作品タイトル不明
第138話 煙の綻び
勝てるとは思わない。
だが、殺されずに済む道がゼロじゃないのなら、そこへ賭けるしかない。
俺は血の滲む肩を押さえながら、半壊した炭焼き跡へ向かって走った。
背後では、ガルムベアの重い足音が森を揺らしている。
速い。
あの巨体で、どうしてここまで速いのかと思う。
振り返る余裕もない。視界の端で黒褐色の影が膨らんだ瞬間、俺は横へ飛んだ。
次の瞬間、さっきまでいた場所の石組みが砕けた。
「っ……!」
破片が頬を掠める。
炭焼き跡の低い壁が、前脚の一撃で半ば吹き飛んだ。
ガルムベアは煙も石も気にしていない。
ただ、俺だけを見ている。
綻びの目が淡く明滅した。
《興奮:極大》
《追尾意識:高》
《視野:狭化》
《誘導可能性:有》
なら、まだ使える。
俺は炭焼き跡の内側へ踏み込み、転がっていた乾いた枝と古い炭へ火魔法を落とした。
小さな火種が走る。
そのまま近くの湿った落ち葉を蹴り込み、さらにもう一度火を入れる。
炎は大きくならない。代わりに、重い煙が一気に立ち上った。
焦げた匂い。
湿った葉の嫌な煙。
古い炭が燻る、鼻の奥に張りつくような臭気。
ガルムベアが低く唸る。
嫌がったわけじゃない。
むしろ怒った。
煙の向こうから、黒い塊がそのまま突っ込んでくる。
「そう来るよな!」
俺は石壁の残骸を蹴って横へ逃げる。
直後、ガルムベアの体当たりで炭焼き跡の入口がさらに崩れ、石と土が跳ね上がった。
煙が散り、また溜まる。
視界が悪いのは相手だけじゃない。
俺も喉が焼ける。目も痛い。
だが、それでいい。
火で焼くんじゃない。
煙で息を乱し、動きを崩す。
相手はAランク。
まともに斬って勝てる相手じゃない。だからこそ、巨体と興奮を綻びに変える。
ガルムベアがまた肩を沈めた。
綻びの目が走る。
《前肩沈下:深》
《呼吸:荒い》
《突進精度:低下》
《平衡感覚:微減》
まだ足りない。
だが、崩れ始めている。
俺はわざと一歩だけ遅れて見せるように動いた。
煙の切れ目に身体を晒し、相手の狙いを固定させる。
ガルムベアの目が俺を捉える。
来る。
俺は炭焼き跡の外れ、石組みと倒木に挟まれた狭い地面へ向かった。
そこはすでに踏み荒らされ、表面の土が緩んでいる。
ガルムベアが吼える。
突進。
綻びの目に、次の文字が浮かんだ。
《前脚着地点:集中》
《転倒可能性:有》
今だ。
俺は振り向きざま、着地点へ向けて水魔法を叩き込んだ。
地面が一気に濡れる。
ただ濡らしただけじゃない。踏み荒らされていた土が、一瞬で泥濘へ変わった。
ガルムベアの前脚がそこへ突っ込む。
巨体ゆえに、その一歩は重い。
勢いの乗った前脚が泥へ深く沈み、次の一歩がわずかに遅れた。
そのわずかな遅れが、Aランクの巨体には致命的だった。
ガルムベアの身体が前へ流れる。
踏ん張れない。
さらに煙で視界も甘い。
巨体が大きく傾き、そのまま石組みの残骸へ肩から激突した。
轟音。
石が砕け、泥と炭が跳ね上がる。
ガルムベアは即座に立て直そうとしたが、前脚がもつれ、首が不自然に大きく開いた。
綻びの目が強く光る。
《前脚支持:破綻》
《首筋防御:低下》
《急所露出:大》
勝ち筋が、見えた。
「ここだ!」
俺は泥を蹴って踏み込み、全体重を乗せて剣を突き出した。
狙うのは喉元ではない。
そこはまだ厚い。
わずかに横を向いた首の付け根。
毛並みと筋肉の流れが乱れた、ほんの一瞬だけ開いた綻び。
刃が食い込む。
浅い。
だが、それで終わりじゃない。
俺は左手に集めていた火魔法を、刺さった剣へ流し込んだ。
柄越しに伝わる熱。
肉の内側で、魔力が弾ける。
ガルムベアが咆哮した。
森が震える。
次の瞬間、振り上げられた前脚が俺を横から薙いだ。
「がっ……!」
避け切れない。
まともに受ける前に身を捻ったが、それでも身体が吹き飛ぶ。
地面を転がり、倒木に背中を打ちつけてようやく止まった。
息が詰まる。
視界が揺れる。
立て。
まだ終わってない。
無理やり顔を上げる。
煙の向こうで、ガルムベアがよろめいていた。
前脚に体重を乗せ切れず、首を大きく振っている。呼吸も荒い。足元の泥濘と砕けた石が、その巨体の踏ん張りを邪魔していた。
綻びの目が、最後の文字を示す。
《平衡感覚:大幅低下》
《致命綻び:維持中》
終わらせる。
俺は立ち上がり、もう一度だけ踏み込んだ。
ガルムベアがこちらを見た。
だが、遅い。
煙。
泥。
激突。
荒れた呼吸。
積み上がった全部が、たった一瞬だけこいつの動きを鈍らせた。
俺は剣を深くねじ込み、そのまま全力で引き裂いた。
ガルムベアの巨体が大きく震える。
一歩。
二歩。
こちらへ出ようとして、出られない。
そしてそのまま、地面へ崩れ落ちた。
重い音が、森の奥まで響く。
しばらく動かなかった。
それでも俺はすぐには近づかない。
荒い息を整えながら剣を構え、煙が少し薄れるのを待つ。
やがて、完全に沈黙したのを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。
「……勝った、のか」
自分で言っても、実感は薄かった。
勝ったというより、生き残った。
それが正しい気がする。
膝から力が抜け、その場に片手をつく。
肩も脇腹も痛い。喉も煙で焼けるようだった。
だが、死んでいない。
その時、後方から足音がした。
「お、おい……!」
さっきの三人組の冒険者だった。少し距離を取っていたらしい。
「本当に……倒したのか?」
「……たぶん」
俺がそう答えると、前衛役の男がガルムベアの死体を見て、唖然とした顔になる。
「Aランクだぞ……」
「正面から勝ったわけじゃありません」
俺は息を整えながら言った。
「地形と煙で崩しただけです」
「それをやってのけるのが異常なんだよ……」
若い冒険者がそう呟いたが、今はそれに返す余裕がなかった。
俺はガルムベアの巨体をもう一度見た。
本来なら、こんな王都近郊の森にいる魔物じゃない。
「なんでこんなところに出てくるんだ、、、」
ガルムベアは倒した。
だが、これで終わりとは思えない。
その確信だけが、煙の残る森の中で妙に鮮明だった。