軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二話 ずるい、お姉さまはずるい!

その夜会には、王太子クロヴィス・エーデルシュタインが出席していた。

二十二歳。

端正な顔立ちに鋭い灰色の瞳を持ち、「気難しい王太子」と評される青年。

甘い言葉で媚びる令嬢を嫌い、誰とも踊りもせず、夜会ではたいてい壁際に立って退屈そうな顔をしている。

その彼の前へ、この夜もルーシーは迷いなく進み出た。

アルフォンスを置いたまま、たたたと歩み寄り、上目遣いで微笑む。

「殿下、わたくしのこと、覚えていらっしゃいますか?一年前の王宮の茶会でお会いした、ヴァルトハイムのルーシーと申します。殿下のお隣にいたい、なんてずうずうしいですよね。でも、お話ししたくて」

クロヴィスは一瞥だけ寄越した。

「存じません」

それだけ言って踵を返す。

ルーシーが小さく「ひどい……」とつぶやき、周囲の空気がわずかに濁った、その瞬間だった。

クロヴィスの視線が、会場の端に流れた。

窓辺に、一人の女性が立っている。

夜空を見上げながら、口元にかすかな微笑みを浮かべていた。

その微笑みは誰かへ向けたものではなく、自分の内側のどこかへ静かに落としているように見える。

クロヴィスは気づかぬうちに足を向けていた。

「……一人でおられるのか」

声をかけられ、エレーナは振り向く。

そして相手を認識した瞬間、完璧な所作で礼をした。

「失礼いたしました、殿下。少し、一人になりたくて」

「夜会でか」

「人が大勢いる場所のほうが、かえって一人になれることがあります」

クロヴィスはわずかに目を細めた。

「妙なことを言う」

「殿下も、そうではないのですか。先ほどから壁際にいらしたようでしたので」

言ってから、エレーナはしまったと思った。

王太子の様子を観察していたなど、失礼にあたるかもしれない。

だがクロヴィスは怒らない。

「よく見ているな」

「見るのは、昔から得意なんです」

その夜、二人は少しだけ言葉を交わした。

政治の話でも、恋の駆け引きでもない。

本の話、庭の薔薇の話、夜空の色の話。

別れ際、クロヴィスはふいに問う。

「お前は、人を見るのが得意だと言ったな。では、今夜の会場を見て、何が見える」

試されているのだと、エレーナはすぐにわかった。

彼女は扇の先をわずかに動かし、会場の中央にいる老伯爵夫人とその周辺を目で示した。

「西方から来た使節団の方々が、少し居心地悪そうになさっています。招待した側の若い貴族たちが、あの方々の訛りを面白がって真似をしてしまったからです」

「……続けろ」

「あちらの伯爵夫人がさりげなく間に入って場を繕っていらっしゃるけれど、もう少しで笑いが侮辱に変わります。今ならまだ、楽団の曲を変えて、次のダンスへ流してしまえば空気を切れます」

「なぜ、そう思う」

「使節団の一人が、さきほどから扇ではなく指で袖口を叩いていらっしゃるでしょう。あれは不快の癖です。けれど完全に怒ってはいない。まだ体面を優先してくださっている顔です」

クロヴィスは黙ったまま、しばらくエレーナを見た。

やがて本当に楽団の曲が切り替わり、空気は滑らかに流れる。

遠目にも使節団の表情が少し緩むのが見えた。

「……なるほど」

「差し出がましいことを申しました」

「いや。おもしろい」

その「おもしろい」は、彼にしてはひどく重みのある言葉。

翌週、エレーナのもとへ一冊の詩集が届いた。先日話題に出た本だった。

添えられた手紙には、ひとことだけ。

「続きを」

エレーナは、その紙片を長く見つめたあと、静かに笑う。

今度は計算ではなく。

それからしばらく、二人は夜会で顔を合わせるたびに話すようになった。

本を贈り合い、王宮の庭園で短く散策し、やがて小さな茶会に招かれるのに、そう時間はかからなかった。

クロヴィスは、想像していたよりずっと話しやすい相手だった。

口数は少ないが、空虚な言葉を嫌うだけで、考えは深い。

エレーナが何気なくこぼした感想もきちんと拾い、意外な角度から返してくる。

ある日の茶会で、若い文官が他国の王女について失礼な冗談を口にしたときも、エレーナが微笑んで話題を変え、その場にいた外国語教師へ自然に会話を振ると、クロヴィスは帰り際にぽつりと言った。

「お前は、場を守るのがうまい」

「壊れる場をたくさん見てきましたから」

「壊したことはないのか」

「少しくらいは、あるかもしれません」

「少しか」

「たぶん、ずるい方向で」

そのときクロヴィスは、珍しく口元をゆるめる。

しかし、二人の関係は順風満帆というわけではなかった。

王太子がエレーナに関心を寄せているという噂が広がると、侯爵家は急に彼女へ擦り寄ってきたのだ。

父は久しぶりに優しげな顔をし、母は「家族なのだから助け合いましょう」と言った。

さらにはルーシーまでが、愛らしい顔で頼みごとをしてくる。

「お姉さま、次の王宮の茶会に、わたくしもご一緒できないかしら。殿下に誤解されているみたいで、悲しくて……。お姉さまが間に入ってくだされば、きっと」

エレーナはそのとき初めて、はっきりと首を横に振った。

「嫌です」

「どうして?」

「わたくしは、あなたのための橋にはなりません」