作品タイトル不明
第161話 流れるか
排水工事が始まってから、二週間が経った。
公衆浴場の入口にはまだ休業札が下がっている。
ただ、最初の頃とは領都の空気が少し違っていた。
「もうすぐ再開するらしいぞ」
「らしいな。水を試しに流すとか」
「風呂のためだけじゃないんだろ?」
「宿や食堂も、あとであの流れにつなげられるかもしれんって話だ」
浴場の前でそんな話をする男たちの声が聞こえる。
皆が理屈を正確に分かっているわけじゃない。
けれど、今回の工事がただ風呂を直すだけのものではなく、領都の暮らしそのものに関わるらしい、ということまでは広まっていた。
そして今日は、その工事が本当に形になっているかを確かめる日だった。
◇
俺は朝から、父、ノル、土木役、浴場の管理役と一緒に現場を回っていた。
まずは浴場の裏。
受け枡はほぼ形になっている。石で囲われた浅い受けの底には、泥や重い汚れが沈みやすいよう少しだけ深さを持たせてある。その先は地下へ落とし、本線へつなぐ。
「ここは悪くないな」
俺が言うと、土木役が息をついた。
「なんとか形にはなりました」
「“なんとか”で済ませるなよ」
「済ませてませんよ。済ませてないから二週間かかったんです」
その言い返しに、思わず少し笑う。
実際、ここまでは早かった。
早かったが、簡単ではなかった。
浴場裏の受け枡。
街中の地下水路。
外れへ向かう排水路。
そして仮の沈殿池。
最低限、浴場から街外れの受け場まで一本通すことを最優先に進めてきた。
だから今日の試験で見るべきなのは、出来栄えの美しさじゃない。
本当に流れるか。
そこだけだ。
◇
次に見たのは、街中の地下水路の入口だった。
道の端はまだ土が新しく、ところどころ仮の蓋石が置かれている。見た目は未完成だ。歩く者の邪魔にならないよう最小限の整理はしてあるが、工事が終わったと胸を張れる状態ではない。
ただ、線はつながっている。
「石の入りはどう?」
俺が聞くと、土木役がすぐ答えた。
「石切り場で用途別にきっちり分けてもらえるから、現場で余計な確認をする時間が減りました」
「それならよかった」
「ロブたちにも礼を言っておいてください」
「あとで伝える」
あっちで整えた流れが、こっちの工事を支えている。
そういうつながり方は悪くない。
さらに歩いて、曲がり角の点検枡も確認する。
ここは特に大事だった。まっすぐ流れる場所は多少のズレがあってもごまかせる。だが、曲がりと合流は誤魔化せない。
「詰まりやすいとしたらここですな」
ノルが低く言う。
「そうだね」
俺は枡の縁を指でなぞった。
「最初の試験で問題が出るなら、まずここだろう」
◇
最後に、街外れの受け場へ向かう。
仮の沈殿池は、まだ“工事中の池”という顔をしていた。縁は固め切っていないし、周囲の整地も途中だ。けれど、水を受けるだけの形はできている。
父がその場所を見回して言った。
「ここまで来ると、もう風呂だけの工事には見えんな」
「うん」
俺は頷いた。
「最初は浴場のための一本だけど、この流れができれば、あとで宿屋の風呂も、洗濯場も、厨房も考えやすくなる」
「水を使う場所は全部、同じ問題にぶつかるというわけか」
「そういうこと」
ノルが腕を組む。
「夏の臭いも減るでしょうな」
「減るだろうね。少なくとも、人の住む真ん中に使い終わった水を長く置かないで済む」
「井戸の近くへ勝手に流される心配も減る」
父が言う。
その通りだ。
この排水路は、風呂を再開するための工事でもある。
だがそれだけじゃない。
領都の水の捨て先を定める、最初の幹線だ。
そこまで考えた時、俺の中でこの工事の意味は、最初よりずっと大きくなっていた。
◇
「では、始めますか」
土木役が言った。
試験用の水は、営業時より少し多めに用意してある。
人が本当に入ってから問題が出るより、今ここで多少厳しめに流したほうがいい。
俺たちは浴場裏へ戻った。
管理役が合図を出し、溜めておいた水が落とされる。
ざっと流れ込んだ水は、まず受け枡へ落ちた。
そこで大きく跳ねることもなく、枡の底を叩いてから、予定通り本線の口へ吸い込まれていく。
「悪くない」
俺が言うと、土木役の肩がわずかに下がる。
「ここまでは、です」
そのまま俺たちは、点検枡へ走った。
流れている。
音も悪くない。
だが――
「……少し鈍いな」
俺が呟くと、ノルがすぐに枡の中を覗き込んだ。
「曲がりで溜まっていますな」
「泥か?」
「少し。それと、入口の角が立ちすぎてる」
土木役が顔をしかめる。
「流れ自体は死んでません」
「うん、死んではない」
俺は枡の縁に手を置いた。
「でも、このままだと営業を再開した時に毎回ここで引っかかる」
ここでごり押しして「通ったから良し」にするのは簡単だ。
でも、それをやるとあとで現場が困る。
「止めよう。ここを少し直す」
「はい」
土木役はすぐに職人を呼んだ。
枡の入口の石をほんの少し削る。泥が溜まりやすい部分をさらう。ついでに落ち口の角度も微調整する。大工事じゃない。だが、こういう最後の詰めを怠ると、通る流れも通らなくなる。
◇
再度、通水。
今度はさっきより素直に水が入った。
曲がり角でも余計に溜まらない。
点検枡の中を流れた水は、そのまま外れ側へ向かって抜けていく。
俺たちはそのまま街外れへ走った。
仮の沈殿池へ、水が届く。
流入の勢いは予想通り。少し片寄りはあるが、池そのものはきちんと受けている。
重い泥も入口側に落ちやすい。
しばらく全員が黙ってそれを見ていた。
最初に息を吐いたのは、浴場の管理役だった。
「……通りましたな」
「ああ」
俺もようやく頷く。
「通った」
土木役が、ようやく口元を緩めた。
「完璧とは言いませんが、これなら」
「これなら再開の目処は立つ」
俺は言った。
「ただし条件つきだ」
管理役が姿勢を正す。
「条件、ですか」
「最初は湯量を少し絞る。営業時間も短めにする。毎日、受け枡と点検枡を確認する。泥上げもこまめに」
「承知しました」
「本工事そのものは続く。蓋石も、外れ側の整備も、沈殿池の縁固めもまだ終わってない。
今通ったからといって、全部終わった顔はするなよ」
「はい」
父がそこで静かに口を開いた。
「浴場の再開はできる。だが、事業そのものの完成はまだ先、ということだな」
「そう」
俺は頷いた。
「俺が王都へ戻ったあとも、工事は続く。今できたのは、浴場を安全に動かす最低限の一本だ」
「それでも十分大きい」
父はそう言った。
「止めるだけで終わらず、通すところまで来たのだからな」