作品タイトル不明
135話 「核心」
満月の夜。
神獣(フェンリル) がその男の背中を視界に捉えてすぐのことだった。
微かに響いてくる男の笑い声に、フェンリルは怪訝そうに眉をひそめながら四つ足での歩みを止めた。
「驚いた。随分と信用されているようだな。俺は」
男の声に驚きの色は無い。
むしろ、まるで事前にこうなることを予期していたかのような自然さで大悪魔ベルフェゴールは振り返るようにして神獣に視線だけを向けた。
「……」
赤い瞳がフェンリルへとまっすぐ向けられている。
魅惑の瞳だ。
その赤色の美しさは、ベルフェゴールに 思(・) う(・) と(・) こ(・) ろ(・) があるフェンリルであっても思わず認めてしまう程である。
果たしてこの視線を真正面から受け止めきれる存在はどれだけいるだろうか。
事実、ベルフェゴールの身から発せられる無意識的な魔力量は人間の常識をゆうに超えていた。
そのせいなのだろう。
魔物が多く住まう『精霊の森』はただ立っているだけのベルフェゴールを中心に、不気味なほどの静寂に包まれている。
「まぁ? お互い気安い友人は多いにこしたことはないってのは理解できるが」
ベルフェゴールの皮肉に構うことなくフェンリルはその横顔をまっすぐ見据えて口にした。
「……お主に頼みがある」
「はは」
軽薄な笑い声が森に小さく木霊した。
「なんだよ?」
肩をすくめて笑うベルフェゴールとは対照的に、フェンリルは表情を一切変えることなく言葉を続ける。
「 魔女の集い(ワルプルギス) のことじゃがお主に力を借りたいことがある」
「……ほぉ?」
ベルフェゴールは興味深そうに目を細めると振り返るようにしてフェンリルに向かい合った。
「言ってみろよ」
ベルフェゴールの声色に明かりが灯る。
それはこうしてフェンリルがわざわざ自分に会いに来たという珍しさに加えて、率直にその要求の内容が気になったが故の自然な反応だった。
フェンリルの気高さをベルフェゴールは理解している。
口にはしないまでも認めている相手の願い事なのであれば協力してやってもいい――というのがこの時点でのベルフェゴールの率直な感想だ。
だからこそ――神獣の口から放たれたその 内(・) 容(・) に、ベルフェゴールは落胆を隠さなかった。
神獣の口にした願いは簡潔なものだった。
ユノ・アスタリオと邪神ノア。
同一存在であるが故に生まれる不都合を消し去りたい――そんな協力の申し出を、ベルフェゴールはため息と共に切り捨てた。
「……冗談だろ? わざわざそんなくだらないことを言いに来たのか?」
冷たい視線がフェンリルに向けられるたと同時に、本能からかフェンリルの全身を覆う黒い毛がぶわりと逆立った。
「……くだらないじゃと?」
「一つ疑問がある」
そう前置いて、ベルフェゴールは問いを投げかける。
「なぜそれを俺に?」
「お主が最も適任だと考えたからじゃ」
この世界において神々の頂点がルシファーであるならば、その対極的存在である悪魔の頂点は目の前にいるベルフェゴールである。
その事実をフェンリルは正しく認識していた。
大悪魔に付き従っているであろう下級悪魔の存在を戦力として頭数に入れているのである。
己がノアを演じ、ユノ・アスタリオ本人が魔女の集いに参加する方向でまとまりつつある今、フェンリルとしての存在――その代替えとして悪魔たちの存在が適任であると考えたが故の申し出だった。
大悪魔(ベルフェゴール) は鼻で笑ってみせる。
「できないって話じゃないんだぜ? お前の真似してお座りしてればいいってだけのお話だ。簡単だぜ? 人間どもを騙すのが生き甲斐って奴もいるだろうからな」
ベルフェゴールは苛立ちが募っていくのを自覚していた。
この世界の絶対である神々に挑むという大きな興奮に水を差された気分だったのだ。
「ポチ。お前の忠誠心は大したもんだと思うぜ? 飼い主のわがままに付き合って尻尾振りながら俺のところまでお遊戯会の相談をしにきたってわけだ。可愛らしいことこのうえないな。だがな――」
明るい声色とは裏腹にベルフェゴールの表情は酷く冷たいものだった。
「――自惚れるなよ 神獣(フェンリル) 」
鋭い視線がフェンリルへと突き刺さる。
「お前が場にいるかいないかなんてことは大局においては 些末(さまつ) な問題でしかない。それに、お前がいない理由なんてものはいくらでも用意できるはずだ。違うか? いいぜ。協力してやるよ。散歩にでも行っていると俺が言ってやるのも一つの手だな」
「……」
フェンリルは静かに瞳を閉じた。
実のところベルフェゴールの言葉に納得できる部分があることは神獣も認めているのだ。
俯(・) 瞰(・) して考えてみれば思わないわけでは無い。
――あまりにも小さな問題につまずいている。
それこそこの先訪れるであろう 壮(・) 大(・) さ(・) に比べれば、些末な問題であると言えるのかもしれない――と。
神々との戦い。
その絶望的ともいえる状況こそが、ベルフェゴールの興味の源なのだから。
しかし、同時にフェンリルは自らの考えそのものは間違ってはいないことを強く再認識していた。
ユノ・アスタリオの不安。
それを小さくすることには明確な意味がある。
既に世界の敵と認識されているノアという邪神を演じるにあたって生じる危険性はそれこそ世界最悪と言って差し支えないだろう。
この世の絶対に歯向かった反逆者。
それが明るみになった暁には、血族は当然のこと、騎士としての主であるルナ・フレイムも無事ではいられない。
どんなに小さな事であっても自らが邪神を演じることによって生じる最悪を避けようとするのは、ユノ・アスタリオにとっては当然のことのはずなのだ。
フェンリルは絞り出すようにして口にした。
「綱渡りをしておる」
ベルフェゴールは眉一つ動かさず言葉を返した。
「……だから?」
「足を踏み外せば問答無用で 地獄(ゲヘナ) 行きじゃ。細心の注意をはらったところでまだ足りぬ」
「……」
「それに……やはりはおぬしは分かっておらぬな。それこそ 大(・) 局(・) が見えておらぬ」
そう挑発するように言ってフェンリルはベルフェゴールを睨みつけた。
当然、その程度で気圧されるベルフェゴールではない。
しかし、その黄金の瞳に強い意志が宿っていることは確かであると理解できていた。
「分かっていない? 俺が?」
フェンリルは頷いて言う。
「ベルフェゴール。わしらがこれから相手にするのはなんじゃ?」
「そりゃ神だ。この世界そのものと言ってもいい」
「そうじゃな。違いない」
「……?」
ベルフェゴールは整った顔にある眉をひそめた。
フェンリルの言葉を予測できないでいるのだ。
しかし、それが当然であることを、フェンリルは知っていた。
そもそもが無理な話だったのだ。
――化け物に人の視点に立つことなどできうるはずが無いのだから。
フェンリルは鼻で笑うように問いをなげかける。
「そもそも 魔女の集い(ワルプルギス) とはなんじゃ?」
ベルフェゴールは即答した。
「神々とやり合おうって愉快な連中を確認しようって話だ」
「そうじゃな。ならば尚の事わしがいるのが当然のはずじゃろう」
「――――」
ベルフェゴールは驚いたように一瞬目を見開くと、こらえきれないと言った様子で笑い声をあげた。
「まさか、それだけか?」
「事実じゃ。わしがその場にいることに意味がある」
ベルフェゴールは呆れながらも諭すように言った。
「あのなぁ、別にお前が存在しないっていうわけじゃないんだぜ? ただ魔女の集いに来ることができなかった。それだけで説明がつくって話だ」
そのベルフェゴールの言葉に、フェンリルは嘲笑を隠さなかった。
「やはり分かってはおらぬようじゃな」
「……………………面倒だな」
ベルフェゴールの顔から笑みが消え失せた。
「いいぜ? 聞いてやる。言ってみろ。大局を前にして些末な問題をいかにも重大であると言い切るお前の根拠ってやつを」
フェンリルは諭すように口にした。
「ベルフェゴール。人間は弱いぞ?」
「知っている」
「いいや、なにも分かっておらぬ」
「いいや、知っているさ。俺ほど人間の脆さを知っている奴はいないってはなしだ」
ベルフェゴールの自信は絶対的なものだった。
人間の欲望を食らって存在を紡いできた存在こそが悪魔なのである。
人間の醜さを。
人間の愚かさを。
確かに大悪魔ベルフェゴールは知っていた。
「では聞くが、お主の言う大局とやらに分かりやすい勝ち目はあるのか?」
「……」
「よいか。ベルフェゴール。人間はお主の言う大局とやらに挑むとき、自らの置かれている立場を顧みる。そして指折り数えるのじゃ。希望とするに足りえる得物は何がある――と。考える時間があるのならば尚の事じゃ」
「……」
「たしかにお主は強いぞベルフェゴール。じゃがこれから神々に……おぬしの言う世界とやらに立ち向かう 剣(つるぎ) としてはあまりにも力不足じゃ。ルシファーを前にしてはお主やユノであっても今は太刀打ちできぬ」
「お前がいれば勝てると?」
それはベルフェゴールにとっては至極当然の問いかけだった。
フェンリルは即答する。
「『人間にとっての』剣が増える。それが重要じゃ。決して自惚れではないぞ。端から勝ち目の薄い戦に挑む人間達にとって『神殺し』のわしが実際に目の前にいるといないとでは大きく意味が違ってくるじゃろうな。自ずから負け戦をしたがる人間は少ないじゃろうて」
閉口するベルフェゴールに構わずフェンリルはなおも言葉を続けた。
「お主自身が口にしていた言葉とそう変わりはせぬはずじゃぞ。剣の数は多ければ多い程よい。それだけの話じゃ。それに、あの男……ロイドとか言っておったか。お主は随分と奴を買っているようじゃがその取り巻きも そ(・) う(・) だとは限らぬはずじゃぞ。いいや――そもそも 奴(ロイド) とて人間。極限の状況においては気が変わることもあるかも知れぬな」
この時ようやくベルフェゴールはフェンリルの意図を理解した。
同時にこみあげてきたのは納得と可笑しさだ。
「随分と ら(・) し(・) い(・) ことを言うもんだぜ――お前も化け物だろうに」
「……否定はせぬ。じゃが、お主よりかは些か人間寄りだったと言うだけのこと」
ベルフェゴールはその言葉を聞いて小さくため息をつくと静かに瞳を閉じた。
それなりに納得はできていた。
フェンリルの言い分にも一理があると認めてもいる。
だが、言い負かされたという形になったことだけは僅かに――少しだけ不満だった。
我ながら――。
続く言葉を飲み込んでベルフェゴールは自嘲しながら言葉を紡ぐ。
「……いいぜ。協力してやる。だが、俺の兵隊をお前に化けさせるってのは無しだ」
いいや、正しくは『丁度よかった』という言葉が正しかったのかもしれない。
怪訝そうな顔をするフェンリルを見て、ベルフェゴールは口の端を吊り上げた。