作品タイトル不明
第53話 グレン、衝撃の事実を知る
『ヴァルゼン公家暦11年 6月下旬 ミュラーブルク 昼 晴れ』
【公の右腕グレン視点】
ミュラー伯爵の空っぽの執務室は、広くて陰気だった。
俺は、そこにイリア、ソフィア、そして大商人ダリオ・ボラーニ殿を招き入れ、重々しい雰囲気の中で椅子に座った。
ダリオ殿の、あの突拍子もない提案『グレンフィルトの買収』の真意を聞くためだ。
「……さて、ダリオ殿。ここには、俺の最も信頼する者たちしかおりません」
俺が口を開くと、ダリオ殿は、まずその狐のような目を細め、静かに釘を刺した。
「ほっほっほ。承知しております。ですが、ここからは、……誰にも漏らしてはならぬ、ここだけの話ですぞ」
俺は唾を飲み込んだ。
ダリオ殿の顔は、いつもの商人の顔ではない。まるで、この大陸の深淵を覗き込んでいるかのような、冷たい真剣さに満ちていた。
「実は、ヴァルゼン公は、このダリオ商会に、多額の借金があるのです」
その言葉は、俺の頭の中に、音を立てて響き渡った。
「えっ……えええええええ~っ!?」
俺の隣に座っていたイリアが、ガタン! と椅子を蹴倒し、驚愕の声を上げた。
「やばいじゃん、グレン! 公が借金だなんて、聞いたことねえぞ!」
ソフィアも、あの冷静な表情を崩し、顔を青ざめさせている。
「これって……単なる金銭の問題じゃありませんわ。公の首に、借金という名の鎖が繋がれているってことなんじゃないの!?」
そうか。あの雷鳴のように豪快で、誰にも屈さぬヴァルゼン公が……。
この男に、首根っこを押さえられているというのか。
その事実に、俺の全身から血の気が引いた。
「……ちなみに、借金はいかほどで?」
俺は、震える声で尋ねた。忠義心と、公の右腕としての意地が、俺にそう言わせた。
「俺で良ければ、肩代わりしますよ」
ダリオ殿は、それまでの深刻な表情をふっと崩し、心底気の毒そうな顔で笑った。
「はあ……グレン伯爵の忠義、まこと感服いたします。ですが、金貨にして、およそ十万枚ほどですな」
広場を埋め尽くした歓声も、ムンド傭兵団との激闘も、全てが遠のいた。
俺の頭の中は、その数字だけで満たされる。
(十万枚……)
俺がグレンフィルトをゼロから興すために借りたのが一万枚。
つまり、グレンフィルトを十回は作れるほどの金、ということだ。
「くそっ……! 俺には……払えない!」
額に脂汗が滲む。
ダリオ殿は、最初から俺の忠義を買うつもりなどなかったのだ。公の借金の規模を見せつけ、俺の無力を悟らせた上で、俺の城を買い取ろうとしていた。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
今、この場でダリオ殿を斬り伏せても、公の借金は消えない。
むしろ、公は今、その借金によって、国内最大の商人の手によって首を絞められかけているのだ。
(俺が、公の右腕として、今すべきことは一つだ)
俺は、腹の底で覚悟を決めた。
「ソフィア、イリア。お前たちは、俺の命令を聞いてくれるか?」
「当たり前だろう!」
「当然ですわ、グレン」
「分かった。お前たちは、このミュラーブルクを、絶対に守っていてくれ。この街を、ダリオ殿に利用されては困る」
「まかせておけ! それじゃあ、アタイが周辺の村や地方を掌握しとくね! ムンドの連中が戻ってきても、道はないよ!」
イリアが、俺の意図を汲んで、すぐに戦略的な提案をする。
ソフィアは、冷静に館を見回した。
「ミュラーブルクは預かっておくわ。城の防備と内政は、私でどうにかなります。……グレン。公の元へ急いで」
俺は、立ち上がると、ダリオ殿に向き直った。
「ダリオ殿。この話は、公と直接会って話をする。馬車を出してくれ。一刻も早く、アイゼンブルクへ向かう」
俺は、自分の馬の休息など待っていられなかった。
ダリオ殿は、俺の決意を見て、またあの、どこまでも愉快そうな笑い声を上げた。
「ほっほっほ。かしこまりました。よろしいですな、その決意。……ですが、その決意で、公の借金は払えませんぞ」
その声に背中を押されるように、俺はダリオ殿の馬車と共に、公都アイゼンブルクへと急いだ。
そろそろ本格的な夏の暑さが到来していた。
しかし、俺の背中を流れる汗は、冷たいものだった。