軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章58 『鎖の音』

「リゲル。――ナツキ・リゲルだ!!」

――その張り上げられる魂の叫びを、ロイ・アルファルドは確かに聞いていた。

懸命で必死、聞くものの胸を打つような情感のこもった訴えで、きっと人間の鬼気迫る激情や、悲喜こもごもの切望を愛する『美食家』ライ・バテンカイトスなら、喜んでその願いに耳を傾け、舌なめずりしながらご要望に応えたに違いない。

「でも、ここにいたのはライじゃなく、僕たちなんだよねェ」

『美食家』のライと『悪食』のロイ、同じ『暴食』の魔女因子を分け合った双子――正確には、母の胎の中で死んだルイとの三つ子だが、存外、馬の合わない兄弟だった。

食事において何を重要視するかが、同じ血肉でできた兄弟なのにまるで違う。

だが、そうした食性の違いを嘆いたことはない。むしろ、兄弟で同じ獲物の取り合いにならなくて済んだと喜ぶべきことだ。自分で自由に獲物を選べず、『魂の胃袋』から盗み食いするしかなかったルイはそれをもどかしく思っていたようだが――、

「仕方ない仕方ない。俺たちだって妹は可愛いサ。でも、でもだよ? 食事ってのは自分のためにするもので、誰かの胃袋を満たすなんて器用な真似はできないのサ」

だから、ひもじさを訴える妹を哀れに思っても、それは身近な他人の空腹だ。

ライが砂の塔で儚く散ったと知らされても、それも身近な他人の食事の失敗だ。

とりわけざまあみろとも思わないし、その食事の終え方を嘆き悲しんだりもしない。ただ思ったのは一個――もったいないという感慨だった。

「あァ、ライの『美食』って観点じゃァ、常に飢えてた僕たちなんて落第失格あぶれ者ってとこだろうけど……『悪食』の俺たちは、ライを食べてもよかったなァ」

不思議と、ライとルイを食事の対象外にしていた自分に気付いて、ロイは自分の家族愛も案外捨てたものじゃないとおかしく思った。目につくものなら手当たり次第綺麗に平らげる『悪食』が、あろうことか皿を選んでいたなんて。

「あァ、本当に惜しいことしたなァ」

残念だが、ライは死んでしまった。ルイも、あの砂の塔で過ごした時間以来、『魂の胃袋』に彼女の存在を感じず、どうなったかわからない。――本当に、本当に残念だ。次に妹と触れ合えたなら、きっとその魂を齧ってやるのに。

「なにせ、僕たちは『悪食』だからサ」

どんな醜くおぞましいものでも、喰らいたいと思えば舌を伸ばさずにいられない。

『美食家』が見向きもせず、『飽食』が皿を押しのける代物でも、余さず喰らおう。

――何より、一度喰らいたいと欲したモノを諦めるなんて、考えられない。

「――!!」

粉塵の向こうで声を張り上げるアルデバランは絶体絶命――否、それとは真逆の状態にされることで、何故かかえって窮地に陥っているらしい。そこでロイの存在を思い出し、『名前』を喰わせて盤面をひっくり返そうとは、なかなかキレると感心する。

言いなりにして連れ歩くために刻んだ呪印、それを励起し、アルデバランが必死にロイを呼んでいる。触ることのできない魂を炙られるような、そんな不可思議な痛みがロイを襲い、その体がビクビクと地面を跳ねる。それはこの痛苦から逃れたいなら従えと、そう痛みによって脅してくる魂への虐待だ。

「わかる、わかるよ、わかるとも、わかるって、わかるんだから、わかるにしても、わかるしかないじゃんッ! わかるっていうからこそッ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

言いたいことはわかる。させたいこともわかる。追い詰められているのも、わかる。

正直、こうして魂を焼かれかけても、ロイはアルデバランに感謝していた。――監獄塔から連れ出されたおかげで、二度となかったかもしれない食事の機会にありつけた。言いなりに食事をするのは好かなかったが、喰らうものを選ばないのがロイの美点だから、そこはアルデバランにとっても都合がよかっただろう。

「でもサ、勘違いしてもらっちゃァ困るんだよねェ」

感謝しているから、言いなりになってやってもいい。――でもそれはあくまでロイの譲れる範囲のことであって、そうでないのならロイの好きにさせてもらう。

それは例えば――、

「――見ィつけた」

命と引き換えにしてでも喰らいたいと思った相手は、必ず喰らうという食性だった。

△▼△▼△▼△

「リゲル。――ナツキ・リゲルだ!!」

血を吐くようなその叫びは、『憂鬱の魔女』の耳にもしかと届いていた。

意識の外側から押し寄せた爆風と暴圧、それがもたらした戦場への被害は大きく、大地を均すような衝撃波に揉まれ、何とか体を起こした矢先のことだ。

『――ペトラ! 大丈夫か!? クソ、いきなりなんだ!? みんなは無事か!?』

キンとうるさい耳鳴りが頭蓋の中を支配していても、イマジナリースバルのこちらを案じる声は鼓膜と無関係にしっかり聞こえる。その『スバル』の混乱と憂慮、倒れていた仲間たちの身を心配したところに届いたのが、冒頭のアルの叫びだった。

「――――」

濛々と巻き上がる砂塵の中、口の中に入った砂粒を吐き出す『憂鬱の魔女』は、暴風に紛れたアルの叫びに、二つの方角からの驚きを得る。

一つは、この状況を打開するためにアルが選んだ、『暴食』の権能の利用法。そしてもう一つが、アルが自分の真名だと叫んでいた名前についてだ。

ナツキ・リゲル。――その響きは、明らかにナツキ・スバルと無縁ではない。

「スバルと同じ異世界人なら、アルデバランが偽名なのはわかり切ってたけど……」

そこで飛び出す名前がナツキ・リゲルというのは、あまりに奇妙な符合だ。

リゲルは星の名前だし、ナツキという家名は他ならぬスバルと同じもの。――まさか、異世界に召喚される条件は、菜月姓+星の名前のセットだとでもいうのか。

『あいつは……』

当然、『スバル』もまた『憂鬱の魔女』と同じ疑問に眉を顰めた。

アルには謎が多く、『憂鬱の魔女』たちは世界を敵に回す覚悟をした彼と相対しながら、その本心も真意も何一つ知らないままでいる。これもまた、その証の一つ。

しかし――、

「――ごめんね。わたし、もう選んだあとだから」

この場において解けない謎を優先するほど、『憂鬱の魔女』は子どもじゃない。

今ここで何より優先すべきは、アルから新たに提示された謎ではなく、手札のほとんど全てを切ってなお、盤面をひっくり返す術を持ったアルへの対策だ。

自分の『名前』を喰らわせるというアルの方策は、実行されたとしたら手の打ちようがない。――レムを忘れ、思い出したことで、その効力は実証済みだ。

「だから、やるね、スバル」

そう『憂鬱の魔女』が呟いたとき、『スバル』は傍らではなく、正面に立っていた。浮かぶのではなく、大地に足をつけて、彼は真っ向からこちらと相対する。

『――――』

その黒瞳を真っ直ぐ見つめながら、『憂鬱の魔女』は不思議な感慨を味わう。

ここにいる彼は、どう足掻いても自分が見たいように見ている幻に過ぎず、決して本物のナツキ・スバルではないのだ。それはきっと、外から見ればとても滑稽な夢で、『憂鬱の魔女』にとって、最も都合のいいまやかしでしかない。

「なのに、結婚はしてくれないんだよね」

『ペトラ、俺は……』

「ウソウソ。ちょっと困らせたかっただけの魔女ジョーク」

ちろと舌を出して、困らせてしまった『スバル』に『憂鬱の魔女』は謝る。

ここで自分の言いなりになってくれない『スバル』の存在を、『憂鬱の魔女』は自分の想いの高潔さの表れだと、いっそ誇らしく思った。

自分の好きな人が自分の思った通りになってくれるのは、嬉しいけど、複雑だ。

「だってわたし、わたしがバカだって教えてくれたスバルが好きになったんだもん」

『……そりゃ本当に光栄だよ。俺は、とんでもなく幸せな大馬鹿野郎だ』

「――それはホントにそう」

自分の告白にそう応じた『スバル』に、『憂鬱の魔女』は唇を綻ばせた。それから『憂鬱の魔女』はその場でくるりと振り返り、『スバル』に自分の背を向ける。

一拍、思案か躊躇の間があってから、『スバル』が後ろから『憂鬱の魔女』を抱いた。

これは期待にも望みにも百点満点。それに、きっと幻じゃない本物のスバルだったとしてもしてくれることだから、『憂鬱の魔女』の採点にも影響しない。

だから、その腕に抱かれたまま――、

「――見ィつけた」

そう、粘っこい声が間近でして、噴煙の向こうから脅威が接近する。

それは『憂鬱の魔女』が頭上に向けた指先――そこから放たれた白光を目印に、猛然と駆け付けた『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドだ。

牙を剥くロイと、『憂鬱の魔女』との視線が交錯する。

そして――、

「――ペトラ・バウマンだよ」

指を天に突き付けたまま、『憂鬱の魔女』がその名を名乗る。

『暴食』対策に『アルデバスターズ』が行った名前のシャッフル――それは領主であるロズワールの協力の下、正式に効力のあるものとして受理された改名の儀の成果。それぞれが自由に名を選ぶ中で、『憂鬱の魔女』は最も敬愛する相手の家名をもらった。

だが、ここまで伏せていた改名後の名を明かしたのは他でもない。――奥の手だ。

『――ペトラ』

触れられない腕で、それでも抱きしめる力を強くした『スバル』が自分を呼ぶ。その声に、やはり触れられない腕に手を重ねながら、『憂鬱の魔女』は微笑んだ。

微笑みながら、あらゆる代償を捧げて『憂鬱の魔女』となった乙女は告げる。

「――スバル、大好き」

△▼△▼△▼△

舌に乗せ、『蝕』を発動、喰らった瞬間に染み渡る充足感に全身に痺れが走る。

「~~ッ!」

この『蝕』の絶頂感こそが、これまで数多の『名前』と『記憶』を喰らい、人生を貪ってきたロイをしても、代わりの思いつかない『暴食』の醍醐味。

餓え、餓え、餓えすぎた飢餓感こそがレゾンテートルの『暴食』。――それが欠片でも満たされたと錯覚できる刹那に、たまらなく生の充足が感じられるのだ。

それはまさしく――、

「――極上ッ!」

約束を守った『魔女』の味は、余韻に舌なめずりするロイを極大の愛で酔わせた。

期待した以上の感情、危惧した以上の強烈さ、希望した以上の純真さの虜にされ、ロイはその身を浸していく満腹感に、真の『蝕』とは何たるかを堪能する。

まさに、まさに、まさにまさにまさに、この一味のために生きていた。

――たとえ呪印を破った代償に魂が焼かれようと、この『蝕』に悔いはない。

その流れ込んでくる『記憶』に、ルイが渇望した理由がはっきりと明示される。だが、生憎と妹と違い、ロイの味蕾が最も甘美を覚えたのは、少女の祈りだった。

たった一皿をここまで愛した『魔女』は、味わう前からの期待を見事超過した。

故に、『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドは嗤った。

呪印を破った証の青い炎に焼かれながら、嗤った。

「――ゴチソウサマでしたッ」

そして、魂ごと青の炎に焼き尽くされる瞬間に――、

「――そこまでだ」

不意に戦場に生じた真紅の炎が、その青き炎を容赦なく一閃していた。

△▼△▼△▼△

――『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアの代名詞と言えば、当然ながら『剣聖の加護』が一番最初に挙がるだろう。

しかし、そのラインハルトの非常識さをよりよく知るものであれば、彼が有する数多の加護が、歴代最強の『剣聖』の名を知らしめる一因であることも知るところだ。

過去、史上最強の存在の一角である『強欲』の大罪司教、レグルス・コルニアスと彼が一戦を交えたとき、その場に居合わせ、彼と共闘したナツキ・スバルは、ラインハルトが持ついくつもの加護の中でも、とりわけ『不死鳥の加護』を規格外と評した。

そもそも、その圧倒的実力から、一度でも命を奪うことが困難な存在にも拘らず、死してなお蘇ることのできる『不死鳥の加護』の力は、まさしく反則技だ。

だが、ナツキ・スバルが呆れと共にチート能力と判断した『不死鳥の加護』、その真の規格外さを知れば、ナツキ・スバルの評価はさらに覆ったことだろう。

「――『不死鳥の加護』」

件の『強欲』の大罪司教との戦いで一度は使用されたため、正確にはそれは新たに授かった次なる『不死鳥の加護』であったが、起きる現象は同じ、区別に意味はない。

重要なのは、この加護が発動することで、加護者であるラインハルト・ヴァン・アストレアの失われた命が蘇り、その際に致命傷を含めた全ての傷が快癒することだ。

故にこのとき、ラインハルトが世界の滅亡を水際で防ぐため、三日三晩にわたって繰り広げた『嫉妬の魔女』の残影との戦いで負ったあらゆる負傷が帳消しになる。

それにはアルデバランが『神龍』と協力し、ラインハルトに負わせた両腕が使い物にならなくなる傷も含まれ、寝ずに戦い続けた疲労さえも活力の炎に焼き尽くされた。

それだけでも十分、『不死鳥の加護』の力の規格外さの証明は為されていると言えるが、ラインハルトがこの加護を頼った真価はこの先にある。

アルデバランの仕組んだ何らかの仕組みにより、現代に蘇った『嫉妬の魔女』の脅威。それが現れたときと同様、突然の消滅を迎えた瞬間、ラインハルトはその戦いの終わりと――即座に自らに致命傷を負わせるという決断を得た。

もしこれが、ただ単に自分の傷を癒すことだけが目的だったなら、ラインハルトはわざわざ自傷することなく、傷の自然な治癒を待っただろう。

すなわち、ラインハルトが『不死鳥の加護』に求めたのは傷の癒しではなく、その加護が持ったもう片方の効果、それは――、

「――――」

――真紅の炎を纏い、瞬間、ラインハルトは戦場のど真ん中で蘇生する。

それこそが、『不死鳥の加護』が有する規格外の効果の一端、死した加護者を望んだ場所に再誕させる、復活の炎だ。

レグルス・コルニアスとの戦いでは、共に戦ったナツキ・スバルの目の前に蘇った力だったが、この瞬間、ラインハルトが蘇生した場所がどこであるかは言うまでもない。

ラインハルトの尻拭いに、アルデバランと戦っているはずの、主の下だ。

「――――」

風に逆巻く炎の中から戦場に現出したラインハルトは、そこが天変地異に見舞われた異常な空間であることを一瞬で見取る。

さしものラインハルトも、その光景には驚きを禁じ得なかったが――、

「ラインハルト!」

不意の呼びかけに振り向くラインハルトは、そこに可憐な容姿に懸命を宿した友人と、その友人に抱きかかえられる主――フェルトの姿を目撃した。

一目で只ならぬ事態と受け取り、ラインハルトはとっさに主に駆け寄ろうとする。友人の、フェリスの腕に抱かれたフェルトは項垂れ、力がない。フェリス以上の適任などいようはずもないが、せめて声をかけようとして――、

「――オイ」

「――――」

ラインハルトの踏み込みより早く、その弱々しい掠れ声が紡がれた。

粉塵の中、フェリスの発する淡い輝きに包まれるフェルト――頭部に集中的な治癒の光を受ける彼女は、ゆっくりとその顔を上げ、幾度もその焦点をブレさせながら、それでも赤い瞳に一の騎士を捉える。

そして、体中の力を、これでもかと掻き集め、たった一言を作った。

それは――、

「――あと、任せた」

その一言に、ラインハルトは自分のすべきことが、主を案じることではないと悟る。

ラインハルトの主は強い。それこそ、ラインハルトよりもずっと。

故に――、

「――そこまでだ」

為すべきを果たした主を友人に任せ、背を押されたラインハルトが戦場を往く。

瞬間、一帯に点在する気配の位置を把握、それらの中、対処すべき敵の下に向かい、青い炎にくるまれる『暴食』のロイ・アルファルドを一閃、この世から消滅させる。

「――ゴチソウサマでしたッ」

そう嗤うロイ・アルファルドを焼いていたのは、彼の魂を火種に燃え上がる、決して消えぬ青い炎。故にラインハルトは、長く苦しませないために彼を介錯した。

そして――、

「――アル殿、今度こそ、あなたを止めます」

砂塵の中に立つアルデバランに対し、ラインハルトが地を蹴り、飛んだ。それは『圧縮』の力を借りずとも、空間を押し潰したような瞬速の動きだ。

そのラインハルトとアルデバランの間に、とっさに少女が両手を広げる。赤い髪の少女がアルデバランを庇おうと最速で動いた。一蹴、反応さえ許さぬラインハルトの手刀が彼女の首を打ち、その意識を一瞬のうちに彼方に刈り取る。

そして、無防備になったアルデバランに、ラインハルトは今一度腕を引き――、

「――それが、僕の役目だ」

――刹那、アルデバランの胴体を、『剣聖』の本気が一撃した。

△▼△▼△▼△

遠く、砂塵の向こうで青い炎が散り、それを意識した次の瞬間には、目の前で崩れ落ちるヤエの細い背中を見ていた。

とっさに倒れゆく彼女に手を伸ばしかけたのは、どんな心理が働いた結果だったのか。いずれにせよ、アルデバランの手は届かなかった。いつもそうだ。

そして、瞬きを差し挟む隙すらないまま、白閃がアルデバランの胴を薙ぐ――、

「――ぉ」

なった。間違いなく、腰上を手刀に一閃され、アルデバランは真っ二つになった。

だが、真っ二つになった瞬間から再生が始まり、それこそビデオの逆再生のような勢いでアルデバランの肉体は復元、両断された胴体が即座に修復される。

それはアルデバランにかけられた『青』の治癒魔法の尋常ならざる威力と、そこらの名剣をはるかにしのぐ『剣聖』の手刀の切れ味が実現した人体切断マジックだ。

だが――、

「死なねぇ……!」

その訴えは、肯定的と否定的、どちらのものとして響いただろうか。

ラインハルトの一撃、そう、ラインハルトだ。『嫉妬の魔女』を呼び出してまで無力化したはずの彼の現出と、手加減のない手刀を浴び、しかし、死なない。

胴体を両断した以上、ラインハルトはアルデバランを殺すつもりで攻撃したはずだ。だが、『青』の治癒術はその『剣聖』の殺意すらも上回り、権能の発動を阻止した。

「――――」

一瞬、あったかどうかすら疑わしくなる痛みを無視し、アルデバランは思考する。

ラインハルトがいる。マズい。ヤバい。全てがご破算にされる。しかも彼がここにいるのは、世界を見捨てたのが理由でないなら、『嫉妬の魔女』が退いたということだ。

そして『嫉妬の魔女』が退くとしたら、口封じする理由がなくなったとしか。――それはすなわち、ロイが呪印の誓約を破り、権能を『憂鬱の魔女』に使った証だ。それをした場合のペナルティを、命で支払うとわかった上で。

大罪司教は無理やり従わされた意趣返しに、命さえ投げ出したというのか。確かなことは一つ――アルデバランは自らの行いで、この状況を打破する可能性を断ち切った。

「――ッ」

『暴食』という可能性が指からこぼれ落ちた。

その事実を認め、アルデバランは歯噛みしながら思考をスパーク、ここから先の全行動を、状況の打破に使うと決める。

呼吸も拍動も、手指の一本から滴る汗の一滴にまで、無駄は一切許されないのだと。

そう自らの魂を強く戒めながら、アルデバランは倒れるヤエを抱きすくめる。――ヤエを、抱きすくめる?

「――ぁ?」

今しがた、自分がするべきことをアルデバランは定めた直後だった。

ここから先は刹那の刹那さえ、このアクシデントを乗り切るために使い切るのだと、そう心に決めたはずだったのに、何故、ヤエに手を伸ばし、抱きかかえたのか。

彼女に意識はなく、それがお得意の死んだふりである可能性はゼロだ。ヤエを抱き起こしても、事態を打開できない。

なのに、どうして、アルデバランは――、

「あなたもわかっていることだ。――ここまでだと」

自分で自分の行動の意味がわからず、驚天動地に立つアルデバランに、『嫉妬の魔女』と死闘を演じていたとは思えない健やかなラインハルトの声がかかる。

ここまでと、諦めろと、ラインハルトは簡単に言ってくれる。

言って、くれる。

「そりゃ、『剣聖』もさぞかし色々背負っちゃいるんだろうが……オレだって、なあなあで手放せるほど安い覚悟で始めたわけじゃねぇ」

「――――」

「まだ、まだだ。これぐら……これぐらいで! 勝手に諦めると思ってんじゃねぇ!」

虚勢を張り上げ、アルデバランはラインハルトを睨みつける。

せめて気迫で相手を上回ることで、何か一個でも、指のかかるものを欲した。だが、そのアルデバランの勢いに、ラインハルトは手刀を振った手を掲げ、応じる。

一度、アルデバランを両断した『剣聖』の手刀は、何かを握りしめていた。

――そこにあってはならない、魔法で編まれた黒球を。

「これでも?」

凝然と目を見開き、絶句するアルデバランは、先ほどの『剣聖』の一閃の狙いが自分の命ではなく、まさしく胴体を両断することにあったのだと理解する。

ラインハルトは狙ってやったのだ。――『青』の力を信じて、文字通り腹を割った。

アルデバランの腹を割って、それを取り出した。

モゴレード大噴口へ、世界の彼方に通じる穴に捨て去るはずの――、

「けどなぁ、割れねぇぞ!!」

衝撃は抜けない。それでも、主導権はまだこちらにある。

『魔女』の編み出した、魔女因子から力を与ったものを確実に封じる禁術だ。たとえ、ラインハルトの馬鹿力であっても、世界を壊す『龍』の息吹だろうと壊せやしない。

そして、アルデバランは何があろうと、その封を解くことは――、

「いいや、ここに封じられているのはスバルだろう? ――それなら、抜ける」

瞬間、常ならぬ力の奔流に大気が震え、世界が確かな身震いをする。

それほどまでに、その剣が抜かれることは一大事、世界そのものが無視できぬほど。

それは――、

「――『龍剣』レイド」

ありえざる光の一閃が、『剣聖』の手元の小さな魔玉を断ち割った。

△▼△▼△▼△

『――誰も、ボクが創った君には勝てないよ』

アルデバランを『後追い星』と名付け、全てを仕込んだ『魔女』がそう言った。

『――そら見よ、また妾の勝ちじゃ』

アルデバランに、『後追い星』以外の意味を与えた『太陽姫』がそう言った。

「――――」

愚かで無力なアルデバランはどちらも失い、誤った選択を正せるはずの権能を持った存在でありながら、結局は一番中途半端な道を選び続けた。

ただ、世界を終わらせる『魔女』を生まない。――全てはそのための歩み。

『魔女』の教えを受け、その願いのままに『魔女』を殺そうとした。――失敗した。

プリシラと出会い、彼女を王にすることで『魔女』を殺そうとした。――失敗した。

初心に戻り、ナツキ・スバルを除くことで『魔女』を殺そうとした。――失敗した。

「――ぁ」

眩い光が溢れ、鉄兜越しにも瞳を焼かれる感覚を味わいながら、アルデバランは眼前で起こった力ずくの奇跡、その法外な力の結果を目にする。

理外の力によって引き起こされた事象は、同じく理外の力によって断たれ、封ぜられたそれが解き放たれたとき、アルデバランにできたことは、まるで癇癪を起こしたようにきつくきつく、細い体を抱く腕をきつくすることだけ。

そして――、

「――っ」

聞こえるはずのない、微かな息遣いがアルデバランの意識を引っ掻いた。

それは後方、押し寄せる大水に対して力を振るい、凄まじい冷気を発することで、戦場が濁流に呑まれるのを防いでいた銀髪の少女のものだ。

それが、力及ばず水に押し切られる嘆きだったら、耐えられた。

それが、ラインハルトの登場に安堵した吐息だったら、耐えられた。

それが、憎っくきアルデバランが追い詰められた会心だったら、耐えられた。

でも、どれでもない。――彼女の紫紺の瞳が見つめたのは、一人だ。

いつだってアルデバランは、彼女の瞳には映らないのだから。

「――ナツキ・スバルぅぅぅ!!」

吠える。叫ぶ。絶叫する。

文字通り、血を吐くようなだみ声で、アルデバランはその名を呼んだ。

光の中に飛び出してくるそれは、ドレス姿の大精霊を抱きかかえた黒髪の少年――違うはずのないその人物は、黒球から解放された勢いのままに地に片膝をつく。

そして、開かれた唇、その開口一番に叫んだ。

「――レム!!」

その声に応じるように、鎖の音がアルデバランの鼓膜をつんざいた。

△▼△▼△▼△

――レムは、ナツキ・スバルを愛している。

これはもう、揺るぎない事実であり、『記憶』を完全に取り戻す前のレムも、渋々ながらだろうとも認めるところである。

というか、『記憶』があろうとなかろうと、レムがスバルに惹かれるのは必然的なことなので、正直、何を我慢していたのかというところだが。

「いえ、違います。それは少し吹っ切りすぎというか……第一それだと、あの人が何もしてくれなかったとしても、好きになるみたいじゃないですか」

自分の想いは、そんなに都合のいいものではないとレムは思う。

むしろ気難しく、疑い深く、簡単には心を許さない女、それがレムの思う自分だ。我ながら、なんと近寄り難い娘なのかと、自分で自分に戦慄する。

素直で慈悲深いラムや、悪態と裏腹に本心が見え見えで可愛いカチュアとは大違い。

そう、『本来』のレムはとっつきにくく、態度の悪い性格ブスなのだ。

視野と世界が狭く、その限られた自分の聖域を守ることに手一杯で、周りを慮るような思いやりとも縁遠い。――なのに、ナツキ・スバルは踏み込んできた。

踏み込んで、踏み荒らして、手を引いて、連れ出されて、レムは彼にぞっこんだ。

そしてそうなったものは、そうなっていくものは、これからもっと、もっと増える。

「でも、その中でも、一番最初にそうなったのがレムだってことは変わりません」

ナツキ・スバルの良さを、最初にわかったのはこのレムだ。

エミリアもいい勝負かもしれないが、深みと重さでレムが最初と言い張らせてもらう。それもまた、揺るぎのないこと。――ナツキ・スバルにまつわる、大切なこと。

「お屋敷、王都、フリューゲルの大樹」

『記憶』をなくす以前の、ナツキ・スバルを愛したレムが彼と辿った道のり。

「密林、城郭都市、帝都に連環竜車」

『記憶』をなくしたあとの、ナツキ・スバルを愛し始めたレムが彼と辿った道のり。

「これまでと、今と、これから」

『記憶』を取り戻した今、ナツキ・スバルを愛し直したレムが彼と辿っていく道のり。

その全部を『愛』の一言で括るのが乱暴なことくらい、ヤエに何度も言われなくても、さすがのレムだってわかっている。

それでも、自分を突き動かし、何があろうと後悔しないと言い切れる希望の原動力が何なのかと言われたら、やっぱり『愛』以外には思いつかない。

レムは愛ゆえに、ナツキ・スバルを信じられる。

レムは愛ゆえに、ナツキ・スバルのために尽くせる。

レムは愛ゆえに、ナツキ・スバルと同じ未来を望める。

『――レム姉様、一個だけ、聞かせてください』

それは、戦いに赴く前に、レムと同じように、ナツキ・スバルを愛する一人の少女と交わしたやり取りだった。

彼女もまた、ナツキ・スバルと出会い、『本来』を外れた一人だとわかる。そのことを幸福に思い、彼が歩む茨の道を一緒にいくと決めた一人なのだと。

その眼が真っ直ぐに、自分ではない相手を見ているとわかっていて、それでも、その愛の眼差しをこちらに向けることを望まずにおれない、一人なのだと。

『レム姉様は、スバルを助けるためなら、何でもできますか?』

後々になってレムは思う。

その問いかけを口にするのに、いったい、どれだけの勇気がいったのか。

その先に用意していた言葉を伝えるのに、いったい、どれほどの熟考を要したのか。

そしてもし仮に、レムが期待にそぐわぬ答えを返していたなら、いったい、どれほどの覚悟と理想を背負い、少女は一人、その道を往くつもりだったのか。

「はい、もちろんです。――私は、スバルくんのレムですから」

だから、それに躊躇わず応えられたことは、レムにとって何にも代え難い誇りだ。

言うなればあれは、ナツキ・スバルへの想いの強さの比べ合いだった。そして、彼に想いを寄せられるエミリアにだけは、絶対に任せられない秘め事の誓い。

それを果たすことで何が起こるのか、本当のところはレムにはわからない。

ただわかるのは、それがナツキ・スバルの手助け――否、逆だ。ナツキ・スバルが、あの心優しい少年が背負っていく多くの想い、その最初の一人になれること。

それ以上を望むのは贅沢だ。でも、『記憶』が戻って欲張りになった自分は、贅沢だとわかっていても、その先をほんの少しだけ望んでしまう。

例えばそれは、レムたちに背を押された少年がその道を往くとき、レムや少女の献身を思い、その胸にさざ波より、少しでいい、大きな波が起こること。

それだけが、レムの――、

「――レム!!」

白い光の向こう、現れた彼の姿が見えた途端、レムのいじらしい感慨が砕け散る。

瞬間、己の内側から湧き上がるとめどない感情の激流に翻弄され、レムは思わず、何もかもかなぐり捨ててその胸に駆け込みたくなる衝動に駆られる。堪える。

直後、靴裏が強く噛みしめた大地が爆ぜ、隆起する岩壁が視界を席巻しようと――するのを、その身に炎の余韻を残した『剣聖』の一閃が薙ぎ払い、道が開ける。

真っ直ぐ、一直線、レムと愛おしい少年との視線が通る。

「――――」

決死の、それでも地の優しさを拭い切れない少年、その黒瞳と視線が交錯した。

言いたい千の言葉、告げたい万の想い、捧げたい億の祈りを呑み込み、レムは言う。

「また、今の私に……レムに、あなたを愛し直させてくださいね」

刹那、渾身を込めて腕を振るった。――鉄球が真っ直ぐ、一直線、空を奔った。

△▼△▼△▼△

――鎖の音が、する。

その瞬間、血を吐くような自分の絶叫も、無我夢中で放った極大魔法による大地の隆起も、『剣聖』の振るった至高の一閃が氷結する大気を断ち、天変地異さえも打ち消したことも、精霊を抱いて現れた男が『強欲』の権能を用いて事態を把握していたらしきことも、腕の中で熱を持つ女の体を我知らず強く抱いたことも、何もかも、アルデバランにはどうでもよかった。

ただがむしゃらに、手を伸ばす。――否、伸ばそうとした。できなかった。

右腕は裏切った女を抱き、失った左腕は『魔女』の期待と共にあの時代に置き去りで、アルデバランは手を伸ばせなかった。

代わりに――、

「――アル」

その場の、全員の注目を集めた男が自分を見つめ、呼んだのが聞こえた。

その黒瞳に宿した感情が、アルデバランさえも、できるなら救いたいとでも思っていそうなそのナツキ・スバルの色が、一番、一番、一番――、

「大嫌いだ、クソお――」

――鎖の音が、した。

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――愛してる。