軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第113話 視察へ出発

日々の自主練と授業、予習と復習を重ねているうちに、時間は思っていたよりずっと早く過ぎた。

ローヴェル伯爵領の資料は何度も読み返した。

地図も、税収表も、宿場の記録も、頭に入るだけ入れた。

それでも結局、最後は現地を見なければわからない。

そう思っていたら、もう視察当日だった。

その朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。

まだ外は暗い。

男子寮の廊下も静まり返っていて、足音を立てるのが妙に気になる。

顔を洗い、旅装を整える。

学院の制服そのままではないが、学院側の随行者として見苦しくないように整えた服だ。動きやすさを残しつつ、だらしなく見えない程度にはきちんとしている。

木剣を持って外へ出るか、少しだけ迷った。

結局、中庭で軽く身体をほぐすだけにした。

素振りも数えるほど。

今日は鍛える日じゃない。身体を起こして、呼吸を整えるだけでいい。

冷たい朝の空気を吸い込みながら、肩と足を動かす。

落ち着いているつもりだった。

でも心の奥には、やっぱり少し緊張がある。

王の視察。

学院長の供。

ローヴェル伯爵領。

ただの見学ではないと、もう何度も言われていた。

寮へ戻り、荷をまとめて食堂へ向かう。

朝食の席には、すでにヴィクトルとガイルがいた。

「来たか」

ガイルが短く言う。

「早いな」

「お前らも」

席につくと、ヴィクトルがパンをちぎりながら顔を上げた。

「で、今日は学院長と一緒に先に出るんだよな」

「うん。王の本隊とは別動になるらしい」

「そっちの方がいいだろうな」

ヴィクトルはあっさり言った。

「王と一緒にぞろぞろ入ったら、町の人間も貴族も、見せたい顔しかしないだろ」

「同感だ」

ガイルも頷く。

「先に入れるなら、その方が見えるものは多い」

俺もそう思う。

今回、学院長と俺は王たちの本隊とは別に動く。

本隊は王都を出たあと、途中で宿泊も伴い、迎え、報告、儀礼、それらを省くことはできない。王が公に動く以上、ただ真っすぐ視察先へ向かけばいいというわけではない。

一方で学院長は、先に現地へ入っておきたい。

説明役として、王が到着する前に空気を見ておきたいし、俺にも取り繕われる前のローヴェルを見せておきたい。

だから別動だ。

「変なもの見つけてくるなよ」

ヴィクトルが言う。

「見つけたくて見つけてるわけじゃない」

「でも見つける」

「……否定しない」

ガイルが少しだけ口元を緩めた。

「帰ったら聞かせろ」

「わかった」

短いやり取りだったが、それで十分だった。

食事を終え、俺は荷を持って寮を出る。

振り返ると、二人はもう食堂の入口には立っていなかった。

見送りに来るような性格じゃない。

でも、あれでいい気がした。

学院門の前には、すでに馬車が待っていた。

王家の馬車ほど豪奢ではない。

けれど学院長が乗るにふさわしい、落ち着いた造りのしっかりした馬車だった。護衛も最小限ながら隙がない。

学院長は門の前で立ったまま、こちらを見た。

「来たか」

「お待たせしました」

「いや、ちょうどよい」

学院長は頷き、馬車へ目を向ける。

「前にも話した通り、我々は王の本隊とは別に動く」

「はい」

「本隊は王の移動だ。途中で宿泊も伴うし、迎え、報告、儀礼、それらを省くことはできん。だが、私はできるだけ先に視察先へ入っておきたい」

学院長はそこで一拍置いた。

「ローヴェル領は街道沿いに細長く伸びた領だ。王都から視察先の領都までは、一泊必要になる」

その説明で、頭の中の地図が少しはっきりした。

ローヴェル伯爵領は王都の東にある近隣領だが、すぐ隣というわけじゃない。

街道に沿って細長く領地が続いているから、人も荷も領内をよく通る。

にもかかわらず、領としての伸びが鈍い。

だからこそ、余計に妙なのだ。

「我々も途中で一泊するが、本隊よりは簡素に進む。その分、余計な目を引かずに済む」

「先に現地の空気を見ておくため、ですか」

「それもある」

学院長は淡々と答える。

「王が着いてからでは、どうしても人は取り繕う。貴族も役人も、見せたいものを前に出す。そうなる前の顔を見ておくに越したことはない」

やっぱり、そういうことか。

俺は小さく息を吐いて、荷を抱え直した。

「乗れ」

「はい」

馬車へ乗り込み、ほどなくして車輪が静かに動き出す。

王立学院の門が、朝の薄明かりの中でゆっくりと後ろへ遠ざかっていった。

王都を出るまでの道は静かだった。

まだ朝が浅く、店の多くは開ききっていない。

人通りも少ない。

ただ、東門へ近づくにつれて、荷馬車や行商人の数は少しずつ増えていく。

東へ向かう流れは、たしかにある。

門を抜けると、王都の石壁が背後に小さくなっていった。

そこから先は、整備された街道がまっすぐ延びている。

学院長は馬車の中で多くを話さなかった。

ときどき資料を見返し、窓の外を確かめる程度だ。

俺も無理に話しかけず、外を見る。

東へ向かう荷の数は、思っていたより多い。

穀物、布、木材、陶器。

馬車の車輪の跡も深く、街道が日常的に使われていることがわかる。

しばらくそうしていた頃、学院長がふいに口を開いた。

「学院での学びはどうだ」

意外な問いだった。

思わず視線を戻す。

「学び、ですか」

「そうだ。授業、課外、周囲との関係。お前にとって、王立学院はどう見えている」

少しだけ考える。

問われれば、すぐに答えられる気がしていた。

たぶん、ずっとそう思っていたからだ。

「恵まれていると思います」

俺はまっすぐ答えた。

「学ぶ内容もそうですし、友人関係も良好です。自分より頭の回る者、違う見方をする者、領地では出会えなかった人間が周りにいます」

学院長は黙って聞いている。

「授業の内容も、今の自分にはちゃんと意味があります。前よりずっと、現実とつながって見えるようになりました」

そこで少しだけ息をつく。

「恵まれた環境にいられていると思いますし、それは本当に感謝しています」

学院長はしばらく何も言わなかった。

それから、窓の外へ一度だけ視線を向け、静かに言った。

「それはよかった」

短い言葉だったが、どこか柔らかかった。

「勉強そのものだけでなく、勉強以外のところでも学ぶことが多そうだな」

思わず少し笑う。

「否定できません」

「だろうな」

学院長の口元も、ほんのわずかに緩んだ気がした。

「知識は机の上で得られる。だが、人の見方や物事の重さは、それだけでは身につかん。お前はその両方を今、同時に学んでいる」

そう言われると、少しだけ背筋が伸びる。

「はい」

「なら、その環境を無駄にするな」

「はい」

それで会話は終わった。

だが、不思議とさっきまでの緊張が少しだけ薄くなっていた。

途中の宿場で、俺たちはその日は早めに馬を休めることになった。

王の本隊ならもっと厳密な警備と儀礼がつくんだろうが、こちらは学院長の一行だ。

目立たない分、宿場の空気もそのままに近い。

夕方の宿場には、ちゃんと熱があった。

遅れて入ってきた旅人が食事を頼み、荷を下ろす者がいて、宿の主人が泊まり数を数えている。

馬の世話をする音、水を汲む音、値段を交渉する声。

大騒ぎするほどではないが、人が来て、休んで、金を落として、また出ていく流れが自然に回っている。

その光景を見ながら、俺は小さく呟いた。

「やっぱり、ここには熱が残ってる」

学院長が視線だけこちらへ向けた。

「何が違う」

「急ぐ人もいますけど、休む人がいる。食べる人がいる。馬を止める人がいる。荷を整える人がいる」

宿場の様子を見ながら答える。

「ただ通るだけじゃなくて、一度ここで流れが留まってる」

「なるほど」

学院長はそれ以上は何も言わなかった。

だが、否定もされなかった。

その夜は簡素な宿に泊まり、翌朝また早く出た。

資料の内容と、昨日見た宿場の熱が頭の中で重なる。

ローヴェルに近づけば、あれがどう変わるのか。

それを考えながら、馬車の揺れに身を任せた。

二日目の昼前、ローヴェル伯爵領の領域へ入った。

街道沿いに細長く続く領だけあって、道そのものはよく使われている。

馬車も旅人も、決して少なくはない。

なのに、妙な違和感があった。

来ている。

通っている。

でも、昨日の宿場で感じたような“留まりの熱”が薄い。

荷馬車は急いでいる。

旅人も、休むというより先を見て歩いている。

道沿いに店は見えても、そこで人がほどける感じがない。

「……来てるのに、残ってない」

小さく呟くと、学院長が聞いた。

「何か見えたか」

「まだ、はっきりとは」

「それでいい」

学院長は静かに言う。

「机の上で答えを決めてくるな。現地は、資料よりもずっと雑だ」

「はい」

「だが、その雑さの中にしか出ない綻びもある」

その言葉は、妙に腑に落ちた。

ローヴェル伯爵領の領都が見えたのは、昼を少し回った頃だった。

遠目に見れば、たしかに整っている。

城壁もある。

門前には人もいて、街道の要所らしい形はしている。

だが、近づくにつれて違和感は濃くなった。

門へ向かう荷馬車の列が、思ったより短い。

そのわりに、門の外で止まっている人が多い。

旅人が立ち話をしている。

荷を少しだけ下ろしている馬車もある。

町へ入るでもなく、完全に去るでもなく、門の手前で流れが淀んでいた。

その光景を見た瞬間、視界の端に淡い文字が浮かぶ。

《綻び:流入前滞留》

思わず息を止める。

やっぱりだ。

資料の上では、ただの数字だった。

だが現地では、それは人の足と荷の流れとして、もっと露骨に形になっている。

門の前で人が止まる。

町へ入る前に、何かが引っかかっている。

「……なるほど」

気づけば、そう呟いていた。

学院長が隣で聞く。

「何かわかったか」

俺はまだ門の前を見たまま答えた。

「いえ。まだ仮説です」

でも、紙の上よりはずっとはっきりしていた。

ローヴェル伯爵領の問題は、町の奥から始まっているんじゃない。

もっと手前――人が町へ入る、その前からすでに始まっている。

馬車は速度を落とし、門前へ近づいていく。

王の本隊が来る前のローヴェル領。

まだ取り繕いきれていない、その顔。

資料の上では違和感だったものが、現地ではもう、目に見える綻びになっていた。