作品タイトル不明
第167話 実戦への誘い
三学期が始まって数日。
学院の空気は、ようやく冬休み明けの浮つきから普段のものへ戻り始めていた。
朝の教室ではまだ実家の話をしている生徒もいるが、授業が始まれば空気は切り替わる。
進級前の学期ということもあって、教師たちの目も少し厳しい。
俺も机の上に教科書を置きながら、次の授業の準備をしていた。
ハル領から戻ってきてから、まだ一週間くらいしか経っていない。
けれど、街灯や排水路、石切り場や帳面のことが、少し遠い出来事のようにも感じる。
学院にいると、時間の流れ方が違う。
そんなことを考えていると、隣から声がかかった。
「リオン」
セレナだった。
「どうした?」
俺が顔を上げると、セレナは少しだけ周囲を見てから、いつもより真面目な顔で言った。
「近いうちに、冒険者の依頼を受ける予定はあるかしら?」
「冒険者の依頼?」
思わず聞き返した。
かなり意外な話だった。
冒険者としての活動は、最近ほとんどできていない。ハル領へ帰れば領地のことで手一杯だったし、王都に戻ってからも三学期の準備があった。
ただ、完全に忘れていたわけではない。
「しばらく行けてなかったし、今度の休みにギルドへ顔を出すつもりではあるけど」
「そう」
セレナはそこで一拍置いた。
「それなら、私も一緒に行っていい?」
「……セレナが?」
「そうよ」
さらっと言うが、内容はかなり大きい。
ヴァレスト公爵家の令嬢が、王都の冒険者ギルドへ行く?
「急にどうしたんだ?」
俺が聞くと、セレナは少しだけ唇を結んだ。
「冬休みの間、グレイン先生に魔法を見てもらっていたの」
「ああ」
ヴァレスト家の家庭教師、グレイン先生か。
そういえば一年くらい会ってないな。
「先生からは魔法の制御も、発動の速度も、前より良くなったとは言われたわ」
「それはすごいな」
「でも、同時に言われたの。学院の実技だけでは、これ以上大きく伸びるには限界があるって」
セレナの声に、少し悔しさが混じった。
「守られた環境で的に向かって魔法を撃つのと、実際に動く相手に使うのは違う。
リオンやガイルを本気で上回りたいなら、実戦で使う経験を積めって」
「そうなんだ」
「ええ。私もそう思ったわ」
セレナはそう言って、まっすぐ俺を見た。
「だから、私も実戦を経験したい。できれば、あなたと一緒に」
その言い方には、遊びや好奇心だけではないものがあった。
セレナは優秀だ。
2学期期末の実技も93点。
学院の中では十分すぎるほど高い。
けれど、それでも彼女は満足していない。
「ヴァレスト公爵は許可したのか?」
俺が確認すると、セレナは頷いた。
「もちろん、一人では駄目って言われたわ」
「まあ、それはそうだろうな」
「でも、すでに冒険者として活動していて、実績もあるあなたが同行するなら許可するって」
「……俺に?」
「ええ」
俺は少し黙った。
ヴァレスト公爵が俺を高く評価してくれているのは分かっている。
これまで何度も話しているし、青輝石や卓上灯のことでもかなり助けてもらった。
でも、自分の娘を冒険者依頼へ同行させる相手として俺を選ぶのは、また少し話が違う気がする。
公爵、俺のことを信用しすぎじゃないか?
そう思ってしまう。
「何その顔」
セレナが眉を上げる。
「いや、君のお父様は俺を買いかぶりすぎじゃないかと思って」
「お父様がそう判断したなら、何か理由があるんでしょ」
「雑だな」
「信頼されているんだから、素直に受け取ればいいじゃない」
「それが重いんだよ」
そう言うと、セレナは少しだけ笑った。
「それくらい背負いなさいよ」
「簡単に言うな」
ただ、断る理由はなかった。
セレナは強い。
魔法の制御も高い。
判断力もある。
低級の魔物相手なら、普通に考えれば苦戦はしない。
むしろ、俺が下手な相手と組むよりずっと安定するはずだ。
問題は、そこじゃない。
「行くなら条件がある」
「聞くわ」
セレナはすぐに姿勢を正した。
「まず、最初は王都近郊の森の入り口まで。奥には入らない」
「ええ」
「受ける依頼も低級の魔物討伐。無理な依頼は選ばない」
「分かったわ」
「危ないと思ったら撤退する。倒せそうかどうかじゃなくて、俺が危ないと判断したら撤退」
そこで、セレナが少しだけ目を細めた。
「私がまだ戦えると言っても?」
「撤退」
「……そこは譲らないのね」
「譲らない」
俺ははっきり言った。
「学院の実技と実戦は違う。先生が止めてくれるわけじゃない。
相手は待ってくれないし、足場も悪い。
魔法を撃つ場所も、距離も、周りの木も邪魔になる。何より、失敗した時の重さが違う」
セレナは黙って聞いていた。
「君なら低級魔物相手に苦戦はしないと思う。実技93点だしな」
「そこは当然ね」
「でも、実戦で怖いのは、勝てる相手に勝つことじゃない。
勝てると思った時に、想定外が起きることだ」
俺がそう言うと、セレナの表情が少し変わった。
強がるかと思ったが、そうではなかった。
「分かってるつもり。でも、つもりじゃ駄目なのよね」
「そういうこと」
「だから行きたいの」
その一言で、こちらも少し考えを改めた。
セレナはただ強くなりたいだけじゃない。
自分に足りないものを分かったうえで、それを埋めに行こうとしている。
それなら、止めるより、ちゃんとした形で連れていく方がいい。
「分かった」
俺が言うと、セレナの目が少し明るくなった。
「本当に?」
「今度の休み、一緒にギルドへ行こう。まずは冒険者登録からだな」
「登録も必要なのね」
「依頼を受けるなら必要だよ。たぶん最初は低い等級からになると思うけど、今回はそれでいい。むしろその方が安全だ」
「分かったわ」
「依頼は、王都近郊の森の入り口で受けられる低級魔物討伐。
無理そうなら素材採集系でもいい」
「魔物討伐がいいわ」
即答だった。
「だと思った」
「何よ、その言い方」
「セレナらしいなと思って」
「別にいいでしょ。実戦で魔法を使うために行くんだから」
「まあな」
そこで授業開始前の鐘が鳴った。
教室のあちこちで、生徒たちが席へ戻り始める。
セレナも自分の席へ戻りかけて、ふと振り返った。
「ありがとう、リオン」
「礼を言うのは、無事に帰ってからでいいよ」
セレナは少しだけ眉を寄せた。
「そういう言い方、相変わらずね」
そう言って、彼女は席へ戻っていった。
その背中を見ながら、俺は少しだけ息を吐いた。
セレナにとっては、初めての冒険者活動。
俺にとっても、久しぶりの依頼だ。
次の休み。
俺はセレナと一緒に、王都の冒険者ギルドへ向かうことになった。