作品タイトル不明
第118話 門前の本音
王は立ち上がりかけた身体を止め、もう一度、室内を見回した。
「話はわかった」
レオンハルト王の声は穏やかだったが、その一言で応接室の空気がまた引き締まる。
「だが、帳簿と会議の言葉だけで領は変わらん。実際に商っている者、泊めている者、通っている者の声も聞こう」
ローヴェル伯爵が少し驚いたように目を開いた。
「今から、でございますか」
「今からだ」
王は即答した。
「人は席に座ると整ったことを言う。門前に立てば、もう少し本音が出る」
アルフレッド第一王子が肩をすくめる。
「ぞろぞろ大人数で行けば、また皆黙りますね」
「だから絞る」
王が視線を走らせた。
「私、アルフレッド、学院長、リオン、ローヴェル、グレイヴ。記録役は王家から二人。伯爵家も最低限でよい。護衛は少し距離を取れ」
グレイヴ侯爵の口元がわずかに動いたが、異を唱えることはできなかった。
◇
門前へ出ると、昼下がりの空気は朝よりも少し緩んでいた。
人は多い。
荷馬車も絶えない。
けれどやはり、ここには立ち止まらない流れがある。
王はその場でしばらく門の内外を見比べ、やがて門の脇にある宿へ目を向けた。
「まずはあそこだな」
宿の主人は、王が入ってきた瞬間、文字通り腰を抜かしかけた。
「へ、陛下……!?」
「そう固くなるな」
王はよく通る声で言った。
「今日は責めに来たわけではない。聞きに来た」
宿の主人は平伏しかけたが、王が手を上げて止める。
「そのままでいい。旅人はよく来るか」
「は、はい……来ます」
「では、よく泊まるか?」
その問いで、宿の主人の顔が少し曇った。
「……いえ。来はしますが、値を聞いて、そのまま次へ向かわれる方も多いです」
ローヴェル伯爵の表情が固くなる。
王は淡々と続けた。
「高いのか」
「好きで高くしているわけではございません。水、薪、食材、納める金……どうしても値に乗ってしまいます」
俺は黙ってその言葉を聞いた。
やはり、そうだ。
「下げられぬのか?」
アルフレッド殿下が尋ねる。
宿の主人は苦い顔で首を振った。
「下げれば客は増えるかもしれません。ですが今のままでは、増えたところでうちの取り分が薄くなるだけで……」
王は短く頷き、それ以上は詰めなかった。
次に向かったのは馬屋だった。
馬屋の主人も、ほとんど同じことを言った。
「水だけ飲ませて、草だけ食わせて、宿には泊まらず出ていく者が多いですな」
「なぜだと思う?」
学院長が低く問う。
「この先にも宿場があるからでしょう。ここで一晩、と思うほど安くも面白くもない」
面白くもない。
馬屋の主人は、そこまで言ってから慌てて顔を伏せた。
「も、申し訳ございません……!」
だが王は咎めなかった。
「本音は大事だ。続けろ」
「……旅人からすれば、ここで金を使うなら、もう少し先で使っても同じだと。そう思われている気がします」
グレイヴ侯爵が不快そうに鼻を鳴らした。
「結局、商人どもが安くしすぎたがるだけでしょう。規律を強め、勝手な値下げ競争を防げば――」
「侯爵」
王はやや強めの口調で遮った。
「今、私はそなたの理屈ではなく、この町で商う者の口を聞いている」
侯爵は口を閉ざした。
次に、王は門前の露店で働く若い娘へ声をかけた。
年は十八か十九くらいだろう。
焼いた薄い菓子を売っていたが、手際は良いのに、どこか商売に勢いがない。
「この町で店を持ちたいと思うか」
王の問いに、娘は最初こそ目を白黒させたが、伯爵や侯爵の顔を見て、逆に観念したように笑った。
「今のままでは、あまり」
伯爵の顔がわずかに動く。
「なぜだ」
今度は伯爵自身が問うた。
「古い店が強いですし、場所代も重いです。新しく始めても、よほど当てるものがないと苦しいです」
「王都へ行きたいか?」
アルフレッド殿下が聞く。
「行けるなら、そちらの方が夢はあります」
その言葉は静かだった。
けれど、応接室のどんな建前よりも深く刺さった。
王は次に、乳を運んできた農家の男を呼び止めた。
「酪農をしているのか」
「はい。郊外で牛を」
「乳は売れているか」
「売れはしますが、そのままですな。余れば傷みますし、加工する手間も技も足りません」
俺はそこで口を開いた。
「バターやチーズにはしていないのか?」
男は俺を見た。
「少しはやりますが、うまく売り方がわからんのです。町の中でもそこまで高くは売れませんし、旅人が持っていくような品にも育てられておりません」
アルフレッド殿下が面白そうに笑う。
「つまり、材料はあるのに、商品になりきっていないわけだ」
「その通りかと」
学院長が小さく頷いた。
王はその後も、何人かに同じように短く問いを重ねた。
食堂の店主。
荷運びの人足。
若い見習い職人。
返ってくる言葉は細部こそ違っても、芯は同じだった。
人は来る。
だが、金は深く落ちない。
泊まる理由は弱い。
この町でなくてもいい。
若い者は残る夢を見にくい。
すべてを聞き終えたころ、王は門前へ戻り、その場で立ち止まった。
「伯爵」
「はっ」
「そなたの領は、今すぐ崩れるわけではない」
「……はい」
「だが、このままでは強くならん」
伯爵は黙って頭を下げた。
王は門の内と外を見比べながら続ける。
「旅人は通る。商いもゼロではない。暮らしも壊れてはいない。だから危機が見えにくい」
その声は低く、だがはっきりとしていた。
「だが、見えにくいだけで、領は痩せ始めている」
グレイヴ侯爵がそこで口を挟む。
「陛下、それでもまずは締めるべきかと。商いが弱いのなら、なおさら秩序を――」
「違うな」
王は即座に言った。
「締めれば、さらに通過されるだけだ」
侯爵の表情が引きつる。
王は俺を見た。
「リオン。そなたの見立ては、現場の声とも食い違わなかった」
「ありがとうございます」
「面白くない、か」
王は小さく笑った。
「耳に痛いが、実によく通じる言葉だ」
そして、ローヴェル伯爵へ向き直る。
「ここから先は、視察ではなく、そなたが領主としてどう動くかの話だ」
伯爵が顔を上げる。
王の声音が、わずかに変わった。
「門前、宿場、街道筋の運営は領主の裁量に任せきりでよい場ではない。
王国の流通と徴発に関わる以上、王家には巡察し、是正を求める権がある」
その一言で、空気が静かに張りつめた。
「ゆえに、今日ここで聞いた声は、王家の巡察記録として残す」
王家の記録役が視察の内容を静かに書き留める。
それに応じて、ローヴェル伯爵も自領の書記へ目配せし、帰領後の評議に備えて記録を取らせた。
「ローヴェル伯爵」
「はっ!」
「帰領後ただちに領府で評議を開け。そして三十日以内に、門前と宿場の立て直しについて方策をまとめ、王都へ上申せよ」
伯爵が息を呑んだ。
「三十日、でございますか」
「短いとは言わせん。今日、現場を見たのはそなたも同じだ」
「……承知いたしました」
「細かな手立ては伯爵家で詰めよ。今日、私が求めるのは方向と期限だ」
王は一本、指を立てた。
「第一に。宿、食事、馬屋、水場――旅人が使う場所にかかる負担を、伯爵家の責で精査しろ。時限でもよい。軽くできるものは軽くし、実際に値へ反映させよ」
「はっ」
「ただし、ただ減らせばよいのではない。誰がどれだけ負担し、いかほど価格が下がったか、帳面を添えて示せ。見かけだけの施策は認めん」
「承知いたしました」
「第二に。門前から宿場、市場までの導線を整えよ。値段は外から来た者にも見えるようにし、初めて来た者が迷わぬよう改めろ」
「はっ」
「案内板でも、人の配置でもよい。だが、旅人に『ここなら使いやすい』と思わせる工夫を形にしろ」
「はい」
王はさらに続けた。
「第三に。酪農を活かした品を育てよ。乳をそのまま売るだけでは弱い。保存でき、持ち帰れ、ここで食いたくなるものへ変えねばならん」
アルフレッド殿下が愉快そうに口を挟む。
「やはり名物は必要ですね。しかも旅人向けの」
「そうだ」
王は頷いた。
「派手な宝がなくとも、寄る理由は作れる」
そして最後に、王は少しだけ声の調子を変えた。
「若い者が店を持ちやすくなるよう、伯爵家で道を考えよ。今すぐ大盤振る舞いをせよとは言わん。だが、挑戦の最初の壁を下げる工夫はできるはずだ」
露店の娘の言葉が、まだその場に残っている気がした。
行けるなら、王都の方が夢がある。
王は静かに言った。
「残る理由がなければ、若い者は出ていく。若い者が出ていく領は、遅かれ早かれ細る」
ローヴェル伯爵は今度こそ深く頭を下げた。
「……不明を恥じます」
「恥じるだけなら意味はない」
王の声は厳しくも、切り捨てるものではなかった。
「動け。そなたは悪い領主ではない。だが、悪くないだけでは領は強くならん」
その言葉に、伯爵は顔を上げられなかった。
たぶん今、ようやく本当の意味で、この人はこの領の問題を自分のこととして受け止めたのだろう。
王はそこで俺の方を向く。
「リオン」
「はい」
「そなたの診立てと処方箋は、今日の視察で十分裏が取れた」
俺は思わず背筋を伸ばした。
「だが、ここから先を実際に担うのは伯爵家だ。そなたはそれを忘れるな」
「はい」
「若い者が全部背負う必要はない。だが、見るべき時に見て、言うべき時に言える者は貴重だ」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
学院長も何も言わなかった。
ただ、わずかに目を細めていた。
王は踵を返す。
「戻るぞ」
その一言で、王の視察は終わった。
短いようで、長い二日間だった。
門前には、相変わらず人と荷があった。
けれど、もうさっきまでと同じ風景には見えなかった。
ここはただ通り過ぎられる町では終わらないかもしれない。
少なくとも、変わるきっかけは今、確かに落ちた。
王の一行が去り始める中、ローヴェル伯爵だけはしばらく門前に立ち尽くしていた。