軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章57 『最後の奉公』

――フェリスが『アルデバスターズ』に協力した理由、それはもちろん、彼の主であるクルシュ・カルステンのために他ならない。

元々、フェリスはヴィルヘルムと共に、開放されたプレアデス監視塔への道を往く調査団に加われるよう、王城に直談判をしに王都を訪れていた。

アルデバラン一味の王都襲撃――『暴食』の大罪司教が脱獄させられ、さらには『剣鬼』と『神龍』との激戦が繰り広げられたのは、その最中のことだ。

「――お耳に入れたいことと、協力していただきたいことがあります」

そうフェリスたちに事の次第を明かし、協力を要請したのはエミリア陣営の内政官であるオットーだった。彼からアル――アルデバランの蛮行と、ラインハルトの参戦について聞かされたフェリスは、前のめりになるヴィルヘルムと違い、全面的な協力にそこまで前向きではなかった。

無論、平時は近衛騎士団の一員として、王国の治安を乱す輩への怒りはある。が、単純な戦闘力では非力で、さらには唯一の長所であったはずの治癒術さえ、最も大切な主を救うのに役立てられない自分に、いったい何ができようかと。

実際、直後の戦闘でヴィルヘルムが『神龍』に敗北し、意識の戻らない重傷を負わされる結果になったことで、フェリスはますますその思いを大きくした。

しかし、そんなフェリスをして、俯いてはいられない事態が発生したのだ。

「お久しぶりです、フェリックス様」

一礼してカーテシーをしたメイド――レムと対面し、フェリスの中に、彼女と会話し、共に戦った出来事が蘇り、『暴食』の権能が剥がせるものだと知った。

それはすなわち、『記憶』と『龍の血』というクルシュの背負った二つの呪い、その片方を解くことができるという生き証人に他ならない。

「……だったら、やるしかないじゃにゃい」

苦しむクルシュに寄り添い、何もできないと落ち込むフェリスを励まし続けてくれたヴィルヘルムがやられたこともある。

要請に従い、『アルデバスターズ』に力を貸し、世界を敵に回してでも何かを成し遂げようとするアルデバラン一味を止める。そのために、何でもしようと決めた。

もっとも――、

「――まさか、切り札役だなんて思ってもみなかったけど」

凄まじい噴煙と暴風、降り注ぐ雨滴に打たれながら、口元を手で覆って防塵するフェリスが、自分に課せられたまさかの役割を述懐する。

『圧縮』という力を使い、瞬く間に対象を移動させたり、話し合いを完結させたりするペトラの力――それを用い、負傷者をフェリスの下に搬送し、治療して戦場に送り返すという反則技を何度も繰り返して、『アルデバスターズ』は強敵に喰らいついた。

その仕事だけでもなかなかの大役だったが、とんでもない力を持ったアルデバランに対する決め手を任されるとは、想像もしていなかったことだ。

――アルデバランに、恒常的に発動する治癒魔法を施す。それが、アルデバランに対する切り札として、フェリスに任された失敗の許されない役目。

究極的なことを言えば、今でもフェリスの理解は完全には追いついていない。

ペトラやロム爺の話を総合するに、アルデバランが『致命傷を負った』と判断すると、その傷を負う前に時間を遡る――というものだと解釈している。それを悪用して、アルデバランは窮地をしのぎ続けることで、ラインハルトすら退けたのだと。

正直、みんなで何を真面目に検討しているのかと首を傾げたくなった。もしそれが本当だとしたら無敵すぎる。誰も勝てないではないか。

そんな無敵の力の倒し方が、フェリスの治癒魔法だというのだからなおさらだ。

あまりにも、賭けだと思った。

もしかしたら、せっかくみんなで追い詰めた敵を全快させるだけの愚行になる。

それでも、もし、万が一、フェリスがこの戦いの決め手になれるなら。

『悔やむな、フェリス。そなたの、心は尊い。そなたの才を誇れ。……それは、この世で最も優しき力である』

「――殿下」

かつて、フェリスの力をそう評し、そう誇ってくれた人がいた。

あのときも、今も、フェリスの力は『青』の称号に満たないままだ。だがそれでも、これを呪いと思わず、磨き続けたことに、意味はあったと思いたい。

そのために――、

「――ロイ!! いるならこい! オレを……オレの『名前』を喰え!!」

見えぬ粉塵の奥から、轟々とうるさい風と大地の悲鳴に紛れ、声が聞こえた。

フェリスの治癒魔法は、確かに切り札としての効果を発揮したらしい。それは激しく動揺したアルデバランの姿と、この必死な叫びが証明している。

だが、相手はまだ諦めていない。――フェリスもまた、細い膝を立てて、考える。

「私は私の大切な人のために、あと何ができるの?」と。

△▼△▼△▼△

「リゲル。――ナツキ・リゲルだ!!」

濛々と立ち込める土煙の中に声を張り上げ、アルデバランは懸命に目を凝らす。

降水が、豪風が、地鳴りがうるさく、周囲の音がまるで判然としない。視覚にも聴覚にも頼れない中、それでも喉よ張り裂けろとばかりに声を上げる。

施された忌まわしい治癒の力が、血を吐くほどに絶叫する喉をたちどころに癒していく。その皮肉な恩恵に与りながら、全力で声を荒らげ続けた。

「ロイ! ローイ!! オレを見つけろ! リゲルだ! ナツキ! リゲル!!」

一度口にするたび、魂を見えないヤスリで削られるような心痛を味わいながら、アルデバランは何度となく、その名前を叫ぶ、叫ぶ、叫び続ける。

ナツキ・リゲル。――『後追い星』を名乗る前の、アルデバランの真名を。

「――ッ」

実感なんてない。煩わしさだけが頭の隅にこびりつく。

アルデバランにとっては、一度も直接呼ばれたことのない親からもらった名より、『魔女』から何度も呼ばれたアルデバランの方がずっと耳に馴染んでいる。その呼び名さえも、『魔女』が『強欲の魔女』と成り果てたときから傷に変わった。

もはや、自分が『本来』何者だったのか、そんなことすらわからない。――だが、自認は関係ない。大事なのは、オド・ラグナがこの哀れな命をどう記録しているかだ。

だから――、

「――オレは、ナツキ・リゲルだ」

名乗ることに忌々しさしかないそれを、アルデバランは自らと認める。

たとえ拒んでも疎んでも嫌がっても、命を親を選べないのだから。

「――――」

なおも続けて叫びながら、アルデバランは噴煙の中のロイを必死に探す。

先の破壊的な暴風に揉まれ、戦場にいたものは軒並み吹き飛ばされていた。アルデバランもだいぶ転がされたし、『憂鬱の魔女』やフェリス、ロイも例外ではあるまい。

現状、他にこの場に動けるものはいなかったはず。が、切り札のフェリスをギリギリまで温存していた相手だ。まだ伏せ札があっても不思議じゃない。――アルデバランが『領域』を封じられた今、それは決め手になり得る。

「クソ……!」

せめて、『領域』の押し付けでフェリスだけでもと思ったが、ダメだ。掴みかけたバグを自由にする感覚は、『憂鬱の魔女』に退けられたことでまた遠のいた。そうでなくても、対象のランダム性が強い。また『憂鬱の魔女』に当たっては目も当てられない。その上、フェリスの治癒魔法――持続的にアルデバランを回復し続けているそれは、発動に必要なマナをアルデバラン自身から工面することで成立している。

そしてそれは今、『アルデバラン』と繋がっているせいで、実質無尽蔵だ。

「『領域』に頼れねぇってんなら……!」

いっそ、縛めとなっているマナを使い果たすつもりで、大魔法で障害を取っ払う。そんな発想が浮かび、アルデバランは頭の中にいくつもの術式を描く。

いずれも、『魔女』から教わったものの、発動に必要なリソースを賄えないことから塩漬けになっていた知識だが、『アルデバラン』と繋がった今なら使用可能だ。

ラインハルトのときと同じく、それを駆使して、『領域』なしでの打開策を――、

「うぶ……っ」

――そう考えた瞬間、込み上げる嘔吐感がアルデバランの口を塞いだ。

激しい眩暈と耳鳴りに、「あ?」と膝をつきかけるアルデバラン。誰かに攻撃されたかと、慌てて周囲に目をやるが、誰もいない。――そして気付く。

今、アルデバランを眩ませたものの正体が、尋常ならざるプレッシャーであると。

選択を失敗できないというプレッシャーが、アルデバランの心胆を握り潰していた。

「……嘘、だろ」

震える自分の右手を見下ろして、アルデバランは絶句する。

この鉄火場で、自分がしてきた何もかもが無意味に帰すかどうかの瀬戸際で、憎たらしい治癒魔法のおかげで体の調子は上々で、最速最高の判断が求められている状況で、それにビビって頭がまともに働かなくなっているなどと、悪い冗談だった。

だが、現実は冗談でも何でもない。悪夢めいていても、事実だ。

――何故ならアルデバランは、権能なしで決定的な何かを選んだことがない。

この戦いが始まる以前、ヴォラキア帝国でも、王選でも、剣奴孤島でも、その前の『魔女』との日々でも、アルデバランの選択は常に権能に守られた最適解だった。

どんな失敗をしても、やり直し、別の選択肢を選んで、失敗を帳消しにしていく。それを重ねて生きてきたのが、アルデバランの在り方。それが今、通用しない。

「――――」

噴煙を吹き飛ばす風を、どの規模で起こせば人死にが出ないのかわからない。降水を蒸発させる熱も、地鳴りを相殺する衝撃も、この噴煙に右足と左足、どちらから踏み出せばベストな答えが得られるのか、全てが未知数だ。

確かめられないことは、恐ろしい。

正解の保証されていない道を歩くことは、暗闇を手探りでいくのと同じだ。

そんな、報われる確信のない道を、アルデバランは進めない。――だって、権能の役立てられないアルデバランは、どうしようもない木偶の坊だ。

二人の『魔女』も、愛しい女も、その木偶の坊は救えなかった。

「――っ」

一度考え始めれば、悪い考えばかりが頭を過る。

ロイに自分の『名前』を喰わせる策は最善手なのか。もっと他に打てる手立てがあるのでは。呪印を盾にロイを暴れさせ、その隙を突く方がいいか。完全治癒の隙間を縫うような画期的な死に方を見つけ出すのは。あるいは土煙に紛れて逃げた方がよかったりしないか。エトセトラエトセトラ、感情ばかりが焦って――。

『――そら見よ、また』

「――――」

その、焦燥する感情が、冷や水を浴びせられたような感覚に止まる。

迷いと恐れ、権能を封じられたことで一気に噴き出したアルデバランの負の感情、それに引きずり出されるようにして、奥底に沈めた最大の後悔が熱を帯びる。

触れれば火傷し、傍にあるだけで肌を炙られるような極限の熱量と裏腹に、血の一滴に至るまで冷え切っていくような感覚を味わい、アルデバランは息を吐く。

『また妾の――』

「……やめろ」

『妾の――』

「やめろぉぉぉ――!!」

耳を塞ぎ、目を背け、心の奥底に無理やりに押し込むことで直視しないで済んでいたものと直面させられかけ、アルデバランが絶叫する。

聞こえる声を拒み、見える微笑を拒み、入り込んでくる熱を拒んで、歯を剥く。――瞬間、無理やりに押し開いた眼に、噴煙の向こうで微かな残影が映った。

刹那、土煙に紛れた姿だったが、間違いない。ロイだ。『暴食』だ。

この湧き上がる後悔から――否、今アルデバランを取り巻く最悪の状況、そこから引っ張り出してくれる唯一の光明、それが見えた。瞬間、走り出す。

「――ロイ! オレはここだ! オレを! オレの『名前』を喰え!!」

踏み出す足に迷った躊躇いが、死に方を模索する臆病が、別の策に逃げようとする薄弱が、自分の選択を疑う怠慢が、その瞬間の地を蹴る衝撃に打ち砕かれる。

この瞬間、アルデバランは目の前に舞い込んだ選択肢、それを掴み取ることに不乱となることで、最も恐ろしいものから逃れることを選んだ。

――アルデバランはこれまで権能の力で、たった一度きりの『選ぶ』という機会から目を背け続けてきた。故に、知らなかった。

何か一つを『選ぶ』とき、その場から逃れたい一心に追い立てられてした選択が、そのものの運命を肯定的に切り開くことなどないのだと。

それは――、

「――アル様」

噴煙の向こうに見えた影に、逃避的に飛びつこうとしたアルデバランの体を真正面から抱き留めた存在――味方のはずのヤエ・テンゼンの行いに、証明されることになった。

△▼△▼△▼△

――レムとの戦いに敗北したとき、ヤエの『次』の戦いは始まっていた。

吹き飛ばされ、凍結した大河の上に作られた氷山の斜面を転がり落ちながら、本来ならできる止血法も何もかも放棄し、瀕死の敗北者を全力で演じたのだ。

それをした目的は――、

「――命まで取るつもりはありません。あの人が、悲しみますから」

そう言った鬼の娘が治癒魔法を発動したとき、ヤエは最初の賭けに勝利した。

正直、交戦中の容赦のなさを思えば、命を取る気がないなんてどの口が案件だと思ったが、実際に一命を取り留めた以上は文句も言えない。――何より、文句など口にしようものなら、せっかくのチャンスが水の泡だ。

生憎と、ヤエがここからレムに逆転する目はさすがに存在しない。

最後の攻防で、レムがヤエの一閃を無効化したカラクリが解けない以上、たとえ不意打ちが成功したとしても、レムを仕留めることはできないかもしれない。それもまた、千載一遇の好機を無駄にする行いに他ならない。

故に、ヤエの狙いは別。――なけなしの、全霊を注いだ最後の奉公にある。

さすがのレムも反撃を警戒し、治癒魔法の効果は最低限、出血した傷を癒着させ、死へのカウントダウンを止めるぐらいの塩梅に抑えていた。おまけに無抵抗のヤエの手足は鎖で拘束され、人質・捕虜以上の役割を与えまいとする徹底ぶりだ。――だが、それでもシノビに対する認識は甘いと言わざるを得ない。

即死でさえなければ、首が飛ぼうと仕事をするのがシノビの在り方だ。

全身の関節を外して鎖から逃れ、瀕死の重傷も丹田を燃やして度外視できる。

そうすることで、託された役割を何一つ果たせなかったヤエにも、最後の最後でアルのためにできることがあるはずだと、そう、考えて。

そして――、

「――――」

――ヤエの狙った千載一遇は、想像以上に早く巡ってきた。

凄まじい衝撃がアグザッド渓谷を、周囲一帯の大地を強烈に呑み込み、生じた天変地異の余波が暴風や大水、地震となって襲いかかってくる中、ヤエは動いた。

衝撃からヤエを庇おうとしたレムから逃れ、渓谷を離脱、崖上へと到達――そこでヤエは、自分も含めたアルの共犯者たちの力不足を痛感させられた。

長大な渓谷を丸々覆うような砂塵が視界を占める中、アルはモゴレード大噴口に辿り着けていないどころか、上がってすぐの地点で敵に足止めされていたのだ。

それはヤエが、『アルデバラン』が、ロイ・アルファルドが、ハインケルが、アルに集められた共犯者たちが役目を果たせていれば、なくて済んだはずの受難。

だからこそ――、

「――――」

土煙に視界を、地鳴りに音を、逆巻く風に匂いを掻き乱された空間だが、ヤエは五感から得られる少ない情報を統合し、そこに見つけ出すべき相手を的確に拾う。

おそらく、シノビ以上にこの状況を十全に活かせるものはいない。シノビの里にさらわれたことを初めて感謝しながら、ヤエは颯爽と相手の下に急いだ。

今度こそ、何としても、彼の力になるために――、

「――ロイ! オレはここだ! オレを! オレの『名前』を喰え!!」

――アルの役に立たなくてはと、そう思って、いたのに。

「――アル様」

立ち込める土煙を突き破り、飛び出した男の体を正面から抱き留めた。その触れた体の熱を、重みを、生の脈動を肌で感じて、ヤエは自分の行いに心から困惑する。

「――や、え?」

強引に止められて前のめりになったアルが、すぐ脇にあるヤエの横顔を覗き込み、信じられないものを見たような口調でそう呟く。

その震え声にあるのは驚嘆と混乱、しかし、それはヤエも同じことだった。――否、直前までの自分の覚悟を思えば、ヤエの方がアルより混乱していたと言える。

「私は……」

アルの置かれた状況はおおよそわかっている。

何かしらの方法で追い込まれ、この混乱した状況に活路を見出そうとしている。そのために利用すべきなのが『暴食』で、粉塵の中にいる大罪司教の下に駆け付けることが、アルに目的を遂げさせるために、ヤエができる最善にして最後の奉公なのだ。

それがわかっていて、ヤエはアルの道を阻んだ。体ごとぶつかって、食い止めた。

どうしてか。驚愕する自分に問いかける。――ヤエはアルが恐ろしくて、だから彼に死んでほしくて、彼を死なせるために、目的を果たさせようとしていた。だが、今の追い込まれたアルなら、ヤエ自身の手で殺すことができるかもしれない。だからか? だから、自分はアルを止めて、味わわされた恐怖の報いを受けさせようとした?

「私は……」

『――愛です』

生じる疑問に、躊躇なく言い切ったレムの姿が頭を過り、ヤエは息を詰めた。

違う、断じて違う。共に、主に目的を遂げさせようとするメイド同士ではあったが、ヤエとレムとでは根本の部分の動機がまるで違う。参考にならない。

ただ、馬鹿馬鹿しいぐらいの巨大な想いを理由に一念を通した鬼のことを思い出したことで、ふと、ヤエはとある自分の気持ちに気付く。

「私は――」

ヤエは、アルに死んでほしかった。アルという怪物が怖くて、仕方なかったから。

だけど――、

「――私は、アル様を忘れることに、耐えられないみたいです」

――あなたを、永劫に失いたいわけではないのだと。

△▼△▼△▼△

「――――」

自分を抱き留め、その理由を口にしたヤエに、アルデバランは空白を得る。

わからない。わからない。わからないことが、多すぎる。――アルデバランの『領域』がヤエの心を壊し、彼女はこちらの死を条件に絶対の協力者となったはずだった。

そのヤエへの身勝手な信頼が、この究極の場面で裏切られた。

彼女は、一番いい裏切りの瞬間を今か今かと待ち構えていたのだろうか。

わからない。わからない。ただ、足を止めたアルデバランは追いつかれる。――耳を塞ぎ、目を背け、心の奥底に押し込んだはずの、最も逃げたい声に。

『――そら見よ、また妾の勝ちじゃ』

「……プリシラ」

わずかでも、目前の可能性を手繰り寄せるよう努力すべき場面で、アルデバランの口から『暴食』でも、己を引き止めた女でも、自分の名でもない呟きが漏れた。

すべき場面で、為すべき場面で、何も果たせなかった後悔を灰のように降り積もらせて今があるのに、また、アルデバランは灰の山を望む。

「何が……」

勝ちだったんだ、プリシラ。

お前は死んだ。死んだじゃないか。死んだってことは、負けたってことだ。死んだってことは、望みが果たせなくなるってことだ。死んで終わりにならずに済むのは、この世界に自分とナツキ・スバルしかいない。だから、お前はそうじゃなかった。

なのに、いったい、何が勝ちだったっていうんだ。負け惜しみなんて、この世で一番似合わない女だったのに、最後の最後で負け惜しんだのか。

どうして、最後に、お前は笑ったんだ、プリシラ。

「星が――」

「――ぁ?」

「星が、悪かったんです、アル様……!」

答えのない自問に意識を割くアルデバランを、胸の中からヤエが見上げている。

その余裕のない彼女の声と、言葉の内容にアルデバランは息を詰めた。星が悪いと、アルデバランはたびたび口にしてきたし、ヤエもそれを聞いていた。

だから、意趣返しだろうか。アルデバランを足止めした今、それを意趣返しに――否、ヤエの紅の瞳が、そうではないと訴えかけている。

その瞳に真摯な輝きが、かつての『魔女』と同じ光を灯し、言っている。

アルデバランのせいじゃ、ないと。

「――ッ、そんなはずが」

あるかよ、と瞬間的に湧き上がった激情があった。

ここまでの状況、これまでの事態、こうなった功罪、その全部がアルデバランにあり、ナツキ・スバルにあり、自分たちのせいじゃないなんてことはありえない。

それを――、

「――アル!!」

砂塵さえ邪魔できない銀鈴の声音が、瞬間的な沸騰を一瞬で切り裂いていた。

△▼△▼△▼△

飛び起き、急いで渓谷を跳び上がったエミリアは、その光景に仰天した。

「すごーくおっきな揺れだと思ったら……」

視界を埋め尽くすような粉塵と、轟々と鳴りやまない風の音。さらには収まるどころか大きくなり続ける大地の揺れと、気絶している間に大変なことになっていた。

だが、めげない。しょげない。凹んでいる暇は、エミリアにはないのだ。

「大急ぎでアルを……」

仲間たちからアルを止める役目を任されたのは、エミリアとレムがそれに一番向いているとみんなが信じてくれたからだ。そして、レムが飛んでいくアルを追いかけるように送り出してくれたのは、レムがエミリアに期待してくれたからだ。

その全部を背負って、スバルとベアトリスを助けるために気合いを入れてきたのだから、アルを逃がすわけには――、

「――いた! アルと……え!? あの子!?」

意気込んで粉塵の中に飛び込んだエミリアは、土埃の向こうにアルと、彼と抱き合っているヤエの姿を見つけ、またしても驚かされた。

ヤエの足止めはレムがしてくれていたはずだ。そのヤエがここにいるということは、レムのことが心配――フェリスが、おまじないと言って強力な治癒魔法をかけてくれていたが、それでも彼女の無事が気掛かりになる。

「すぐに――」

追いついて聞き出すと、そう強く地面を蹴った瞬間だった。――エミリアの視界、抱き合うアルとヤエの向こうから、粉塵を押しのける大きな変化がくる。

それは、収まることのなかった靴裏の揺れ、延々と続いていた大地の悲鳴の正体。激しく地面を震わせながら押し寄せたのは、ものすごい量の鉄砲水だ。

それが容赦なく戦場を、あらゆるものを押し流していこうとするのを目の当たりにして、エミリアは何も考えずに地を蹴る速度を上げ、

「――アル!!」

呼びかけにハッと顔を上げる彼と、兜の奥の瞳と視線を交錯し、エミリアは抱き合った二人の頭を飛び越して、真正面から押し寄せる鉄砲水と向かい合う。

そして――、

「――アイシクルライン!」

△▼△▼△▼△

「――――」

大気が甲高い悲鳴を上げ、信じられない規模の氷結が大水に対して行われる。

押し寄せていたのは、大きな湖をバケツみたいにひっくり返したような、そんな神話めいたレベルの水の氾濫だ。それを銀髪をたなびかせた美しい少女が、流れ込んでくる大水を片っ端から急速に凍て付かせ、氷河を築く。

「やああああ――!!」

だがそれは、氷結と鉄砲水との分の悪いいたちごっこだ。

エミリアの生み出す冷気が大水を一部凍らせるも、その凍結した部分を乗り越えるように次の波が訪れ、それをさらにエミリアが凍らせる。それが繰り返されることで起こるのは、凍結が作り出す氷の傘と、その上を延々と流れ、広がる大氷河だ。

「うやああああ――!!」

冷気を発するエミリアを起点に、氷の傘は円形に、そして大水の流れに沿ってその規模を拡大、アルデバランの頭上にかかり、やがて通り過ぎてゆく。

その規模が大きくなるほどに重みは増し、傘はひび割れ、超重量が落ちてくるのも時間の問題に――、

「――――」

一瞬、ちらとこちらを見るエミリアと、アルデバランとの目が合った。

そのことに何を思ったのか、エミリアの唇がきゅっと引き結ばれ――、

「うりゃああああ――!!」

軋み、ひび割れる音を立てていた氷の傘が補強され、崩落を間近としていたはずの大氷河の建設がなおも続く。落ちかける傘を支えるように、大地から次々と伸びる氷柱がその支えとなっていく創意工夫に、しかし、アルデバランの注目は違う。

『氷結の魔女』を自称し、事実、その肩書きに相応しい力を発揮するエミリア。だが、今このとき、エミリアが限界を超えた力を発揮した理由に、先の目配せがあるなら。

渓谷で仕掛けた巨岩の罠、それからアルデバランを庇ったのと同じように、このときのエミリアも、アルデバランを守るために力を発揮したなら。

そう考えて、今さら気付く。――エミリアは、ちゃんとアルデバランを見ていたし、アルデバランと話そうともしていた。

「オレは――」

掠れた声が喉から漏れ、その先が続かない。

ただ、大きな大きな、取り返しのつかない大きな掛け違いが、あった気がする。――権能を封じられる前から、もうやり直せない、取り返せない、そんな掛け違いが。

『――そら見よ、また妾の勝ちじゃ』

何が勝ちだったんだ。それは、結局わからないままだ。

だけど、プリシラ、そう言って、勝ち誇って笑うお前は、本当に――、

「――そこまでだ」

――瞬間、何もかもを薙ぎ払う理不尽な鉄槌が、光となって戦場を貫いた。