軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第160話 見えない流れ

公衆浴場の入口には、しばらく休業と書かれた札が下がっていた。

朝からそこを通る人間は多い。桶を抱えた常連、仕事前にひと風呂浴びるのが習慣になっていた男、近くの店の主人。

皆、一度は立ち止まって札を見上げ、少し残念そうな顔をする。

「困るっちゃ困るな」

「だが、今のうちに直さないと夏に病が出るかもしれんらしいぞ」

「水の流れが悪いんだろ?」

「若様が止めたってことは、そういうことだ」

詳しい理屈まで分かっているわけじゃない。

けれど、ただの気まぐれじゃないことだけは、もう領都の中に広がっていた。

その札の前で、ひときわ大きな声が上がる。

「で、手伝えば早く再開するのか?」

言ったのは、腕の太い荷運びの男だった。

それを聞いて、近くにいた数人が笑う。

「お前、風呂に入りたいだけだろ」

「悪いか。入りたいもんは入りたい」

「俺もだ」

そのやり取りに、俺は思わず口元を緩めた。

父に工事計画を承認してもらってから数日、工事はもう始まっていた。

浴場裏では応急措置班が地面を掘り、街中では本線班が地下水路の入口になる区間へ縄を張り、外れ側では整地班が受け場予定地の草と石をどかしている。

ただ、動き出したばかりの現場は、どうしたって雑音が多い。

そこへ「手伝えば早く終わるなら」と人が増え始めたものだから、放っておけばすぐに詰まる。

「若様、どうします?」

土木役が困った顔でこちらを見る。

浴場前には、手を貸したいという男たちが十人以上集まっていた。

中には、昨日まで工事なんて見向きもしなかった顔もある。だが動機は十分だ。

早く風呂に入りたい。それだけで、人は驚くほど動く。

「手伝わせる」

俺は即答した。

「ただし、勝手に動かせるな」

ノルが低く笑う。

「案の定ですな」

「人が増えれば早く終わるとは限らないからな」

俺は集まった男たちの前へ出た。

「聞いてくれ。手を貸すのは助かる。

だが、好き勝手に掘ったり運んだりするのはやめろ。

今それをやられると、むしろ遅くなる」

ざわつきが少し止む。

「じゃあ、何をすりゃいい?」

さっきの荷運びの男が聞いた。

「力仕事をする班、土を運ぶ班、石を運ぶ班、通りを空ける班に分ける」

俺は指をさした。

「浴場裏は慣れた職人がやる。そこに素人が増えると逆に危ない。みんなにはその外を支えてもらいたいんだ」

男たちは顔を見合わせた。

「掘るんじゃねえのか」

「掘るのは向いてるやつがやる」

俺は言った。

「今足りないのは掘る手じゃない。掘った土をすぐどかす手と、石材を遅れず回す手だ。そこが詰まると全部が止まる」

ここでようやく、何人かが「ああ」と頷いた。

「荷運びの経験があるやつは石材運搬へ。荷車の扱いが分かるやつもそっち。

体はそこそこだが足が速いやつは土出し。

近所の道に詳しい人は通りの整理へ回って。勝手に道を塞がせないで」

ノルが横から短く補足する。

「騎士団の馬車と商人の荷車は優先で通す。ぶつかったら工事どころではなくなる」

「はいよ」

「分かった」

返事が返ってくる。

悪くない。

とはいえ、最初から全部がうまく回るわけじゃない。

案の定、三十分もしないうちに浴場の裏手で声が上がった。

「石を先に通せ!」

「いや、土が詰まってる!」

「荷車が入れねえぞ!」

見れば、石材を運ぶ列と、掘り出した土を運ぶ列が同じ狭い場所へ集まっている。

そこへ、風呂目当てで手伝いに来た男たちまで加わって、流れがぶつかっていた。

土木役が眉を寄せる。

「若様」

「ああ、見えてる」

俺はすぐに間へ入った。

「止めて! 一度全部止めて!」

声を張ると、さすがに全員が動きを止めた。

「石材の列は右。土出しは左。荷車は中央を通す」

俺はその場で地面に棒を突き立てながら言う。

「浴場裏へ入る人数も絞る。職人と補助二人だけ。あとは外で受け取って回せ」

「でも、それだと中が足りないんじゃ」

誰かが言う。

「中に人が増えると、動きがぶつかる」

俺は即答した。

「狭い場所ほど、人は多けりゃいいってもんじゃない」

その言い方に、土木役が深く頷いた。

「その通りですな。中は掘る者と据える者だけでいい」

俺はさらに続けた。

「石材運搬班は五人ずつで交代。土出し班は荷車が空になるまで列を切らないで。

通り整理班は店先の前を必ず空けて。商売の邪魔をしたら、今度はそっちが綻ぶ」

男たちは今度こそ納得したらしく、さっきよりも明らかに素直に動き始めた。

風呂に入りたい一心で集まった連中でも、やることが明確ならちゃんと働く。

むしろ、目的がはっきりしているぶんだけ、変な見栄がない。

「若様、恐るべしですな」

ノルが横で言った。

「俺じゃない。風呂の力だ」

「では、恐るべし風呂の力ということで」

「それは否定しない」

浴場裏では、応急措置班が最優先で動いていた。

まずは、使い終わった湯がそのまま用水路へ落ちる今の流れを止める。

そこが出発点だ。石を並べ、浅い受け枡の形を作り、その先に今後本線へつなぐための口を確保する。

ここは俺が直接見なきゃいけない場所だった。

「高さは?」

俺が聞くと、土木役が膝をついたまま答える。

「湯の落ち口から受け枡までは問題ありません。その先の落ちも取れます」

「枡の底、もう少しだけ深くできるか」

「泥を拾う分ですか」

「そう。最初に重いものが止まるようにしたい」

土木役が頷き、すぐに職人へ指示を飛ばす。

その間、俺は流し口の位置と枡の口を何度も見比べた。

ここが狂うと、本線がつながっても意味がない。

一方で、街中の本線班も動いていた。

こちらは人通りがあるぶん、浴場裏より面倒だ。

道の端へ縄が張られ、掘る区間が切られている。

規格外石や土木向けの石が運び込まれ、蓋石候補も脇に積まれていた。

ここで少し嬉しかったのは、石材の流れが前よりずっとましだったことだ。

石切り場から来た荷には、用途ごとの置き場が明確にされている。

混ざりが少ない。余計な確認の手間が減る。

それだけで現場の息の詰まり方が全然違う。

「ロブたち、ちゃんと回してるな」

俺が呟くと、ノルが頷いた。

「前より石の入りが安定しております」

「ならよかった」

あっちで整えたものが、こっちで効いている。

そういうつながり方は嫌いじゃない。

もっとも、机の上の通りにばかりはいかない。

「若様」

街中本線班の職人が手を上げる。

「どうした」

「ここ、思ったより下に古い石積みが残ってます」

「壊せるか?」

「壊せますが、少し時間を食います」

覗くと、たしかに昔の基礎か何かの名残らしい石が出ていた。

俺は少し考えてから言った。

「全部は壊すな。右へ少しずらせるならずらす。勾配が死なない範囲で逃げよう」

「承知しました」

こういうところだ。

計画は線で引ける。

でも現場は、掘って初めて見えるものがある。

外れ側の整地班は、さらに地味だった。

沈殿池予定地のまわりの草を刈り、転がった石をどかし、水が集まりそうな向きを見ながら杭を打っていく。

まだ池の形にはなっていない。でも、ここが受け場になると決まった以上、後回しにはできない。

「ここは広げられる余地を残して」

俺は整地班の頭に言う。

「最初は浴場分だけ受ければいい。でも、後で宿や別の施設までつなぐ可能性はある」

「では、縁はきっちり固めすぎないほうが?」

「今はそれでいい。形だけ先に決めるな」

今必要なのは、完成品の美しさじゃない。

今後の領都の成長に耐えられるかどうかだ。

午後には、工事の空気はだいぶ落ち着いてきた。

浴場前ではまだ何人かが休業札を見上げていたが、朝のような戸惑いは薄れていた。

「若様」

ノルが浴場裏を見ながら言った。

「だいぶ形になってきましたな」

「まだ入口だけどね」

「入口がないと、その先も始まりません」

その通りだった。

夕方、もう一度浴場の裏へ立つ。

以前は、使い終わった湯がそのまま用水路へ落ちていた。

今はもう、その口を塞ぐための石が据えられ、受け枡の形も見え始めている。

まだ未完成で営業再開にはほど遠い。けれど、少なくとも以前と同じ流れではない。

排水を地下へ通すための最初の一本が、ようやく現実の形を持ち始めていた。

常連たちが風呂へ戻れるのはもう少し先だ。

それでも、その再開へ向けた道筋は、朝よりずっとはっきり見えていた。