軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十八幕 魔除けの聖女の心臓

アンジェリーナは目的もなく走った。

大通りから細い道を抜けた先へと。気がつけば、知らない場所に立っている。

「……完全に迷子だ」

認めたくないけれど、これは帰れない。

アンジェリーナは周囲を見回して頭を抱える。まずは落ち着こうと水路の脇にあるベンチに座った。時刻はもう日は落ちかけて、間もなく夕刻に差しかかる頃だ。

座って落ち着いた途端、アンジェリーナの脳裏にジルベルトの背中が浮かぶ。こうして一人静かに考えてみると後悔ばかりだった。

「ダメだな、私は。強くなんてなれない」

そもそもアンジェリーナはジルベルトの顔を見ていなかった。話もしていないのにダメだと思い込んで、ここまで逃げてしまった。

こんなふうに逃げては、また大事なものを失ってしまうかもしれない。わかってはいても、失うと想像しただけでも耐えきれなかった。

固く拳を握ってアンジェリーナはうつむいた。

「……あら?」

頭上から影が落ちて、アンジェリーナは顔を上げた。

目の前にいるのは赤褐色の髪をしたとても美しい女性だった。彼女は日傘を畳んで、ふわっと笑った。笑うとほんの少しだけ垂れた目元が愛らしい。

どこかで見かけた記憶はあるけれど、どこだろう。

女性は優しく笑って、ふたたび口を開いた。

「先日、特別席でオペラを鑑賞いただいたお嬢様ではないですか?」

「えっ、その声は!」

こんな特徴的な声は二つとない。アンジェリーナは声を聞いただけで、相手が誰かわかってしまう。

声の主は、スカートの端をつまむとアンジェリーナに小さく礼をした。

「突然、声をかけてごめんなさい。あらためてご挨拶させてください。歌姫セイレーン、本名はヘレネと申します。その節はご来場いただき、ありがとうございました」

「アンジェリーナと申します。すぐにわからなくてすみません。申し訳ないのですが……歌姫のときのイメージとずいぶん違いますね」

「うふふ、よく言われますわ」

あの日に見せた妖艶さはなく、ほわほわと楽しそうに笑う彼女の姿にアンジェリーナは呆然とした。すると彼女は首をかしげる。

「こんな大通りから外れたような場所でどうされたのです、お連れの方は?」

その言葉にいろいろ思い出して、アンジェリーナの顔に影が差した。

「ちょっとその、一方的に置いてきてしまったというか」

「まあ、喧嘩でもなさったのですか⁉︎」

「喧嘩にもなっていないのです。相手の気持ちを確かめもせずにダメだと思い込んで、逃げ出してしまったという感じで。今、とても後悔しているところです」

「それは……、よろしければお隣に座っても?」

「はいもちろんです」

驚いた顔をした彼女はアンジェリーナの隣に座った。そして真剣な眼差しで、アンジェリーナのほうへと体の向きを変える。

「事情を詳しくはお聞きしません。ですが、その代わりに少しだけ私の話をさせていただいてもよろしいかしら?」

「あ、はい。もちろんです!」

アンジェリーナがうなずくと、途端にヘレネの柔らかな雰囲気が薄れた。

「私、今は平民ですが以前は伯爵家の令嬢でした。噂は聞いていらっしゃる?」

「はい、少しですが」

「でしたら話が早いわ。貴族の令嬢だったころ、私には婚約者がいました。身分は高くありませんが真面目な優しい人で、私は彼を心から愛していたのです」

相手は子爵家の次男で婿入り先を探していた。お見合いでヘレネと出会い、すぐにヘレネは恋に落ちたという。

しあわせそうに笑った彼女の顔に、暗い影が落ちる。

「ところが家は没落し、家族は離散。当然婚約はなかったことになりました。ですが彼も私と同じくらい愛してくれていると思っていたので、このまま添い遂げてくれるものと夢見ていたのです。ですが彼は、すぐに別の貴族女性の手を取った」

「それは……」

「貴族ならば当然のことですわ。平民の女性と、貴族の男性が結ばれても許されるのはオペラの中だけです」

そうつぶやいてヘレネは自嘲するように小さな笑い声を立てる。けれど笑っているはずなのに、アンジェリーナには彼女の顔が泣いているように見えた。

「私が愚かでした。彼は悪くないのに裏切られたような気がして……。ただただ毎日、泣いて暮らしていたものです」

当時の自分を思い出したのか、ヘレネはわずかに痛みを覚えた胸に手を当てる。やがて深く息を吐くと微笑みながら顔を上げた。

「すべてを失ったような私ですが、それでもこの声は残っていました。今こうしてここにいるのは、私の歌を楽しみにしてくれていた人達が手を差し伸べてくれたからです。絶望から救い出してくれた友人や支援者の皆さんには感謝しかありません」

ふたたび立ち上がった者の自信。迷いのない眼差しをアンジェリーナはうらやましいと思った。ヘレネはアンジェリーナと視線を合わせる。

「順風満帆なときに大事なものは見えないのです。苦難にぶつかることで、ようやく見えてくるものがある。人生につまずいた出来事は、私にそれを教えてくれました」

アンジェリーナの固く握った手に、ヘレネはそっと手を添える。冷え切った手に触れた触れた彼女の手の温かさに、アンジェリーナはなぜか泣きそうになった。

「嵐が過ぎ去って、それでも失わず手元に残ったものこそ守る価値がある。今のあなたにとって、大事なものは何でしょう?」

そう言われて、アンジェリーナの脳裏に浮かぶのは一人しかいなかった。

ヘレネはアンジェリーナの顔を見て、ふふっと笑った。

「もう大丈夫ですわね。では最後に一つ、助言させていただきますわ。その心にたまった言いたいことを全部、お相手の方におっしゃってしまいなさい!」

たまっていたものを吐き出すように、ふわっとした雰囲気は完全に霧散して、ヘレネは一気にまくしたてた。

「私の婚約者は何も言わずに去ることが優しさだと思っていたようですが、いくらなんでも薄情じゃないですか。話してくれたら私だって引きずることもなかったでしょうし、いまさらお相手との関係を邪魔なんてしませんよ。むしろ好きすぎて邪魔されると困るからと黙っていたのだとすれば、そっちのほうが不本意ですわ!」

「たしかに、それはそうですね!」

「そしてそれは私自身にも言えることです。あんなふうに引きずるくらいなら相手に言いたいこと全部をぶつけてしまえばよかった。機会は失われて、私はもう言葉にすることはできませんが、あなたはまだ間に合います」

不意を突かれて、アンジェリーナは黙り込む。

ヘレネは励ますように微笑んだ。

「大丈夫ですよ、アンジェリーナさんだけではありません。誰もが言葉足らずなんです。相手を尊重するのなら黙るのではなく、まずは話すことです。わかりますか!」

どういうわけか最後の一言がアンジェリーナを通り越して、ずいぶんと遠くに飛んでいった。不思議に思ってアンジェリーナが振り向くと、言葉が飛んでいった先には気まずそうな顔をしたジルベルトがいる。

顔を見た途端、アンジェリーナの心拍数が一気にはね上がった。

「では私は退散しますわね。お二人で、じっくりとお話しくださいませ」

スッキリとした顔のヘレネは立ち上がりかけて、ふと思い出したかのようにアンジェリーナの耳元へと顔を寄せる。

「ラグイアーナ王国を騒がせるセイレーンに会いたければ、アルメタニアの森に行ってみてください」

「え?」

「あの子も、そこで待っていると思います」

二人の秘密とばかりに指先を唇に添えて微笑むと、ヘレネはベンチから完全に立ち上がった。あわててアンジェリーナが立ち上がると、目を離したのはほんの一瞬のことなのに、彼女の姿は目の前から煙のように消えていた。

「え、いない⁉︎」

「すぐそこにある路地を曲がっただけだ。ラグイアーナ王国にはこういう迷路みたいな場所が多い」

すぐ近くから冷静なジルベルトの声がして、アンジェリーナの心臓がさらに大きく音を立てる。ぎゅっと拳を握ってアンジェリーナは振り向いた。

ジルベルトの額には汗が浮かんでいる。呼吸は荒く、それだけで急いで走ってきたことがわかった。

普段は見せない冷静さを欠いたような彼の姿。急いで探しに来てくれたことがわかるからアンジェリーナも冷静になって話そうとしたのだ、本当は。

でも気づいたときには、頭よりも先にアンジェリーナの感情が動いた。

「何、あっさり抱きつかれているんです?」

結果、口から不機嫌丸出しの声が出た。

ジルベルトは目を見開いて固まる。追い込むように、アンジェリーナはさらに言葉を重ねた。

「特務部隊の方に教えてもらいましたけれど、騎士は護衛対象に女性が多いから、抱きつかれてもいきなりぶっ飛ばさないように訓練されているそうですね。そんなことはわかってますけど、護身術どこいったのかなぁって」

自分でも驚くくらいに、地を這うような低い声だ。

アンジェリーナは鋭い眼差しでジルベルトをにらみつける。

「隙がありすぎなんですよ。それとも押しに負けて、絆されたのですか?」

「違う!」

すぐさまジルベルトは否定した。強い言葉で、アンジェリーナの言葉にかぶせるようにして叫んだ。

「声に支配されていないから、アンジュを探してここまで来たんだ!」

アンジュという愛称を迷わず口にした、そのことが余計胸に刺さる。

魅入られていないのか、それなら……なおさら。

こぶしを握りしめて、アンジェリーナは声を張り上げた。

「だったら、なんであの人に手を伸ばしたのですか!」

「手?」

「肩に触れようとしたでしょう。この手で、あの人に!」

勢いのままに、アンジェリーナはジルベルトの手をつかんだ。

ハッとした顔で、ジルベルトはアンジェリーナの手を握り返す。アンジェリーナは握ったジルベルトの手を強くつかんで、声を震わせた。

「この手が触れるのは、私でしょう?」

「アンジュ」

「操られていないのなら、なんでこの手に触れるのが私ではないの!」

わがままだ、子供みたいな。でも取られたくないし、譲るなんて絶対に嫌だ。

アンジェリーナは反対の手でジルベルトの礼服をつかむと自分のほうに強く引いた。顔を見て、思いをそのまま言葉にしてぶつける。

「逃げるなというのなら、不安にさせないでよ!」

――――今のあなたにとって、大事なものは何でしょう?

アンジェリーナにとって、今も変わらず大切なのはジルベルトだ。そばにいてという願いが叶ったら今度は、誰にも奪われたくないと願うほどに。

アンジェリーナの震える声が、ジルベルトに伝わる。

「……こんなに好きにさせておいて、ずるいのはどっちよ」

ジルベルトは弾かれたように顔を上げて、無意識のうちにアンジェリーナへと手を伸ばした。握った手を握り返して、反対の手で慎重に髪へと触れて。嫌がらないのを確認するとそのまま引き寄せるように腕の中に閉じ込める。

アンジェリーナの体温が礼服越しに伝わって、ジルベルトは安心したように息を吐いた。

「すまない、不安にさせて」

「本当よ、許さないわ」

「もう不安にはさせない。だからそばにいてくれないか、お願いだ」

許すか、許さないか。

アンジェリーナは無言のままジルベルトを見上げる。揺れる銀の瞳と目が合った。乞い願うようなジルベルトの眼差し。不本意だけれど、アンジェリーナはこの瞳に弱いという自覚があった。

とにかく落ち着こうと、アンジェリーナは深々と息を吐く。

「そういえば第一王女殿下はどうしたのです?」

「傷害の現行犯で衛兵に突き出した」

「……はい?」

想定外の言葉が返ってきて、アンジェリーナは固まった。

たっぷり時間をかけて、ようやく脳が理解する。理解した途端、真っ青になって思わず声を震わせた。

「ちょっと、だ、大丈夫なんですか。一国の王女にそんなことをして!」

「大丈夫だ、あとで何とかする」

「あとで何とかって……どうしたんです、計画性の欠片もないじゃないですか!」

「考えるより先に体が動いた。後ろ姿が見えて、アンジュに逃げられたくないと思ったから。はじめてだったな、頭よりも心が先に動くなんて」

真剣な顔で答えたジルベルトにアンジェリーナは返す言葉を失った。

思えば、言葉よりも先に心が動いたのは自分も同じ。

そうと気がついてアンジェリーナは眉を下げた。

「そういえば私もジルの言葉を聞かず、もうダメだと決めつけてしまいました」

「アンジュは悪くない。私に隙があったのはたしかだから。こうしてアンジュが無事ならもう、それでいい」

安心した顔でジルベルトはアンジェリーナの髪をなでる。いつもと変わらない手つきにほっとして、アンジェリーナは深く息を吐いた。

大事なことは、許すか、許さないかではなくアンジェリーナがどうしたいかだ。

迷った末に、アンジェリーナはジルベルトの手を握り返した。

「もう王女殿下に触れないでください、約束です」

「約束する。二度と近づかないし、触れたくもない。それに何よりも……」

ジルベルトの目元がほんの少し赤くなる。

「この手が触れるのは、とアンジュが言ったときグラッときた。執着だと思うと、うれしくて」

自分が何を言ったのか。冷静になったアンジェリーナは動揺した。

「な、なんで覚えているのですか!」

「こんな短期間で忘れるわけがないだろう。それにアンジュは心を隠すのがうまいから、感情がこぼれ落ちたような言葉を聞くと安心する」

しあわせそうな顔でつぶやいたジルベルトにアンジェリーナは目を丸くする。それから恥ずかしそうに顔を赤くして下を向いた。

「だって取られたくなかったのよ」

「……アンジュ。そういうことを言ってくれるのはものすごくうれしいけれど、これ以上は追い込まないでくれ。もう限界だ」

それだけ言うとジルベルトは、かつて見たことがないくらいに顔を赤くする。腕の中に囲い込んだアンジェリーナと視線を合わせて、ほっと息を吐いた。

「私のほうが年上なのに、余裕がないと思われてしまうかもしれないけれど――――ようやくアンジュの心に手が届いた気がする」

ジルベルトの言葉にアンジェリーナの心臓が大きく音を立てた。

恥ずかしいやら、くやしいやら。うまく言葉にできなくても、せめて文句の一つくらいは言いたい。

「だからね、その言い方がずるいの」

「文句なら全部聞く。いや、もっと聞かせてほしい」

逃げ場をふさがれた。しまった、完全に捕まったみたい。

今のジルベルトにアンジェリーナはどうにも勝てる気がしなかった。

ーーーー

無事に捕獲されたアンジェリーナは、ジルベルトと手をつないで暗くなった夜の道を歩いて帰る。舟を使わないのは、日が暮れると視界が悪くなって危ないからだそうだ。並んで歩きながら、アンジェリーナはふと思い出した疑問を口にする。

「そういえば王女殿下はジルに呪い薬を飲ませたと言いました。それなのになぜ効かなかったのでしょうね?」

「そもそもの話だ。私はテオドーロの邸宅で飲み物すら口にしていない。信用できない人間の出す物を口にするわけがないだろう。王族なら、誰しもそういう教育を受けているはずだ」

きっぱりと言い切ったジルベルトにアンジェリーナは目を丸くした。

口にする物までわかっていても、実際に飲まなければ意味はない。

「そう考えると、ずいぶんと雑な計画ですね!」

「テオドーロもそうだが、王女も詰めが甘い。それでもいままで問題なく国の顔として体裁を保ってきたわけだ。つまり王家の裏側には、彼らの数々の失態を取り繕ってきた優秀な人物がいるはず」

次代にとって、頭脳とも呼ぶべき人物がいた。

一体、それは誰か?

アンジェリーナと視線を合わせて、ジルベルトはニヤリと笑った。

「実は一人だけ心当たりがあるのだが。一緒に行くか、アルメタニアの森に」

「偶然ですね、ちょうど私も行きたいと思っていたのですよ!」

ジルベルトの誘いに乗ったアンジェリーナの声は弾んでいる。

歌姫は、そこで「あの子」が待っているという。

今度こそ会えるだろうか、本物のセイレーンに。