作品タイトル不明
第140話 噂の中心
ガルムベア討伐の翌日も学院は休みだったので、ほとんど寝て過ごした。
肩の傷は思ったより深く、脇腹の打撲も鈍く残っている。煙を吸ったせいか喉の奥もまだ少し痛んだ。
ギルドで受けた治療のおかげで命に別状はないし、動けないほどでもない。
だが、さすがに翌日に何事もなかったように動けるほど甘くはなかった。
それでも、一日休んだことでだいぶ楽にはなった。
翌朝。
包帯こそ残っているが、制服に腕は通せる。歩くのも問題ない。
だから俺は、普段通り学院へ向かった。
冬の気配が、朝の空気に混じり始めている。
校門へ続く道を歩きながら、肩を軽く回すとまだ少しだけ痛んだ。
だが、それより先に気になったのは――視線だった。
門をくぐった瞬間から、空気が少し違う。
廊下ですれ違う生徒たちが、ちらりとこちらを見ては何かを囁く。
隠しているつもりなのだろうが、ほとんど隠れていない。
「あれが……」
「本当に王都近郊でAランクを?」
「ギルドでCランクに上がったって聞いた」
「学院の一年だろ?」
話が広がるの、早すぎないか。
いや、冒険者ギルドであれだけ騒ぎになったのだ。王都の中で噂が走るのは当然かもしれない。
それに、王立学院には貴族子弟も多い。家の使用人経由で話が入っても不思議ではない。
とはいえ、こうして実際に向けられると落ち着かない。
俺はできるだけ気にしないように歩き、教室の扉を開けた。
中の空気も、やはり少し違った。
完全にざわついているわけではない。
だが、俺が入った瞬間、会話が一拍だけ止まる。
「……来たわね」
最初に口を開いたのはセレナだった。
席に着く前からこちらをじっと見ている。
その目は呆れているようにも見えるし、怒っているようにも見えるし、少し安心しているようにも見えた。
「無茶しすぎよ」
開口一番、それだった。
「おはようより先にそれか」
「そこは当然でしょう」
セレナは腕を組む。
「Aランク魔獣とやり合って、何事もなく戻ってくる方がおかしいのよ」
「何事もなくは戻ってきてないけどな」
肩の包帯を軽く示すと、セレナは一瞬だけ眉を寄せた。
そこで初めて、本気で心配していたのがわかる。
「……それでも軽傷で済んだなら、まだましね」
「本当に、ご無事でよかったです」
ナディアがやわらかい声で言った。
その言い方には誇張がなく、ただ本心だけがそのまま入っていた。
「ありがとう」
俺が返すと、ナディアは小さく微笑む。
「でも、あまり無理はなさらないでください。まだお顔も少し疲れて見えます」
「そこは否定しない」
「で?」
ヴィクトルが机に肘をつきながら身を乗り出した。
「本当にCランクになったのか?」
食いつくところがいかにもこいつらしい。
「なったよ」
「うわ、本当か」
ヴィクトルが素直に驚く。
「しかもAランク討伐扱いなんだろ? ギルド、どんな空気だった?」
「最初は誰も信じてなかった」
俺は席に着きながら答えた。
「証明部位出して、助けた冒険者三人が証言して、ようやく空気がひっくり返った感じだな」
「だろうな」
ヴィクトルは笑う。
「王都近郊でAランクとか、普通に考えたらありえない」
「報酬も相当だったのでは?」
ナディアが控えめに尋ねる。
「その場の若手冒険者が一年かけても触れない額、らしい」
その一言で、近くにいた数人のクラスメイトが小さく息を呑んだのがわかった。
ヴィクトルは片眉を上げる。
「……それはまた、派手だな」
「俺もまだ実感が薄いよ」
「で」
今度はガイルが口を開いた。
「どう勝った」
聞くことがそこなのは、こいつらしい。
エドガーも無言のままこちらを見ていた。
目だけで、同じことを聞いている。
「真正面からは勝ってない」
俺は短く答えた。
「煙と地形を使って、動きを崩して、隙が出来たところを仕留めた」
「なるほど」
ガイルがすぐに頷く。
ヴィクトルが半ば呆れたように言う。
「俺からすると、その説明の方が余計におかしいけどな。Aランク相手にそこまで組み立てて生きて戻ってくるって何だよ」
「私もそう思うわ」
セレナがさらりと言う。
「むしろ“真正面から勝っていない”っていう説明の方が、リオンの異常さを補強してるのよ」
「褒めてるのか貶してるのか、どっちだよ」
「半々ね」
その返しで、教室の空気が少しだけ和らいだ。
噂で騒いでいる周囲と違って、こいつらは結局いつもの距離で話してくる。
そこが妙にありがたかった。
「でも」
ナディアが言う。
「今朝から皆さん、かなりリオンさんを見ていますね」
「見てるな」
ヴィクトルも苦笑する。
「もう完全に噂の中心だぞ、お前」
その言葉を聞いたところで、教室の前の扉が開いた。
担任のローヴェンが入ってくる。
ざわつきが少しだけ静まる。
ローヴェンは教卓の前まで来ると、教室を一度見回し、それから俺へ視線を止めた。
「リオン」
短く呼ばれる。
「学院長がお呼びだ」
やっぱり来たか。
教室のあちこちで、空気が揺れるのがわかった。
「今ですか?」
「今だ」
ローヴェンはそれ以上余計なことは言わなかった。
「行ってこい」
俺は立ち上がり、軽く頷く。
席を離れる時、セレナが小さく言った。
「変に突っぱねないでね」
「そんなことしないよ」
「どうかしら」
と言いつつも、その顔は少しだけ楽しそうだった。
◇
学院長室へ向かう廊下は、やけに静かだった。
ここを歩くのは初めてじゃない。
それでも今日は、いつもと違う緊張があった。
扉の前で一度だけ息を整え、ノックをする。
「入りなさい」
中から落ち着いた声が返る。
扉を開けると、学院長は机の向こうで書類に目を落としていた。
年齢を重ねた人特有の穏やかさはあるが、その下にある目の鋭さは隠れない。
「失礼します」
「来たね。座りなさい」
言われた通りに腰を下ろす。
学院長はすぐに話し始めなかった。手元の書類を閉じ、俺の肩の包帯へ一度だけ目をやってから、静かに口を開いた。
「王都近郊の森で、Aランクのガルムベアを討伐したそうだね」
「はい」
「王都冒険者ギルドから学院にも正式な連絡が来ている」
学院長は淡々と言う。
「討伐証明あり。目撃証言あり。Cランク昇格も正式処理済み」
そこまで把握しているのか。
「まず確認しておくが」
学院長は指を軽く組んだ。
「本来、学院生が単独でAランクの相手をするのは軽率だ」
その一言は重かった。
だが、責めるだけの声ではない。
「君自身も、今回が綱渡りだったことは理解しているね?」
「……はい」
そこは即答できた。
「正面からなら勝てませんでした。あの場で冒険者の方々が襲われていなければ、深入りしなかったと思います」
「だろうね」
学院長は頷く。
「だが、その場に人がいて、放っておけば死んでいた可能性が高い。君はそこを見て、判断し、機転を利かせた」
そこで一拍置く。
「その判断で他の冒険者の命を救い、その上で討伐まで成し遂げたことは、学院としても無視できない功績だ」
その言葉は、思っていた以上に重く胸へ落ちた。
褒められ慣れていないわけじゃない。
でもこれは、少し違う。
学院の外で起きたことを、学院の長が正式に評価している。
それが妙に現実味を持って響いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いよ」
学院長は穏やかに返す。
「評価することと、同じ行動を今後も推奨することは別だ」
「はい」
「君は最近、学院の外でも目立ち始めている」
学院長は続ける。
「領地の事業、商会とのつながり、そして今回のAランク討伐。どれも学生の範囲に収まらない」
図星だった。
「だが」
学院長の声は少しだけ柔らかくなる。
「君はまだ王立学院の一年生でもある。そこを忘れては困る」
「……わかっています」
「本当に?」
少しだけ目を細めて聞かれる。
「たぶん、今まさに思い知らされてます」
そう答えると、学院長は小さく口元を緩めた。
「ならいい」
それから、机の上の別の書類へ手を伸ばす。
「まもなく二学期の期末試験だ」
その一言で、空気が切り替わったのがわかった。
「飛び級を本気で考えているなら、ここからの数週間は極めて重要になる」
そうだ。
森でAランクを倒しても、学院の中では別の戦いがある。
しかも、そっちはそっちで逃げられない。
「武勇だけで進める道ではない」
学院長ははっきり言った。
「君が次の段階へ進みたいなら、今度は机の上で結果を出しなさい」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
叱責ではない。
期待も含んでいる。
だからこそ、軽く聞き流せない。
「はい」
俺は素直に頷いた。
「準備します」
「うむ」
学院長も短く頷く。
「それと、しばらくは怪我を悪化させるような無茶は避けなさい。」
「はい。気をつけます」
「よろしい」
話はそれで終わりだった。
だが立ち上がる前に、学院長は最後に一言だけ加えた。
「今回の件、学院として誇りに思うよ」
それは大仰な言い方ではなかった。
ただ、事実を静かに置くような声音だった。
だからこそ、余計に響いた。
◇
学院長室を出ると、廊下の空気はさっきと何も変わっていない。
次は期末試験だ。
教室へ戻ると、案の定、視線が集まった。
「どうだった?」
ヴィクトルが真っ先に聞いてくる。
「軽率だが、功績は認めるってさ」
俺が答えると、セレナがすぐに息を吐いた。
「まあ、そうなるわよね」
「で?」
ガイルが聞く。
「それだけか?」
「まもなく期末だから、飛び級を考えてるならちゃんと準備しろって釘刺された」
その瞬間、セレナの表情が変わる。
「ほら、やっぱり」
腕を組んで言う。
「言ったでしょう。もう無茶をしちゃダメよ?」
「言われなくてもわかってる」
「怪しいわね」
ヴィクトルが笑う。
「お前、このまま勢いでまた何かやらかしそうだし」
「さすがにしばらくは大人しくするよ」
「本当かしら」
セレナが疑わしげに言う。
「少なくとも怪我してる間は無茶できません」
ナディアがやわらかく口を挟んだ。
「今はちゃんと治して、試験の準備もなさってください」
「ナディアが言うと素直に従いたくなるな」
ヴィクトルが言うと、ナディアは少し困ったように笑う。
エドガーはそこで短く言った。
「なら次の勝負は机の上だな」
それが、この場では一番しっくりくる言い方だった。
Aランクの魔獣を倒しても、学院の中で待っているのは期末試験。
少し前の自分なら、その切り替わりに戸惑ったかもしれない。
でも今は、そういうものだと思えた。
森から生きて帰ってきても、日常は止まらない。
そして今度の勝負は、剣でも魔法でもない。
俺は自分の席へ座り、肩の痛みを無視しながらノートを開いた。
噂の中心にいることより、今は次に何をやるべきかの方が大事だ。
期末試験。
飛び級。