作品タイトル不明
第160話 見えない流れ
公衆浴場の入口には、しばらく休業と書かれた札が下がっていた。
朝からそこを通る人間は多い。桶を抱えた常連、仕事前にひと風呂浴びるのが習慣になっていた男、近くの店の主人。
皆、一度は立ち止まって札を見上げ、少し残念そうな顔をする。
「困るっちゃ困るな」
「だが、今のうちに直さないと夏に病が出るかもしれんらしいぞ」
「水の流れが悪いんだろ?」
「若様が止めたってことは、そういうことだ」
詳しい理屈まで分かっているわけじゃない。
けれど、ただの気まぐれじゃないことだけは、もう領都の中に広がっていた。
その札の前で、ひときわ大きな声が上がる。
「で、手伝えば早く再開するのか?」
言ったのは、腕の太い荷運びの男だった。
それを聞いて、近くにいた数人が笑う。
「お前、風呂に入りたいだけだろ」
「悪いか。入りたいもんは入りたい」
「俺もだ」
そのやり取りに、俺は思わず口元を緩めた。
◇
父に工事計画を承認してもらってから数日、工事はもう始まっていた。
浴場裏では応急措置班が地面を掘り、街中では本線班が地下水路の入口になる区間へ縄を張り、外れ側では整地班が受け場予定地の草と石をどかしている。
ただ、動き出したばかりの現場は、どうしたって雑音が多い。
そこへ「手伝えば早く終わるなら」と人が増え始めたものだから、放っておけばすぐに詰まる。
「若様、どうします?」
土木役が困った顔でこちらを見る。
浴場前には、手を貸したいという男たちが十人以上集まっていた。
中には、昨日まで工事なんて見向きもしなかった顔もある。だが動機は十分だ。
早く風呂に入りたい。それだけで、人は驚くほど動く。
「手伝わせる」
俺は即答した。
「ただし、勝手に動かせるな」
ノルが低く笑う。
「案の定ですな」
「人が増えれば早く終わるとは限らないからな」
俺は集まった男たちの前へ出た。
「聞いてくれ。手を貸すのは助かる。
だが、好き勝手に掘ったり運んだりするのはやめろ。
今それをやられると、むしろ遅くなる」
ざわつきが少し止む。
「じゃあ、何をすりゃいい?」
さっきの荷運びの男が聞いた。
「力仕事をする班、土を運ぶ班、石を運ぶ班、通りを空ける班に分ける」
俺は指をさした。
「浴場裏は慣れた職人がやる。そこに素人が増えると逆に危ない。みんなにはその外を支えてもらいたいんだ」
男たちは顔を見合わせた。
「掘るんじゃねえのか」
「掘るのは向いてるやつがやる」
俺は言った。
「今足りないのは掘る手じゃない。掘った土をすぐどかす手と、石材を遅れず回す手だ。そこが詰まると全部が止まる」
ここでようやく、何人かが「ああ」と頷いた。
「荷運びの経験があるやつは石材運搬へ。荷車の扱いが分かるやつもそっち。
体はそこそこだが足が速いやつは土出し。
近所の道に詳しい人は通りの整理へ回って。勝手に道を塞がせないで」
ノルが横から短く補足する。
「騎士団の馬車と商人の荷車は優先で通す。ぶつかったら工事どころではなくなる」
「はいよ」
「分かった」
返事が返ってくる。
悪くない。
◇
とはいえ、最初から全部がうまく回るわけじゃない。
案の定、三十分もしないうちに浴場の裏手で声が上がった。
「石を先に通せ!」
「いや、土が詰まってる!」
「荷車が入れねえぞ!」
見れば、石材を運ぶ列と、掘り出した土を運ぶ列が同じ狭い場所へ集まっている。
そこへ、風呂目当てで手伝いに来た男たちまで加わって、流れがぶつかっていた。
土木役が眉を寄せる。
「若様」
「ああ、見えてる」
俺はすぐに間へ入った。
「止めて! 一度全部止めて!」
声を張ると、さすがに全員が動きを止めた。
「石材の列は右。土出しは左。荷車は中央を通す」
俺はその場で地面に棒を突き立てながら言う。
「浴場裏へ入る人数も絞る。職人と補助二人だけ。あとは外で受け取って回せ」
「でも、それだと中が足りないんじゃ」
誰かが言う。
「中に人が増えると、動きがぶつかる」
俺は即答した。
「狭い場所ほど、人は多けりゃいいってもんじゃない」
その言い方に、土木役が深く頷いた。
「その通りですな。中は掘る者と据える者だけでいい」
俺はさらに続けた。
「石材運搬班は五人ずつで交代。土出し班は荷車が空になるまで列を切らないで。
通り整理班は店先の前を必ず空けて。商売の邪魔をしたら、今度はそっちが綻ぶ」
男たちは今度こそ納得したらしく、さっきよりも明らかに素直に動き始めた。
風呂に入りたい一心で集まった連中でも、やることが明確ならちゃんと働く。
むしろ、目的がはっきりしているぶんだけ、変な見栄がない。
「若様、恐るべしですな」
ノルが横で言った。
「俺じゃない。風呂の力だ」
「では、恐るべし風呂の力ということで」
「それは否定しない」
◇
浴場裏では、応急措置班が最優先で動いていた。
まずは、使い終わった湯がそのまま用水路へ落ちる今の流れを止める。
そこが出発点だ。石を並べ、浅い受け枡の形を作り、その先に今後本線へつなぐための口を確保する。
ここは俺が直接見なきゃいけない場所だった。
「高さは?」
俺が聞くと、土木役が膝をついたまま答える。
「湯の落ち口から受け枡までは問題ありません。その先の落ちも取れます」
「枡の底、もう少しだけ深くできるか」
「泥を拾う分ですか」
「そう。最初に重いものが止まるようにしたい」
土木役が頷き、すぐに職人へ指示を飛ばす。
その間、俺は流し口の位置と枡の口を何度も見比べた。
ここが狂うと、本線がつながっても意味がない。
◇
一方で、街中の本線班も動いていた。
こちらは人通りがあるぶん、浴場裏より面倒だ。
道の端へ縄が張られ、掘る区間が切られている。
規格外石や土木向けの石が運び込まれ、蓋石候補も脇に積まれていた。
ここで少し嬉しかったのは、石材の流れが前よりずっとましだったことだ。
石切り場から来た荷には、用途ごとの置き場が明確にされている。
混ざりが少ない。余計な確認の手間が減る。
それだけで現場の息の詰まり方が全然違う。
「ロブたち、ちゃんと回してるな」
俺が呟くと、ノルが頷いた。
「前より石の入りが安定しております」
「ならよかった」
あっちで整えたものが、こっちで効いている。
そういうつながり方は嫌いじゃない。
もっとも、机の上の通りにばかりはいかない。
「若様」
街中本線班の職人が手を上げる。
「どうした」
「ここ、思ったより下に古い石積みが残ってます」
「壊せるか?」
「壊せますが、少し時間を食います」
覗くと、たしかに昔の基礎か何かの名残らしい石が出ていた。
俺は少し考えてから言った。
「全部は壊すな。右へ少しずらせるならずらす。勾配が死なない範囲で逃げよう」
「承知しました」
こういうところだ。
計画は線で引ける。
でも現場は、掘って初めて見えるものがある。
◇
外れ側の整地班は、さらに地味だった。
沈殿池予定地のまわりの草を刈り、転がった石をどかし、水が集まりそうな向きを見ながら杭を打っていく。
まだ池の形にはなっていない。でも、ここが受け場になると決まった以上、後回しにはできない。
「ここは広げられる余地を残して」
俺は整地班の頭に言う。
「最初は浴場分だけ受ければいい。でも、後で宿や別の施設までつなぐ可能性はある」
「では、縁はきっちり固めすぎないほうが?」
「今はそれでいい。形だけ先に決めるな」
今必要なのは、完成品の美しさじゃない。
今後の領都の成長に耐えられるかどうかだ。
◇
午後には、工事の空気はだいぶ落ち着いてきた。
浴場前ではまだ何人かが休業札を見上げていたが、朝のような戸惑いは薄れていた。
「若様」
ノルが浴場裏を見ながら言った。
「だいぶ形になってきましたな」
「まだ入口だけどね」
「入口がないと、その先も始まりません」
その通りだった。
◇
夕方、もう一度浴場の裏へ立つ。
以前は、使い終わった湯がそのまま用水路へ落ちていた。
今はもう、その口を塞ぐための石が据えられ、受け枡の形も見え始めている。
まだ未完成で営業再開にはほど遠い。けれど、少なくとも以前と同じ流れではない。
排水を地下へ通すための最初の一本が、ようやく現実の形を持ち始めていた。
常連たちが風呂へ戻れるのはもう少し先だ。
それでも、その再開へ向けた道筋は、朝よりずっとはっきり見えていた。