じゃない。
セレナに話したい。
彼女なら、俺が一人で危ないことをしようとしたら止めるだろう。
それに一緒に考えてくれるはずだ。
でも、この本は軽く見せられるものじゃない。
日本語。
転移者。
建国。
失われた魔法。
どれか一つでも重いのに、全部が一冊に詰まっている。
一人で抱えるには大きすぎる。
だが、誰かに話すには、まだ整理が足りなかった。
◇
しばらくして、俺はようやく本を机の端へ押しやった。
読まない。
少なくとも、今夜はこれ以上読まない。
そう決めて、試験資料を手元に引き寄せる。
だが、数行読んだところで、また視線が本へ戻る。
革表紙。
この世界の文字で書かれた『魔法理論』。
中身を知らなければ、ただの古書だ。
でも、俺にはもう違って見える。
あれは、先に来た者が残した道標だ。
そして同時に、開けてはいけない箱にも見える。
俺はもう一度深く息を吐き、ペンを握った。
まずは試験。
何度もそう言い聞かせながら、俺は目の前の期末試験対策資料へ視線を戻した。