作品タイトル不明
第62話 空っぽの城と、東方の商人バルザフ
第62話 空っぽの城と、東方の商人バルザフ
『ヴァルゼン公家暦11年 8月上旬 都市オルデンブルク 昼 晴れ』
【オルデンブルク伯爵グレン視点】
都市オルデンブルク――かつてミュラーブルクと呼ばれた城の重厚な扉が、ギギギと軋んだ音を立てて開かれた。
俺たち一行は、緊張と期待を胸に、新たな本拠地となる広間へと足を踏み入れた。
だが、そこで俺たちを出迎えたのは、あまりにも完璧な「虚無」だった。
「……なるほど。これは徹底しているな」
俺の声が、ガランとした空間に虚しく反響する。
広い石造りの広間には、玉座はおろか、椅子一つ、燭台一本残されていなかった。壁に掛かっていたであろうタペストリーは剥がされ、日焼けした跡だけが四角く残っている。
ミュラー伯爵と、その懐刀である傭兵団長ムンド。あの二人が逃亡する際、金目のものはおろか、生活に必要な物資に至るまで、文字通り根こそぎ持ち去ったのだ。
俺の隣で、ソフィアが呆れたように、しかしどこか感心したような声を上げた。
「見事な仕事ぶりね。あのムンドとかいう男、ただの荒くれ者じゃないわ。撤退戦の鮮やかな手際といい、この略奪の徹底ぶりといい……。ミュラー伯爵にとっては、過ぎた『懐刀』ね。ネズミ一匹、残していないわ」
確かに、ここまで綺麗さっぱりと持ち出されると、怒りよりも清々しささえ感じる。だが、現実的な問題を突きつけられた男が一人、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
金勘定係のレオだ。
「……感心している場合ですか、ソフィア殿。おかげで、城の運営資金がありません」
レオは、何もない空間に帳簿を広げるふりをして、深いため息をついた。
「グレンフィルトを売却したことで、ダリオ商会に対する『貸し(十万枚)』は確かにあります。ですが、それは信用取引のようなもの。今すぐここで使える『現金』が一枚もないのです。これでは、兵に給金を払うどころか、今夜の夕食の材料さえ買えませんぞ」
前途多難なスタートだった。
俺たちは、借金こそなくなったが、同時に一文無しからの再出発を余儀なくされたのだ。
そんな騒がしさから離れ、妻のエレーナは一人、静かに城の地下へと続く階段を下りていった。
そこは、かつて彼女の父、シュタイン子爵が囚われ、そして無念の死を遂げた地下牢だ。
俺も後を追い、薄暗く冷たい石牢の前へと立った。
エレーナは、何もない冷たい石床に、道端で摘んできた野の花をそっと供えていた。震える肩が、彼女の悲しみの深さを物語っている。
「……エレーナ」
「……大丈夫です、あなた」
エレーナは涙を指先で拭うと、振り返って気丈に微笑んだ。その瞳には、悲しみよりも強い、新たな決意の光が宿っていた。
「ここを、良い街にしましょう。父が命を懸けて守ろうとした民たちが、笑顔で暮らせる街に。父が、天国から見ても恥じないような、立派な街に」
「ああ、約束する。必ずそうしよう」
俺は妻の手を強く握りしめ、復興を固く誓った。
だが、誓いだけでは腹は膨れない。金がないなら、稼ぐしかない。
その時だった。城門の方から、聞き覚えのある騒がしい声が響いてきたのは。
「おーい! よお、新しい城主様はいるかい?」
広間へ戻ると、そこには見慣れた派手な東方の服をまとった男が、勝手知ったる様子で立っていた。
東方の異国商人、バルザフである。
彼はレグナリア王への使い――あの怪しげな薬の納品――を終え、俺がここを拠点にすると聞きつけて、金の匂いを嗅ぎつけてやってきたのだ。
バルザフは、何もない広間を見回し、大げさに肩をすくめた。
「へえ、ここが新しい旦那の城ですか。……随分と風通しが良いことで。夏場には涼しくていいですがね」
その皮肉に、俺はニヤリと笑い返した。
「ああ、だから詰め込むものが大量に必要なんだ。空っぽの箱は、これから何でも入れられるということだぞ? バルザフ、お前をこの都市オルデンブルクの『御用商人』第一号に任命する」
「御用商人? 俺が? ……ハッ、悪くない響きだ」
バルザフの目が、商人の欲にギラリと光った。
「グレンフィルトは『牛と乳製品』でダリオ商会が押さえている。ならば、こちらは東方に近い地の利を活かす。バルザフ、お前の得意分野だろ?」
「なるほど。東方の『茶』や『香辛料』か。こいつは金になる」
バルザフは、何もない空中で計算をするように指を動かした。
「いいでしょう。先行投資だ。俺が商品を運び込み、市場を回す。その代わり、税の優遇と……俺の扱う『茶』の独占販売権をくれ」
「いいだろう。ただし、ボッタクリはなしだぞ? それと、俺の妻と、あの食いしん坊なメイドのリタへの試供品も忘れずにな」
「へいへい、心得てまさぁ」
こうして、オルデンブルクは「東方交易の街」として、バルザフの手腕によって急速に息を吹き返す手はずが整った。
一方、城の中庭からは、別の騒がしい声が聞こえてくる。
「こらっ! そこ、足元がおぼつかないよ! 騎士様なら騎士らしく、シャキっと歩きな!」
イリアの怒鳴り声だ。
視線をやると、昨日「兵士」から「騎士」へと無理やり昇格させられたハンスとヨセフが、慣れない騎士の礼装と長いマントに悪戦苦闘していた。
二人は剣を抜こうとしてマントに絡まり、派手に転倒して泥だらけになっている。
「い、痛ってぇ……! このマント、邪魔ですイリア隊長!」
「口答えしない! グレンの旦那の顔に泥を塗る気かい!」
その様子を、城の修繕に集まっていた街の人々が、クスクスと笑いながら見守っている。
「おい見ろよ、あいつら。昨日の飲み会で隣にいた兄ちゃんだろ?」
「出世したもんだなぁ。ま、頑張れよ、新米騎士様!」
そこには、かつてグレンフィルトで見られたような、温かく、少し生温かい空気が生まれ始めていた。
略奪され、荒廃した街だったが、人はいる。希望もある。
俺は城の窓から、活気の戻り始めた市場と、無様に転がりながらも立ち上がる若き騎士たちを見下ろし、小さく呟いた。
「さて、器はできた。……あとは、中身となる民の生活だな」
真夏の日差しが、空っぽだった城に、新しい影を落とし始めていた。