作品タイトル不明
第十九幕 セイレーンの真実
アルメタニアの森に、記憶を呼び覚ますような歌声が響く。
アンジェリーナが歌声を追って聖なる果樹の脇に流れる小川をたどっていくと、その先には清廉な水をたたえる大きな湖があった。
「この歌声はやはりあなたのものでしたか!」
振り向いたのは赤褐色の髪をした女性だった。彼女はいつかと同じように下半身を水につけた格好で、優しい声を響かせる。
「この前、会った……たしか名前はアンジェリーナだったかしら?」
「はい、お約束もなく会いに来てしまいました――――イグレーテ様」
「イグレーテと呼び捨てでいいわ。今の身分はあなたと同じ平民だもの」
アンジェリーナは水に浸かる彼女の少し後ろに座って膝を抱えた。イグレーテは湖から上がると、濡れたスカートはそのままにして荷物を置いていた場所から布を取ると足や手を拭いていく。水から上がった全身を確認したアンジェリーナは、ほんの少しだけ気まずい顔をした。
「しっかり人間の足ですねー」
「何を想像していたか、よくわかる台詞だわ」
「あはは、すみません!」
イグレーテは冷たく見える端正な顔立ちに、柔らかな笑みを浮かべた。その顔は聞いていた年齢よりもずっと幼く見える。彼女はアンジェリーナの横に座るとすぐに口を開いた。
「あなたが会いに来た理由はわかるわ。あの子について、でしょう?」
「はい、ですがどうしてご存知なのです?」
「ヘレネから聞いたわ。『あなたにあの子のことを教えた』、と。きっと相談に乗ってくれるから困っていることを相談してごらんなさいともね」
あの子という存在を通じてヘレネとイグレーテはつながっていた。けれどセイレーンとの関連はわからない。アンジェリーナは首をかしげる。
「あの子というのがセイレーンでしょうか。それに悩みというのは?」
「その前に一つ聞かせて。あなたは私を助けてくれるかしら……魔除けの聖女、アンジェリーナ」
元がつくとはいえ、イグレーテは公爵令嬢だ。アンジェリーナの素性は承知しているらしい。アンジェリーナは何と答えるか考えて、迷った末にこう答えた。
「内容によります。今はそれしか言えません」
「それもそうね。では、これを見て」
するとふたたび優しい声を響かせて、イグレーテは歌った。水面が揺れると波紋が生まれる。その間、アンジェリーナは身動き一つしなかった……たとえその湖の水を揺らすのが魔物だとわかっていても。
やがて湖の底からブクブクと泡が浮いて、音を立てながら何かが湖面を割った。すると一気に魔物の全体像があらわになる。想像していたものとまったく違う姿にアンジェリーナは思わず目を見開いた。
「えっ、水棲馬――――ケルピーじゃないですか!」
ケルピーは川や湖に棲息し、水魔とも呼ばれる。
姿形は馬に似ていて、固い皮膚と頑丈なからだに、豊かなたてがみには水草が混じって生えていた。けれど下半身は鱗がついた魚の尾だ。しかも尾はアンジェリーナが水路で見た魔物とそっくり同じ。
イグレーテが手を差し出すと、ケルピーは手のひらに馬の鼻先をすりつけた。
「この子がラグイアーナ王国を騒がせた『セイレーン』の正体よ」
「そんな、まさかケルピーだとは……」
「魚のような尾を見た人がセイレーンと勘違いしたの。でも都合がいいから、噂をそのままにしておいたのよ」
セイレーンだと思っていたのに、まさか別の魔物とは想定外だった。しかもアンジェリーナの知るケルピーとはまったくの別物のようにおとなしい。
ケルピーは凶暴で気性が荒く、川辺に近づいた人間を見境なく水に引きずり込むとされていた。
赤い瞳は間違いなく魔性の証。なのにこのケルピーはあまりにもイグレーテに従順だ。
「……お、おとなしいですね」
「ええ、この子は私のお友達ですもの」
「友達?」
アンジェリーナが驚いた顔で固まると、イグレーテは小さく笑った。
「エンデ公爵家には古くから伝わる歌があるの。公爵家に生まれる女性は必ずその歌を覚えるのよ。先祖がセイレーンを救った褒美に教えてもらったとされているけれど、真実はわからないわ」
「古くから伝わる歌、きっとそれが魔唱ですね」
「魔唱という呼び方は知らないわ。公爵家ではこの湖に棲むケルピーを鎮めるために歌うと伝えられているの。領地であるアルメタニアの森が、ケルピーに荒らされることのないように守るためのものだとね」
「ちなみにケルピー以外にも効果はあるのですか?」
「いいえ。森に迷い込んだ別の魔獣に試してみたけれどまったく効かなかったわ」
「つまりケルピー限定ということですか」
対象を限定した魔寄せの力、というアンジェリーナの考え方は間違っていなかったらしい。鼻筋をなでながらイグレーテはケルピーに優しい眼差しを向ける。
「この子は頭がいいし、おとなしいときはとてもかわいいのよ。小さいころ、母に連れてきてもらったときに仲良くなってからずっと友達なの」
「お母様も歌い手だったのですね」
「もう亡くなってしまったけれどね。元気だったころの母の思い出につながるから、余計にこの子がかわいいのかもしれないわ」
しあわせそうに微笑むイグレーテの眼差しが曇った。
「けれどここ数年、ケルピーの気性が急激に荒くなったの。私の歌だけではいうことを聞かないときも増えた。そういうときはヘレネの声を借りたこともあったわ」
「ヘレネさんと?」
「ええ。声を合わせると、以前のようにおとなしくなったから。でもやはり効果は一時的なもので、最近は湖底からつながっているらしい地下水路を使って、勝手に魔物を捕りに行ってしまうのよ。ダメだって言っているのに」
「それが不規則に出没するセイレーンの目撃情報につながったわけですか!」
少し距離をつめて、アンジェリーナはケルピーの姿を観察する。すると嫌がるように、ケルピーが鼻息を荒くした。
「……完全に嫌われているわね」
「これでも一応、魔除けの聖女なので。元はつきますが」
じっくり観察すると、アンジェリーナが過去に見かけた個体よりもからだが一回り以上大きい。からだの大きさによって、当然食べる餌の量も変わる。きっと自然の魔力だけでは足りなくなって、餌となる魔物を狩りに行ったのだろう。
イグレーテは、慈しむような眼差しでケルピーのたてがみをなでる。
「逃げたこの子に歌を聞かせて呼び戻して。それを繰り返すうちに、どんどんセイレーンの噂が広がってしまったの。そんなときだった……私の婚約が破棄されたのは」
アンジェリーナは息を呑んだ。言葉を失ったようなアンジェリーナの顔を見て、イグレーテは苦笑いを浮かべる。
「安心して、そのことでは傷ついてはいないから」
「それならよかったですけれど」
「正直言って婚約が破棄されたときは、ほっとしたの。テオドーロ様を支えるためだけに整えられた婚約だもの。彼に第二王子として内政や外交ができると思う?」
「……ちょっと、それはいささか不安というか」
「いいのよ、濁さなくても。問題を起こすか、持ち帰るかの違いだもの。婚約したてのころは誰もいない部屋で毎晩泣いたわ。勉強はつらいし、テオドーロ様の後始末や公務の手伝いで寝る時間も少なかったから。この子とヘレネがいなかったら早々に壊れていたかもしれないわね」
当時の過酷な状況を思い出したように、イグレーテは遠い目をした。
「彼が面白おかしく遊んでいる間に、私は彼の仕事を代わりにこなす。父は第二王子派だから文句は言わないし、手柄は全部彼のものになった。でもそれでよかったの、彼が私に興味がないおかげで、逆にこの子といる時間が確保できたから」
「それで婚約を破棄したあとは、平民になってここへ引きこもったのですか」
「ええ、だんだんこの子がおとなしくしている時間が減ってきていた時期でもあったから都合がよかったの。そういえば、ここ数日は急に落ち着いたけれど、少し前までは人でも魔物でも見境なく襲って本当に危なかったのよ」
「じゃあ、この森で行方不明者が出たというのも?」
「迷子はちゃんと森の外まで連れて行ったわ。でも肝試しだと遊びにくる大人や第二王子の取り巻きは放置したの。いい大人だし、助ける義理も必要性も感じなかったから」
危うく水の中に引きずり込まれそうになったという男性はどっちだろうとアンジェリーナは考えた。何となく後者のような気がする。
そこまで聞いたところで、アンジェリーナは首をかしげた。
「セイレーンの正体についてはわかりました。ですが、私へのお願いというのは何でしょう?」
「あなたの力で、この子を助けてほしいの」
ためらうことなく、イグレーテは口を開いた。
「ケルピーを助ける?」
「ええ。テオドーロ様に代わって女王の聖杯の改修の手配をしたのは私よ。そのときに調べたの、あなたには魔除けという不思議な力が備わっているそうね。その力で、魔性に狂って暴走するこの子を救って」
「ちょっと待ってください。やっぱり充填部は改修していたのですか!」
聞き捨てならない言葉を耳が拾って、思わずアンジェリーナは話の途中でさえぎった。イグレーテは驚いた顔で目を丸くする。
「もちろんよ、あとは最終調整を残すのみね。実際に作業したのは研究者だけど監督と調整は私の仕事だもの、間違いないわ。ただ婚約破棄になったからそういう仕事は全部残したのよ……テオドーロ様に。そういえば、結局どうなったのかしら?」
アンジェリーナはがっくりと肩を下げた。そして女王の聖杯うっかり事件(仮称)を包み隠さず全部話した。すると彼女は申し訳なさそうな顔で眉を下げる。
「ごめんなさい、国の暴走を止められなくて」
「いいえ、婚約破棄後のことです。イグレーテは悪くないですよ!」
「そういえばあなたも婚約破棄された仲間だったわね」
「はい。破棄される前も破棄された後もひどい目にあったので全面的に協力します」
アンジェリーナは一度やると決めたらとことん遠慮はしない主義だ。
手を差し出すと、ほっとした顔でイグレーテは手を握り返す。
「ただ、魔除けの力は魔のつくものを排除する力です。荒ぶるケルピーをおとなしくさせるものではありません。ですからそれができそうな存在をご紹介します!」
良い笑顔を浮かべたアンジェリーナの指先が湖につながる小川の先を指した。
「精霊様です!」
「……は、精霊? 本当にいるの、だって伝説の存在よ?」
「はい、いらっしゃいますよ。今も聖なる果樹に棲んでいらっしゃいます」
理解不能という顔で言葉を失ったイグレーテに、アンジェリーナは指折り数えた。
「証拠として、アルメタニア果樹園に聖なる果樹があるからラグイアーナ王国に魔獣や魔物が定着しないと昔から言われていることです。精霊様には魔のつくものを抑制する力が備わっている。以前、ケルピーが従順だったというのはその効果もあったからでしょう」
それから、もう一つ。アンジェリーナは指を折った。
「ここ数日、ケルピーがおとなしかったと聞きました。実は少し前に精霊様を浄化したのですよ。力を取り戻したので徐々に効果が戻っているのかもしれませんね」
「それ、もしかしてこの前に聖なる果樹の近くで会った日のこと?」
「はいそうです!」
覚悟を決めた顔でイグレーテは立ち上がった。
「ならば疑う余地はないわね。すぐに行きましょう」