作品タイトル不明
第143話 試験初日
ヴァレスト公爵邸での勉強会のあとも、俺たちは止まらなかった。
朝は授業前に要点の確認。放課後は図書室か空き教室で筆記と応用課題の詰め。
時間があれば訓練場で実技に向けた調整。
怪我が治ったあとも無理はせず、だが甘やかしもしない。
そんな日々を、期末試験まで繰り返してきた。
飛び級の条件は、一回だけ派手な結果を出せばいいものじゃない。
三分野で、三学期続けて上に立つこと。
ローヴェンの言葉は、あれから何度も頭の中で反芻した。
――飛び級は、たまたま一回高得点を取った人間のための制度じゃない。三学期続けて上に立てる人間のためのものだ。
その通りだと思う。
そして今日、その一日目が始まる。
◇
「静かだな」
朝のSクラスで、俺は自分でも少し驚くくらい普通の声でそう言った。
いつもなら誰かしら軽口の一つは飛ばす。ヴィクトルなんかは特にそうだ。だが今日ばかりは、教室全体が張り詰めていた。
窓の外はよく晴れている。なのに空気は妙に重い。
期末試験初日。筆記試験の日。
明日には応用課題と実技が控えているとはいえ、最初の一日で流れは決まる。少なくとも、そう思っている人間は多いはずだ。
「今さら喋ることもないでしょう」
セレナは机に置いたノートを閉じながら言った。声は落ち着いているが、無駄な動きが一つもない。こういう時のセレナは、よく研いだ刃物みたいだ。
「そうですね。昨日のうちに確認はだいたい終わりましたし」
ナディアも柔らかく笑う。だが、その笑みの奥にある集中は隠れていない。彼女は最後まで丁寧に積み上げるタイプだ。こういう試験では、案外一番崩れにくい。
「筆記で大きく落とすと、あとがきついからな」
ガイルが短く言った。
その言葉に、ヴィクトルが肩をすくめる。
「分かってるよ。でも、それを言うなら筆記で無理に満点を狙って時間を溶かすのも危ない。取る問題を落とさない。それだけだ」
「商人らしいな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
二人のやり取りに、ほんの少しだけ教室の空気が和らぐ。
エドガーはその様子を見てから、静かに口を開いた。
「焦るほど、難しい一問に引っ張られる。今日の試験は、そこを見るためのものでもあると思う」
「嫌なことをさらっと言うな」
「でも本当でしょう、リオン」
「……否定はしない」
実際、学院の筆記試験は単純な暗記の羅列じゃない。基礎を確認しつつ、そのうえで理解の深さも問う。しかも二学期は一学期より確実に難度が上がる。
分かる問題を確実に取り、迷う問題に時間を奪われすぎないこと。
それができるかどうかで、点は想像以上に変わる。
前の席から振り返った男子が、ちらりとこちらを見た。
最近は、そういう視線が増えた。
王の領地視察随行、Aランク魔物討伐の噂が学院中に広がってから、俺を見る目は少し変わった。すごい、という感情と、本当に同学年なのか、という戸惑いと。ついでに面倒くさい期待も混ざっている。
だが、今日の教室ではそんなものに意味はない。
答案用紙の上じゃ、噂は点にならない。
教室の扉が開き、ローヴェンが入ってきた。
一瞬で空気が締まる。
いつも通り無愛想な顔。だが、その目は教室全体を鋭く見ていた。
「座れ。これから筆記試験だ」
低い声が教室に落ちる。
全員の視線が集まったのを確認してから、ローヴェンは教壇の前で腕を組んだ。
「今さら言うことは多くない。準備してきた奴は、その準備を出せ。してこなかった奴は、今日になって急に賢くはならん」
何人かがごくりと唾を飲み込む音がした。
「一つだけ言っておく。筆記は知識比べじゃない。基礎を落とさず、難問に呑まれず、最後まで崩れない奴が勝つ。頭がいいだけの人間は、案外ここで点を落とす」
そこで一拍置く。
「……以上だ。健闘を祈る」
短い。だが十分だった。
静かな圧が、教室にさらに重く沈む。
俺は息を一つ吐いて、机の上のペンを見た。
森で剣を握る時とは違う緊張だ。
血の匂いも、土の感触もない。ただ、白い紙と黒い文字だけが相手になる。
けれど、これも勝負だ。
しかも、逃げ場のない勝負だ。
◇
やがて試験官が入室し、問題用紙と答案用紙が配られていく。
紙の擦れる音だけがやけに大きく聞こえた。
「始め」
その一言で、教室中の空気が一斉に動いた。
俺はまず全体をざっと見た。
……なるほど。
一学期より明らかに重い。
基礎問題はある。だが、単純に語句を埋めるだけじゃない。歴史なら背景理解まで、魔法理論なら原理のつながりまで問う問題が増えている。しかも選択の仕方が一学期以上にいやらしい。曖昧な理解をそのままにしていると、平然と足をすくわれる構成だ。
悪くない。
むしろ、こういうほうが差は出る。
俺は最初のページから順に手を動かした。
焦らない。止まらない。
学院の講義、ローヴェン先生の補足、エドガーとの議論、セレナの整理、ナディアの噛み砕いた説明、ヴィクトルの視点。ここ数週間で頭に詰め込んだものを、一つずつ答案へ落としていく。
前世知識が役に立つ場面もないわけじゃない。
だが、それで解けるほど甘くはない。
この世界の制度、この王国の成り立ち、この学院が求める答え方。それを理解していなければ、高得点には届かない。
だからこそ面白い。
紙の上の問題と対話しているうちに、周囲の音が遠のいていく。
何問か進んだところで、ひとつ手が止まった。
魔法行使時の属性干渉に関する記述問題。
知識だけなら答えられる。だが、設問はそこから一歩踏み込んで、特定条件下でなぜ制御が乱れるか、その理由まで書かせていた。
雑に書けば部分点は取れる。
けれど、ここで甘いことをすると後悔する。
俺は設問文をもう一度読み直した。
……いや、そうか。
問われているのは現象そのものじゃない。前提条件のズレだ。
原因と結果の順を逆に見ていた。
気づいた瞬間、するりと答えが繋がる。
ペン先がまた滑らかに動き出した。
ちらりと横を見ると、ガイルが珍しく眉間にしわを寄せていた。だが、手は止まっていない。前より明らかに粘れている。
試験時間の半ばを過ぎた頃には、教室の空気はさらに重くなっていた。紙をめくる音、ペンを走らせる音、息を飲む気配。その全部が、点数を奪い合う音に聞こえる。
最後の大問までたどり着く。
ここも厄介だった。
一学期の学び、そして二学期の学びと複数の知識をまたがって答えさせる構成。表面だけさらった人間は、まず崩れる。
だが、逆に言えば、ここを取れれば大きい。
俺は設問の順にこだわらず、確実に取れる箇所から先に埋めた。後回しにした一問へ戻る。数秒考える。必要な要素を整理する。余計な言葉を削る。書く。
よし。
少なくとも、戦える答案にはなった。
「残り十分」
試験官の声が響く。
俺は一度だけ深く息を吸い、見直しに入った。
誤字、書き漏れ、設問の読み違い。こういうので点を捨てるのが一番馬鹿らしい。答案を上から順に確認していく。
……大丈夫だ。
完璧かどうかは分からない。
だが、手ごたえはある。
「そこまで」
ペンを置く音が、一斉に鳴った。
終わった。
たったそれだけのことなのに、肩の力が少し抜ける。
だが、教室の空気はまだ終わっていない。誰もすぐには立たなかった。今書いたものがどう評価されるか、その重みが残っている。
答案が回収され、試験官が退出すると、ようやく教室のあちこちで小さく息が漏れた。
「難しかったわね」
最初に口を開いたのはセレナだった。
「一学期よりは確実に難しかったですね」
ナディアも頷く。
「最後の大問、嫌な作りだったな」
ガイルが短く言う。
「嫌らしかった。あれ、真面目に全部正面から解こうとすると時間を持っていかれる」
ヴィクトルが机に肘をつきながら言った。
「でも、解けない問題ではなかった」
エドガーのその一言に、全員が一瞬だけ黙る。
その通りだ。
難しい。だが理不尽ではない。
届くか届かないか、ぎりぎりの場所を突いてくる。だからこそ厄介で、だからこそ燃える。
「リオンさんはどうでした?」
ナディアに聞かれ、俺は少しだけ考えてから答えた。
「満点かは分からない。でも、落とした感じはあまりない」
「私も似た感じね」
セレナが即座に返す。
「僕もだ」
エドガーが続いた。
「……言うと思った」
思わず笑うと、ヴィクトルが肩をすくめた。
「この三人、本当に嫌になるな」
「まだ一日目だろ」
「その一日目が重いんだよ」
そう言いながらも、ヴィクトルの目は死んでいない。ガイルも同じだ。ナディアも静かに次を見ている。
誰も終わった顔をしていない。
当然だ。
明日は応用課題と実技がある。
むしろ、本番はそこからだ。
ローヴェンが教室の前からこちらを見た。
「筆記が終わったからといって、気を抜くな。明日のほうが差は出る」
いつものぶっきらぼうな声。
けれど、その言葉に嘘はない。
俺は立ち上がって、窓の外を見た。
冬の光が、校舎の石壁を白く照らしている。
一日目は終わった。
だが、飛び級を本気で狙うなら、こんなところで満足している暇はない。
明日。
応用課題と実技。
机の上だけじゃ終わらない勝負が、待っている。