軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第120話 持ち帰ったもの

ローヴェル伯爵領から王都へ戻った翌朝、俺はいつも通り教室の扉を開けた。

視察に出ていたのは数日だけだ。

それでも、学院の空気は妙に久しぶりに感じる。

窓から差し込む朝の光。

まだ授業前のざわめき。

机に荷物を置く音。

誰かが椅子を引く音。

ああ、戻ってきたな、と思った。

「来たわね」

先に声をかけてきたのはセレナだった。

その隣ではナディアが静かに微笑んでいて、少し離れたところでヴィクトルが椅子に斜めに座っている。ガイルはいつものように無駄口なく机に肘をついていた。エドガーも、もう席に着いている。

いつもの顔ぶれだった。

「おかえりなさい、リオンさん」

ナディアが柔らかく言う。

「ただいま、でいいのかな」

「それで合ってると思うわ」

セレナが肩をすくめた。

「王の視察に同行して戻ってきた人間にしては、ずいぶん普通の顔をしてるじゃない」

「普通じゃない顔って、どんな顔だよ」

「もっとこう……大仕事を終えた風とか」

「そんなに大げさなことじゃないよ」

「父上と兄上から話は聞いた」

エドガーがそこで口を開いた。

俺がそちらを見ると、エドガーは相変わらず静かな顔のまま続ける。

「どこにいても、誰を相手にしても、お前はお前だな」

「褒めてるのか、それ」

「半分は」

そこでヴィクトルが吹き出した。

「半分は呆れてるんだろ」

「否定はしない」

エドガーが即答すると、教室の空気が少しだけ緩む。

セレナが俺の机の端に指先を置いた。

「休んでいた分の授業内容、放課後にまとめて共有するわ。ノートも見せる」

「助かる」

「当然よ。変なところで置いていかれても困るもの」

言い方は相変わらずだが、ありがたいのは本当だ。

ナディアも小さく頷く。

「私も必要でしたら、補足いたします」

「ありがとう」

ガイルが短く言う。

「戻った初日に遅れるのは格好がつかん」

「お前に言われるとそうだな」

「そういうことだ」

短い会話だけで、学院の日常が戻ってきた感じがした。

ローヴェル領で王や伯爵と話していたのが、少しだけ遠いことのように思える。

だが、それでも全部が元通りというわけではなかった。

教室の空気の奥に、少しだけ「視察に行ったリオン」という見方が混ざっているのを感じる。

露骨ではない。

ただ、前より少しだけ視線が多い。

まあ、仕方ないか。

そこで始業の鐘が鳴った。

午前の授業はいつも通り進んだ。

数日空いただけなのに、授業の流れは容赦がない。

教師は当然のように先へ進み、当然のように前提を共有してくる。

だからこそ、放課後にセレナのノートを見せてもらえるのはありがたかった。

ただ、不思議と内容そのものは前より頭に入りやすかった。

数字の話を聞けば、ローヴェルで見た帳簿の動きが浮かぶ。

魔法理論の効率や応用の話を聞けば、街灯や冷却箱のことと自然につながる。

午前が終わり、昼の鐘が鳴る。

俺たちはいつものように食堂へ向かった。

学食は昼時なので混んでいた。

席を確保して、トレーを置いて、ようやく一息つく。

今日の昼食は肉の煮込みとパン、薄いスープ。悪くない。

「それで」

ヴィクトルが早速身を乗り出してきた。

「王様はどんな感じだったんだ?」

「よく喋る」

そう答えると、セレナが少しだけ笑った。

「エドガーと真逆ね」

「たしかに」

エドガー本人は特に反応しない。

「でも、喋るから軽いわけじゃない。場を動かすのがうまいというか……ちゃんと見てる」

そう言いながら、あの王の目を思い出す。

アルフレッドもそうだ。

よく喋るが、ただ賑やかなだけじゃない。

「父上も兄上も、人を話させるのは上手い」

エドガーが淡々と言う。

「そこに黙って立ってるだけで圧を出すのとは違うやり方だ」

「お前、その言い方だと自分がそういうタイプだって認めてるぞ」

ヴィクトルが言うと、エドガーは少しだけ眉を動かした。

「否定しない」

「やっぱりな」

そのやり取りに、ナディアが小さく笑う。

セレナがパンをちぎりながら言った。

「ローヴェル伯爵はどうだったの?」

「悪い人じゃない」

俺は即答した。

「でも、自分から強く変えるタイプでもない。整えることには慣れてるけど、壊して作り替えるのは苦手そうだった」

「それは……一番厄介なタイプかもしれないわね」

セレナが言う。

「悪意がある方が、まだ切りやすいもの」

まったくその通りだった。

そこで、背後から妙に鼻につく声が落ちてきた。

「ずいぶん偉くなったもんだな」

聞かなくてもわかる声だった。

振り向くと、ガレス・グレイヴが立っていた。

取り巻きを二人ほど連れて、いかにも不愉快そうな顔をしている。

食堂の何人かが、さりげなくこちらを見る。

「王の視察にまで同行して、今度は伯爵領の値踏みか?」

ヴィクトルが露骨に顔をしかめた。

「うわ、面倒なのが来た」

ガイルは無言のまま、だが視線だけはガレスに向けている。

俺はトレーから手を離した。

「何か用か」

「別に?」

ガレスは鼻で笑う。

「ただ、子爵家の嫡男殿がどこまでご立派になったのか、近くで見ておこうと思っただけだ」

「見苦しいわね」

セレナが、はっきり言った。

食堂の空気が少しだけ止まる。

ガレスがそちらを向いた。

「なんだと?」

「負けた腹いせを食堂でやるなんて、見苦しいって言ったのよ」

セレナの声は冷たかった。

感情的に煽るんじゃない。相手を一段下に置いて切る声音だ。

だからこそ、ガレスの顔が一気に赤くなった。

「てめえ……!」

ガレスが一歩詰め寄る。

取り巻きも慌てて動くが、本人の方が早い。

そのままセレナの腕を乱暴に掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。

俺は立ち上がっていた。

ガレスの腕を掴む。

強く。

逃がさないように。

「おい」

自分でも驚くくらい低い声が出た。

ガレスがはっとして俺を見る。

「お前、今何をしようとした?」

怒鳴っていない。

でも、その場の空気が一気に変わったのがわかった。

食堂のざわめきが遠のく。

ガレスの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

自分でもわかった。

たぶん、今までで一番冷たい目をしていた。

セレナに手を出そうとしたことが、ひどく不快だった。

「は、離せよ……!」

ガレスが腕を引こうとする。

だが、離さない。

その時、ガイルが立ち上がった。

「やめろ」

短く、だがよく通る声だった。

「こんなところを教師に見られたら全員面倒だ」

その一言で、周りも現実へ戻る。

ヴィクトルが舌打ちまじりに息を吐いた。

「本当にあいつは……」

ナディアも静かに席を立っていた。

騒ぎを広げないよう、周囲の視線を少しでも散らそうとしているのがわかる。

俺は数拍遅れて、ガレスの腕を離した。

ガレスは一歩下がり、真っ赤な顔で俺を睨む。

悔しさと怒りと、さっき一瞬ひるんだことへの苛立ちが、全部そのまま顔に出ていた。

「……っ、リオン」

息を荒げながら、吐き捨てるように言う。

「覚えてろよ!」

それだけ言って、取り巻きを引き連れて奥へ去っていく。

ヴィクトルが呆れきった声を出した。

「本当に馬鹿だな、あいつ」

「本当に見苦しいわね」

セレナも同じように言ったが、その横顔にはさっきまでの冷たさより少しだけ険しさが残っていた。

俺は息を整えながら椅子へ戻る。

ガイルが俺を見る。

「お前も少し落ち着け」

「……悪い」

「いや、間違ってはいない」

そう言ってから、ガイルは小さく付け足した。

「だが、今の顔はちょっと怖かった」

ヴィクトルがすぐに頷く。

「それな。俺でも少し引いた」

ナディアが静かに言う。

「私は、当然だと思いました」

その言い方が妙に真っ直ぐで、少しだけ気が抜けた。

セレナはそこでようやく俺を見た。

「助かったわ」

「別に」

「別に、じゃないわよ」

そう言いながらも、セレナはいつもの調子に戻っていた。

それで十分だった。

騒ぎは完全には収まっていなかったが、少なくともこれ以上大きくはならなかった。

教師が来る前に散ったのは、たしかにガイルのおかげだ。

昼食を再開するころには、食堂のざわめきも少しずつ元に戻っていた。

ただ、俺の中にはまだ、さっきの感触が残っていた。

あんなふうに怒ったのは、たぶん初めてだった。

放課後、約束通りセレナがノートを見せてくれた。

場所は教室の隅。

ナディア、ヴィクトル、ガイル、エドガーも自然に集まってきて、結局いつものメンバーになっていた。

「ここが抜けてる範囲」

セレナは実に見やすく整理されたノートを広げる。

「数学はこの式変形が増えただけ。王国史は政策ごとの因果関係を押さえれば大丈夫。魔法理論は、ここの注釈を飛ばすと後で面倒」

「……ありがたい」

「当然よ」

横からナディアも、自分のノートを少し見せてくれる。

「こちらは授業中に先生が補足された部分です」

「ありがとう。助かる」

ヴィクトルが椅子にだらりともたれながら言った。

「お前、本当に周りに恵まれてるよな」

「それはそう思う」

俺が答えると、ヴィクトルが少しだけ笑った。

「否定しないんだな」

「本当のことだし」

それは、ローヴェルへ向かう道中で学院長に言ったことと同じだった。

学ぶ内容も、友人関係も、環境も。

たぶん、かなり恵まれている。

話しながら、ノートの余白に少しだけ線を引く。

門前から宿場への導線。

市場の位置。

街灯の置き方。

酪農を活かした商品案。

視察は終わった。

でも、持ち帰ってきたものは頭の中でまだ動いている。

セレナがそれを見て、少し呆れたように言った。

「授業のまとめをしながら、もう別のこと考えてるのね」

「忘れないうちに」

「本当にリオンさんらしいです」

ナディアが柔らかく微笑む。

エドガーはノートの端を見て、小さく言った。

「持ち帰ったものがあるなら、それを形にすればいい」

「そうするつもり」

窓の外はもう夕方の色になり始めていた。