作品タイトル不明
10◇あなたを愛すること01
春。暖かな日差しの下命が芽吹き、目に映るものすべてが色鮮やかな季節。
「ラウラ様、こちらどうしましょうか? 運んでいる間に溶けてしまうかと」
ラダに見せられたのは、一粒だけビンに取り残されたレモンの飴だった。
「今食べきっちゃうわ。ビンは洗ってもらえる?」
セルゲイに貰った飴をつまみ、口の中に放り込んだ。飴をころころと転がせば、昨日教会に離婚届を提出したセルゲイの横顔が脳裏をよぎる。
ガリッ
歯に悪いと知りながら、ラウラは飴をかみ砕いた。あと半刻もすれば、ラウラはこの慣れた屋敷を後にする。
開けた窓から吹いた風が、ラウラの亜麻色の髪の毛を流した。
そんなに多くない荷物を馬車に積み込んだラウラは、お見送りに来たセルゲイや屋敷の皆、ツェツィーリヤに別れを告げていた。
イヴァンはラウラを無事にクロウ家に送り届けるため、一足早く馬車に乗っている。
「ラダ、マーニャ、私によく仕えてくれてありがとう」
「いえ、これからもラウラ様のお幸せを願っております」
「さ、寂しいですぅ……」
マーニャはボロボロと涙を零していた。ラダは毅然とした態度だが、よく見ると目の周りが赤い。
他のメイドに、執事、庭師、それからシェフに挨拶をする。
「ラウラ様、クッキーでございます。よろしければ旅のお供に」
「ありがとうイオシフ。最後にまたあなたのご飯が食べれるなんて嬉しいわ」
ツェツィーリヤには、ぎゅぅと抱きしめられた。
「困ったことがあったらすぐにわたくしに言いなさい。飛んでくるわ」
「んふふ、力強いです」
最後は――セルゲイ。
もう他人に戻った彼をそっと見上げる。
「一年間、ご苦労だった」
「今までありがとうございました」
形式的な言葉に苦笑してから。少し屈んで。セルゲイを手招きした。
素直に膝を曲げ、同じ目線になったセルゲイの頬を両手で挟む。
「セルゲイ様、愛しています」
最大限の笑顔で、最大限の愛の言葉を。
ちゅ、唇をセルゲイのそれに重ねた。彼の顔が更に赤く染まり、今にも倒れてしまいそうだ。
「な、な……」
ふらふらと後ずさるセルゲイにはにかんだ。
「セルゲイ様、実は私たち、毎日こうしてキスをしていたんですよ」
呆気にとられ固まる皆に手を振ってから、ラウラは軽やかに馬車に乗り込んだ。
これまた口をぽかんと開けているイヴァンを横目に、御者に指示を飛ばす。
「行って!!」
馬がいななき、馬車は走り出した。屋敷はどんどん小さくなっていき、門を抜けたころでは、本邸が邪魔をして離れの屋敷は頭すら見えなくなっていた。
そこらでようやくイヴァンの石化が解ける。
「ラウラ様、なぜキスなんて……それにあんなう、そ――」
責めるようなイヴァンの言葉が途中で小さくなって途切れた。小さなすすり泣く声に気づいたからだ。
外に姿が見えないように、ラウラは体を小さくし顔を手で覆う。
イヴァンはさっと窓に目をやり、淑女の涙をなかったことにした。貴族の端くれである彼は、これは自分が見てはいけないものだとすぐに理解したのだ。だからここに、とっておきの涙なんてない。
「――……だって、明日になれば、忘れて、しまうもの……っ! なにも、覚えていないんだもの!」
ラウラの愛しているの言葉も。とびっきりの嘘も。ファーストキスも。
ひきつれた嗚咽を上げ、ラウラは何度も、己を納得させるように言い続ける。
「忘れてしまうんだもの……」
慰めの言葉はなく、それが心地よかった。だってイヴァンは覚えられている側だから。
酷い言葉を投げつけたくはなかった。
(さようなら、セルゲイ様)
――さようなら、セルゲイ様の記憶にある私。
◇◇◇
道中は特に困ったことも起こらず、クロウ家の前で降りる。
なんだか以前より活気がない気がした。イヴァンと別れてから、屋敷に入る。
「おお! おかえりラウラ」
「よく帰って来たわね」
「なんだか前より美しくなったんじゃないか?」
父と母、そしてニコライが不気味なくらいの笑顔で出迎えてくれた。特にニコライはラウラの体をなめ回すように見つめてきて、うすら寒い心地になる。
汗が流れた。
「……アリーナはいないんですか?」
「あぁそうだったな、今会いに行こう」
そのまま連れていかれる。
(風邪でも引いたのかしら……?)
とある部屋の前まで連れてこられた。
「ここにアリーナが?」
「そうだ」
最近では使用していなかったと記憶している部屋に? 不思議に思いながら扉を開ければ、後ろから突き飛ばされた。
倒れ込めば、そのまま勢いをつけ扉は閉められる。
慌てて扉を叩くがびくともしない。
「どういうつもりですか?!」
「――お前には三日後、ニコライ君と結婚してもらう」
「え?」
父の台詞を上手く咀嚼できない。
ニコライの声が次に聞こえてきた。
「アリーナなんだが、婚約を結んでからも男遊びが酷かったんだよ! 俺が可哀そうだろ? あいつ、結婚にも嫌がってさ。ついには庭師と駆け落ちしたんだ。……そこで崖から落ちて死んだよ」
アリーナが亡くなった。急に言われ頭が真っ白になる。
母が明るい声を出した。
「でもラウラちゃんが帰ってきてくれてよかったわ。これで予定通り結婚式が挙げられるもの」
(――この人たちは、狂ってる)
アリーナが死んだというのに、声に悲しさなんて微塵も滲んでいない。彼らにとって、アリーナとは愛玩動物に近かったのだろう。ほんの少し、亡くなった妹に同情してしまった。
両親の愛情を一身に受け、憎くなかったと言えば噓になる。けれど死んでほしいなんて一回も思ったことはなかった。
「やっぱり俺に見合うのは従順なラウラだけだよ。よろしく。妹みたいに逃げようとかは考えるんじゃないぞ」
釘を刺される。ラウラはその場にへたり込んだ。
どうせ、これから先どうにかしようなんて考えがあるわけではなかった。
最初妹に婚約者を奪われた時と同じ。誰に嫁いだって、セルゲイ以外は皆同じなのだから。
「もう、どうでもいい」
膝を抱えて、ラウラは目を閉じた。
寝てしまっていたと気づいたのは、扉を叩かれる音がした時だった。
「お嬢様、夕食をお届けにまいりました」
よく知った声だった。
扉が開いた先に立っていた人物に感嘆の声を漏らす。
「ポリーナ!」
この屋敷にいた頃。両親からの愛情に飢えていたラウラを母のように愛してくれたのがポリーナだった。目に涙を溜める彼女に抱きしめられる。
「もう大丈夫ですからね。外に馬車を待機させております。お嬢様はお逃げください」
「そんな……私を逃がしたことがバレたら、あなたたちがただではすまないわ」
「優しいお嬢様。私どものことはお気になさらず」
ふるふると首を横に振るう。
「もう、いいのよ。……それに、結婚したらまた毎日あなたと会えるでしょう?」
「お嬢様……」
「ご飯ありがとう。帰るのが遅くなるとお父様たちが勘ぐるかもしれないわ。帰りなさい」
ポリーナは涙を流しながら、何度も何度も謝った。
また一人になったラウラは、運ばれてきた食事を食べる。
チキンが入ったクリームシチューは温かく、パンも柔らかかった。食べたら、少しだけ気がまぎれる。
窓は外側から木の板が打ち付けられていた。月を望むことすらできない。
食べ終えたラウラは天に向け指を組む。
「アリーナ、どうか安らかに」
笑顔のかわいいラウラの妹。彼女のことは好きになれない。多分、ずっと嫌いなままだ。けれどアリーナが死んで、彼女を愚弄するようなことを平然と話す彼らみたいにはなりたくなかった。
三日後の朝。ポリーナや他のメイドによってウエディングドレス姿に着替えさせられていた。
(初めて着るのがここでなんて……)
はぁ、ため息をついた。
そこでメイドの一人が入ってくる。
「お嬢様にお客様です」
「お客様……??」
「――わたくしよ」
堂々と入ってきたのはツェツィーリヤだった。花束を持ちながら、こちらに近づいてくる。
「花を供えた帰りに寄ったら結婚式をするなんて言うから驚いたわ」
「? 花、持ってるじゃないですか」
指摘すれば、
「持ち帰って来たのよ。枯れるまでを見せるのはかわいそうじゃない。それでもほしいなら、自分で取りにくればいいんだわ」
ツェツィーリヤはそっと目を伏せた。
メイドたちは気を遣ってか、席を外してくれている。もしかしたら、突然の来訪者がどうにかしてくれるのを願っているのかもしれない。
「でもよくお父様たちが入ることを許しましたね」
「これよ」
ツェツィーリヤが、親指と人差し指で輪っかを作った。あぁ、と納得する。
じっと視線が合う。
「ちなみにラウラの結婚式にも参列するわよ」
「えぇっ、そんなのよくお父様が――」
(あれ、なんかこの流れ繰り返してる?)
ラウラの予想通り、ツェツィーリヤはもう一度輪っかを作った。
ツェツィーリヤがずいっと顔を近づけた。
「そういえばわたくしの従兄弟、人を捜しているらしいのよ。覚えがあったら教えてくれないかしら。えぇっと、『亜麻色の髪でぱやぱやした雰囲気の、レモンの味がする女性』だったかしら」
「……ちょっと記憶にありませんね」
「残念。毎日毎日捜しまわっているから、力になれたらと思ったのだけど。凄いのよ。わたくしの従兄弟は記憶力がすごーく悪いのに、その女性のことは毎日思い出しているの、名前はまったくなようだけどね」
セルゲイが、自分を捜している? 記憶がリセットされるはずの彼がどうして?
奇跡でも起こったと言うことなのか。それとも、奇跡は必然として既に足跡を残していたのか。
考えが上手くまとまらない。頭が痛くなっていると、ツェツィーリヤの凛とした声が柔らかく包んでくれた。
「わたくしの婚約者、ミシェラ王国の人だったのよ。だからわたくしに婚約破棄を突き付けて、戦争に赴いてしまったの。ミシェラ王国の人間として。わたくしは、彼の無事を願う言葉すら阻まれた。……ずっと、いろんな後悔があるわ」
ラウラは後悔しないようにね、それだけ告げて、ツェツィーリヤは去っていった。
入れ違うように、落胆した表情を隠しきれないポリーナたちが帰って来た。
ヴェールが降りる。結婚式が始まる。
ラウラは一人、クロウ家からほど近い教会の扉の前で出番を待つ。
考えるのは、セルゲイのことばかり。
確かに今思えば、おかしなところはあった。セルゲイのお菓子のアンコール。
『白くて甘いホニョホニョしたの』なんて曖昧な言い方だが、覚えていなければこうはできないだろう。つまり彼は、すべてを忘れてしまうわけではない。必死にほつれた糸を手繰り寄せ、セルゲイは繋ぎ続けていた。
きっとそれが、大切な記憶だったから。
そのことに気づけたはずだった。気づかないフリをしたのかもしれない。
イヴァンに離婚してほしいと乞われた時も、両親にニコライとの結婚を無理矢理挙行されている今も。
ラウラは、自分で考えて自分で折り合いをつけて、自分でその運命を選んだ。その人の言葉に身を委ね、なにも考えないで従うなんて器用なことはできなかった。これがかわいげがないの発端だったのかもしれない。
だから離婚までの一か月間、セルゲイの言葉を拒んで逃げ続けた。ラウラをかわいいと言う彼に、なにも考えず抱き着いてしまっただろうから。
ラウラはよく考えた。
結果、このまま結婚式を挙げることにした。きっと記憶なんて一過性で、何回か眠れば皆、いろんな記憶をこぼしていく。セルゲイはそれが人より多くて早いだけだ。
同じように、ラウラもこの胸に抱える恋心なんて、すぐ忘れていく。
そういうものなのだ。結局。
入場の合図がかかる。事前に言われていた通り、ラウラは穏やかにバージンロードを歩きだした。