作品タイトル不明
第146話 騎士団長査定
騎士団長が木剣を取っただけで、訓練場の空気が一段沈んだ。
さっきまでの実技試験も十分に張りつめていた。だが、今は違う。
これはもう、学生同士の点数争いじゃない。
騎士団長という明らかな格上を前にして、どこまで通じるかを見られる査定だ。
その最初に立つのは、エドガーだった。
第二王子は静かな足取りで中央へ進み、騎士団長の前で一礼する。
騎士団長も軽く頷いた。
「始めるぞ」
短い声。
それだけで、周囲のざわめきが完全に消えた。
◇
エドガーは、いつも通り静かに構えた。
肩に力は入っていない。だが、ゆるんでもいない。呼吸も、視線も、間合いの取り方も、無駄がない。
対する騎士団長は、さらに自然だった。
構えているはずなのに、隙がない。
いや、隙がないというより――どこからでも動ける。
始まりの合図と同時に、エドガーは動かなかった。
不用意に踏み込めば、その瞬間に取られる。
それが分かっているからだろう。
騎士団長もまた、急かさない。待っているようでいて、実際は待っていない。
いつでも始められる位置に立ったまま、相手がどう出るかを見ている。
重い。
そう感じたのは、きっと俺だけじゃない。
数呼吸分の静止のあと、エドガーが初めて動いた。
探るような一歩。
そこに騎士団長の木剣がぴくりと反応する。
エドガーはすぐに踏み込みを止め、角度を変える。正面から行けば危ないと読んだんだろう。ならば、と横へずらし、次の一手を探る。
すごい。
普通の生徒なら、今の時点でもう飲まれている。
だがエドガーは崩れない。むしろ、騎士団長の圧を受けながら、その中で正しい手を探し続けている。
そして三合目。
エドガーの突きが伸びた。
速い。正確だ。いいところに入っている。
騎士団長はそれを木剣で受け流した。
木剣の甲高い音が響く。
次の瞬間、騎士団長の返しが飛ぶ。
エドガーは受ける。外す。下がらない。
だが、その選択肢を全部一歩ずつ狭められていく。
見ていて分かる。
エドガーは間違っていない。
それでも、その正しさの先に、騎士団長がいる。
五合目で、決まった。
エドガーが左へ逃がした木剣を、騎士団長が半歩だけ深く踏み込みながら絡め取る。そのまま、最短距離で木剣が胸元へ届いた。
「そこまで」
ローヴェン先生の声が響く。
訓練場が、息を飲んだまま固まる。
エドガーはすぐに下がり、一礼した。騎士団長も短く頷く。
「よく見えている」
騎士団長が言った。
「無駄も少ない。選び方も悪くない」
エドガーは黙って聞いている。
「だが、整いすぎている。上を相手にするなら、正しい手を選ぶだけでは足りん」
「……肝に銘じます」
短いやり取りのあと、エドガーが戻ってくる。
表情は大きく変わらない。だが、目だけはさっきより少し鋭くなっていた。
「すごかったな」
俺が小さく言うと、エドガーは苦く笑った。
「そう見えたなら嬉しいが、届かなかった」
「いや、普通ならあそこまでやれないだろ」
「同感ね」
セレナも低く言った。
そのとき、次の名が呼ばれた。
「ガイル・ベイルン」
◇
ガイルは返事も短く、中央へ出た。
エドガーの静かな査定のあとだけに、訓練場の空気がまた違って見える。
始まる前から、ガイルの身体には前へ出る気配がある。
騎士団長もそれを感じているのか、さっきよりほんのわずかに重心を落とした。
「始め」
その一声と同時に、ガイルが踏み込む。
速い。
さっきまでの生徒相手の時より、さらに一段鋭い。
初手から本気だ。
騎士団長は受けた。真正面から。
鈍い音が訓練場に響く。
木剣同士がぶつかっただけのはずなのに、まるで硬い板に鉄を叩きつけたような重い音だった。
ガイルは止まらない。
二撃目、三撃目と畳みかける。
ただ乱暴に振っているわけじゃない。相手の受け方を見て、次の軌道を変えている。
正面から押し潰すように見えて、その実かなり見ている。
だが、それでも騎士団長は押し込まれない。
受けるたびに、足が一寸もぶれない。
ただ――二度目に重い打ち込みを受けた時、騎士団長がごくわずかに握り直した。
ほんの一瞬だ。
見逃してもおかしくないほど小さい。
けれど、俺の目には引っかかった。
ガイルはそこからさらに踏み込んだ。勝負に行ったんだろう。
この勢いなら通せる。そう判断したのかもしれない。
その瞬間だった。
騎士団長の受けが、初めて変わる。
真正面で止めるんじゃない。わずかに角度をつけて力を流し、そのままガイルの木剣を外へ引き出す。
踏み込みきっていたガイルの身体が、ほんの一瞬だけ流れた。
そこへ、騎士団長の返しが入る。
「そこまで」
終わり。
ガイルは舌打ちこそしなかったが、悔しさを隠さない顔で一歩下がった。
「踏み込みがいい」
騎士団長が言う。
「前へ出る強さもある。受けた側に考える暇を与えん」
ガイルは黙ったまま聞く。
「だが、押し切るには読みが足りん。上を相手にするなら、力で通す前に、相手の選択肢を減らせ」
「……はい」
短く返して、ガイルが戻ってくる。
俺はその横顔を見た。悔しさは濃い。だが、折れてはいない。
「すごかったな」
「通ると思った」
ガイルが低く言う。
「私もそう思ったわ」
セレナが素直に言った。
そのとき、ガイル戦の間ずっと気になっていたものを、俺はもう一度見た。
騎士団長の木剣。
表面には、さっきまではなかった傷が増えている。エドガーの鋭い突きでついた浅い削れ。そこにガイルの重い打ち込みが重なった跡。
普通なら気にしない。
けれど――
「リオン・ハル」
名前を呼ばれ、思考が切れた。
◇
中央へ出る。
視線が集まる。
さっきまで以上に、訓練場中の目が俺を見ていた。
騎士団長は、俺を正面から見た。
「ガルムベアを倒したそうだな」
低い声。
「だが、俺はあれより甘くないぞ」
周囲がわずかにざわつく。
俺は木剣を構えながら答えた。
「そうでしょうね」
それ以上は言わない。
言葉を重ねるより、この人には動きで返すほうがいい。
騎士団長の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうかも分からない程度だ。
「始め」
俺たちは同時に動いた。
いや、正確には、まだ互いに探っていた。
エドガーともガイルとも違う。
俺はすぐには行かない。
騎士団長も、まずは見る。
その静かな数呼吸の間に、綻びの目を使った。
世界がわずかに変わる。
騎士団長自身の情報が浮かぶ。
《重心移動:即応》
《誘い:有》
《隙:偽装》
《初動読取難度:高》
……強い。
見えても意味がない綻びがある。
隙に見えるものが、隙じゃない。踏み込ませるための餌だ。
だが、それだけじゃなかった。
視線を木剣へ移した瞬間、別の表示が浮かぶ。
《木剣:損耗・中》
《亀裂:中央やや下》
《破断誘発:同一点への連続衝突》
《防御傾向:左斜め受け》
《誘導成立率:高》
理解した。
正面から勝つのは無理だ。
この人に真正面の技量比べを挑んでも、いずれ潰される。
なら、勝ち筋は別にある。
この人自身じゃない。
この場に生まれている綻びを使う。
騎士団長が動いた。
速い。
けれど、ガルムベアの突進とは違う。重くて速いだけじゃない。
人間の技だ。読み合いを伴った速さだ。
俺は一歩引いて、それを外す。
返しの一撃を入れる。
首筋。
通れば決まる軌道だ。
騎士団長は受けた。
左斜め。
予想通りだ。
木と木がぶつかる。
俺はすぐに離れる。深追いしない。
「……ほう」
騎士団長が小さく息を吐いた。
もう一度来る。
今度は手首。
防がなければ握りを殺せる位置。
騎士団長はこれも受けた。
左斜め。
同じ場所に、また負荷が入る。
俺は下がる。
ここで踏み込めば、今度はこっちが狩られる。
それくらいのことは分かる。
訓練場の外から見れば、攻防はそこまで派手じゃないかもしれない。
けれど、中にいると分かる。
一手ごとに神経を削られる。
騎士団長は明らかに強い。
その人が、俺の打ち込みを一つも通させまいとしている。
しかも、その受け方に癖がある。
いや、癖というより選択だ。
もっとも安全で、もっとも速い受け方を無意識に選んでいる。
だからこそ、そこに綻びができる。
三度目は胴へ。
今度は少し深めに踏み込む。
騎士団長の目が細くなった。
受ける。
左斜め。
鈍い感触が手に返る。
《亀裂拡大》
見えた。
いける。
だが、次で決めに行けば、向こうも気づく。
あと一手か、二手。
騎士団長の木剣がわずかに揺れたのを見て、騎士団長自身も何かを感じ取ったらしかった。
「……何を見ている?」
低く、ほんの小さな声。
聞こえたのはたぶん俺だけだ。
「さあ」
答えながら、俺は踏み込んだ。
今度は喉元へ、一直線。
騎士団長は受けるしかない。
受けた。
また左斜め。
衝突の瞬間、木剣の内側から嫌なきしみが伝わった。
もう少し。
でも、ここから先は俺もかなりきつい。
息が上がっている。腕も重い。さっきまでの応用課題と実技試験の疲労が、ここへ来てじわじわ効いてきた。
騎士団長はまだ余裕があるように見える。
実際、総合力では向こうが上だ。
だから次で終える。
終えないと、こちらが潰れる。
俺は一度だけ、ほんのわずかに隙を見せた。
右肩が開く。
踏み込みが半歩遅れる。
格上なら見逃さない、甘い綻び。
騎士団長が来た。
速い。
読みも踏み込みも、一段深い。
けれど、それを待っていた。
俺は体をずらしながら、返しの一撃を首筋へ振り抜く。
通せば決まる。
だから、この人は防ぐ。
その読みは当たった。
騎士団長の木剣が、左斜めに入る。
ぶつかる。
甲高い音。
次の瞬間、ぱきり、と乾いた破断音が訓練場に響いた。
騎士団長の木剣が、中央やや下から折れる。
そこで終わらせない。
折れた刹那に、俺は踏み込みを止めず、そのまま残った軌道を生かして切っ先を滑らせた。
木剣の先端が、騎士団長の首筋へぴたりと止まる。
静寂。
本当に、一瞬、誰も息をしなかったんじゃないかと思うくらい、訓練場が静まり返った。
俺も止まったまま動けない。
切っ先の先にある首筋。
折れた木剣。
目の前の騎士団長。
全部が現実感を失ったみたいに見える。
騎士団長が、折れた木剣を見た。
それから首筋に止まった俺の剣先を見る。
最後に、俺の顔を見た。
「……そこまでだ」
低い声が落ちる。
それだけで、張りつめていた空気が弾けた。
「折れた……?」
「え?」
「今、入ったよな……?」
「騎士団長の木剣が……?」
どよめきが一気に広がる。
けれど、俺にはその声が遠かった。
騎士団長が、折れた木剣を軽く持ち上げた。
「木剣の損耗まで勝ち筋に変えるか」
その言葉が、やけにはっきり聞こえる。
「面白い」
俺はようやく剣を引いた。
その瞬間、全身から力が抜けそうになった。
危うく膝が折れかける。なんとか踏みとどまるが、息が荒い。
喉が焼けるみたいに熱い。手も少し震えていた。
勝った。
……勝ったのか?
本当に?
目の前には折れた木剣がある。騎士団長本人が「そこまでだ」と言った。理屈では分かる。
でも、実感が追いつかない。
俺は荒く息を吐いた。
はぁ、はぁ、と情けないくらい呼吸が乱れる。
視界の端では、エドガーが目を細め、ガイルが驚きと悔しさの混ざった顔でこちらを見ていた。
セレナは口元をわずかに引き結び、ナディアは両手を胸の前で握っている。
ヴィクトルは呆れたように笑っていた。
けれど、全部遠い。
今はただ、目の前の結果だけが信じられなかった。
「……勝負あり」
騎士団長の声が、もう一度響く。
その一言で、ようやく分かった。
俺は今、本当にこの人に一本取ったのだと。
それでもなお、すぐには動けなかった。
荒い息のまま、俺はただ、信じられないものを見るみたいな顔で、折れた木剣と自分の切っ先を見つめるしかなかった。