軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第119話 最初の一歩

王の一行が去ったあとの門前は、妙に静かだった。

さっきまでそこにあった圧が消えたせいか、空気が少しだけ軽くなっている。

けれど、軽くなったからといって、元通りというわけでもなかった。

ローヴェル伯爵は、しばらく門前に立ったまま動かなかった。

目の前にはいつもの町がある。

門。

荷馬車。

旅人。

宿。

市場へ続く道。

昨日までと何も変わっていないはずなのに、見え方だけが違ってしまった。

そんな顔だった。

「伯爵」

学院長が静かに声をかける。

伯爵は、はっとしたようにこちらを向いた。

「……失礼しました」

そう言って、深く頭を下げる。

「学院長殿、リオン君。改めて礼を言わせてください」

「礼、ですか」

俺が聞くと、伯爵は苦く笑った。

「耳に痛いことばかりでした。だが、必要なことでした」

その言葉に嘘はなかった。

「私は、領を乱さぬことばかり考えていたようです」

伯爵は門前の先を見たまま言う。

「壊れていない。回っている。ならば大きくは間違っていないだろう、と。そう思ってきました」

ゆっくりと首を振る。

「ですが、それでは足りなかったのですな」

学院長はそれを否定も慰めもしなかった。

「気づいたのなら、今から動けば良いでしょう」

「……はい」

伯爵は短く頷いた。

その顔はまだ重い。

だが、視察前よりは少しだけ前を向いていた。

「もしお時間をいただけるなら」

俺はそこで口を開いた。

「すぐに動けるところから、少し整理しておきたいです」

伯爵がすぐにこちらを見る。

「今から、か」

「はい。王が帰った今だからこそ、忘れないうちに」

伯爵は一瞬だけ考えて、すぐに答えた。

「わかった。邸へ戻ろう」

伯爵邸の執務室に入ると、すぐに紙と筆記具、それに直近の徴税記録が運び込まれた。

伯爵の家令と、税を見ている役人も二人ほど呼ばれる。

学院長は部屋の端で静かに見ていた。

俺は机の上に紙を広げ、宿、食事、馬屋、水場、それぞれの負担と、旅人向けにかかっている税や諸費用を書き出していく。

「一律に下げる必要はありません」

俺はそう前置きした。

「門前から宿場にかけて、旅人が必ず使う場所に絞るべきです」

伯爵が頷く。

「宿、食事、馬屋、水場、か」

「はい。全部をずっと下げろという話でもありません。まずは半年、長くても一年。時限でいいと思います」

呼ばれた役人の一人が、おそるおそる聞いてきた。

「ですが、そこを下げれば、最初は納められる金も減ります」

「減るでしょうね」

俺はあっさり答えた。

役人が少しだけ言葉を詰まらせた。

「でも、今は高いせいで使われていない。使われないから数が増えない。数が増えないから納める総額も伸びない。なら、先に入りやすくするべきです」

紙の上に、ざっくりと数字を置く。

「たとえば宿代をここまで下げる。馬屋も少し下げる。水は無料にしなくてもいいですが、旅人向けの利用は今より軽くする。食事も、最低限の旅人向け定番を作って値を抑える」

伯爵が紙を覗き込む。

「……思ったより大きくは下げないのだな」

「はい。半額みたいな極端なことをすると、今度は店側が苦しくなるだけです」

そこは大事だ。

「今より少しだけ“ここは高い”と思われないラインに寄せる。その代わり、使う人間を増やす」

家令が感心したように息を吐く。

「なるほど……」

俺はさらに続けた。

「それと、値はずっと同じでなくてもいいと思います」

伯爵が眉を動かす。

「どういう意味だね?」

「普段は安めにする。でも、混む日や夜市の日は少し戻す。人が少ない日は入りやすく、人が集まる日はきちんと取る。そういう形です」

役人の一人が首をかしげた。

「そんなことをして、混乱しませんか」

「最初は混乱するかもしれません。だから全部の店に同時にやらせる必要はありません」

俺は紙の端に線を引きながら言う。

「まずは門前の宿と食事処、馬屋あたりから試す。しかも、値段は見えるように板に書いておく」

「見えるように、ですか」

伯爵が繰り返す。

「はい。旅人は、わからない値段を嫌います。高い町ほど余計にそうです。だから“ここはいくらかかるか”を、最初から見せる」

学院長がそこで初めて口を開いた。

「理にかなっている。高いこと以上に、“わからないこと”が嫌われる場合もあるからな」

「そういうことです」

伯爵はしばらく紙を見つめ、それから深く頷いた。

「まずは、減らす幅の試算を出そう。宿、食事、馬屋、水場。旅人向けに限って、半年」

「それがいいと思います」

最初の一歩としては、十分だ。

次に話は夜市へ移った。

「夜に人を止めるなら、やはり灯りが必要でしょうな」

家令が言う。

「必要です」

俺は即答した。

「ただし、町全体を一気に照らす必要はありません。門から宿場、市場、水場まで。旅人が実際に歩く線だけでいい」

「だが、街灯はすぐには作れぬだろう」

伯爵の言葉に、俺は頷いた。

「はい。ですから今ここで立てるのは方針だけです」

紙に簡単な線を書きながら説明する。

「この導線に置く。高さはこれくらい。まずは試験的に一本か二本。後日、ハル領から見本として送ることはできます」

伯爵が顔を上げた。

「送ってくれるのか」

「見本です。気に入っていただけたら、そこから先は買ってください」

伯爵が一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

「商売上手だな、君は」

「そのつもりです」

そう答えると、学院長が小さく咳払いをした。

たぶん笑いを堪えている。

「まずは一本で十分でしょう」

俺は続ける。

「夜市を立てる場所に近い導線へ置く。それで人の動きがどう変わるかを見る」

「なら、図面は残してくれ」

「もちろんです」

これで、灯りの話も空論ではなくなった。

その後、伯爵はすぐに郊外の酪農をまとめている男を呼ばせた。

来たのは四十代半ばくらいの、日に焼けた大柄な男だった。

名をヨアンと言った。

「酪農を見ている者と聞いた」

俺がそう言うと、ヨアンは頭をかいた。

「はい。牛乳と、少しばかりのバターとチーズを」

「少しばかり?」

「町で売る分にはそれで足りますんで」

そこがまさに問題だった。

町で足りてしまう。

外へ広げる発想がない。

「名物はない。でも、酪農はある」

俺はヨアンと伯爵の両方を見る。

「なら、旅人が“ここで食べたい”“持って帰りたい”と思うものを作るべきです」

ヨアンが困ったように笑う。

「チーズを少し売るくらいしか思いつきませんな」

「じゃあ、まずは一つ、変わったものを試してみましょう」

俺がそう言うと、伯爵も学院長も少しだけ身を乗り出した。

「変わったもの?」

「はい。冷たくて甘い乳菓子です」

作り方そのものは、前世ほどきっちりしたものではない。

この世界にある材料で、できる形に落とす必要がある。

乳。

甘み。

少し脂を足す。

そして冷やしながら混ぜる。

台所を借りて、俺はヨアンと一緒にざっくりと手順を組んでいった。

学院長と伯爵は最初こそ少し離れて見ていたが、途中から完全に興味津々だった。

「本当に固まるのか?」

伯爵が聞く。

「固まりきらなくてもいいです。冷たくて滑らかになれば」

ヨアンは途中から完全に職人の顔になっていた。

手つきが早い。乳の扱いに慣れている。

しばらくして、小さな器に入れたそれを差し出す。

「……どうぞ」

伯爵がまず受け取った。

続いて学院長。

最後にヨアン自身も口に入れる。

数拍の沈黙。

先に反応したのは伯爵だった。

「……うまいな」

素直な声だった。

学院長も静かに頷く。

「これは確かに印象に残る」

ヨアンに至っては、目を丸くしていた。

「乳で、こんなものが……」

「ただし」

俺はそこで釘を刺す。

「すぐ溶けます」

全員が器を見る。

たしかに、表面がもう少し緩み始めていた。

「これでは売りにくいな」

伯爵が言う。

「だから工夫が必要です」

俺は頷く。

「今年の春、王立学院の工房実演会で上級生が簡易冷却箱を作っていました。あれを仕入れられれば、少なくとも短時間の保冷はできるはずです」

学院長がすぐに反応する。

「……なるほど。あれを使うのか」

「知っているんですか?」

伯爵は質問する。

「ええ。たしかに完全ではないが、この菓子を売るのには十分役立つでしょう」

ヨアンが器を見たまま言う。

「これを町へ来る旅人に食べさせる、と」

「最初は一口でいいと思います」

俺は答えた。

「試食です。夜市や宿場で、一口だけ食べてもらう」

伯爵が目を細める。

「もっと欲しい、と思わせるわけか」

「はい」

「全部を最初から大量に売る必要はありません。まずは“ローヴェルに来たら、あの冷たい乳菓子があるらしい”と思わせる」

ヨアンが低く唸る。

「なるほど……」

「そして乳菓子だけでなく、焼き菓子も温かい料理も育てる。酪農はそれだけで終わらせるにはもったいないです」

伯爵は、さっきまでとは違う熱を持った目で器を見ていた。

「名産がないなら、育てればいい……か」

「そうです」

気づけば、窓の外は赤く染まり始めていた。

税の話。

灯りの話。

乳菓子の試作。

どれもまだ始まりにすぎない。

だが、確かに何かが動き始めている。

学院長が窓の外を見て言った。

「今日はここまでだな」

伯爵もそこでようやく息を吐いた。

「ええ……気づけば、ずいぶん時間が経っておりました」

俺も肩の力を抜く。

思った以上に、あっという間だった。

「学院長殿、リオン君。今夜も邸にお泊まりください。もうこの時間ですし、明朝に発たれるのがよろしいでしょう」

「お言葉に甘えよう」

学院長が頷いた。

「ありがとうございます」

俺も礼を言う。

伯爵はそこで、昨日までよりずっとまっすぐな目でこちらを見た。

「今日は、本当に助かりました」

「まだ何も成功していませんよ」

俺が言うと、伯爵は静かに笑った。

「それでも、最初の一歩は出ました」

その言葉に、俺も少しだけ笑った。

その夜、部屋へ戻ってからも、今日のことが頭の中でゆっくり回っていた。

王の視察が終わって、それで終わりではなかった。

むしろ、終わったからこそ動けることがある。

減税の試算。

街灯の図面。

乳を使った名物の試作。

どれも領を一気に変えるものではない。

でも、領を変えるのは、いつだってこういう小さな実行の積み重ねなのだろう。

ローヴェル領は、まだ何も変わっていない。

だが、変わる可能性だけは、今日確かに生まれた。

翌朝、俺と学院長は王都への帰路についた。

見送りに出たローヴェル伯爵の表情は、初日に会った時よりほんの少しだけ違って見えた。

穏やかなだけではない。

そこに、ようやく自分の領を前に進めようとする人間の顔が混じっていた。

馬車がゆっくりと動き出す。

俺は振り返り、細長い街道の先に伸びるローヴェルの空を見た。

まだ小さい。

でも、一歩は一歩だ。

領が変わる時というのは、案外こういうものなのかもしれない。