作品タイトル不明
第七話 あなたなら、平気でしょう
ハーゲン侯爵家に、こんな日が来るとは、思いもしなんだ。
わしは当主として、家名だけは守ってきたつもりだった。銀星商会の出資の話が来たとき、儲かるなら細かいことはよい、と判を押した。中身など、確かめなんだ。確かめる必要を、感じなんだ。商人が儲け、わしも儲ける。それの、どこが悪い。
王宮の調査が入り、出入りの商人が、潮の引くように消えていった。社交の招きが途絶え、玄関の呼び鈴が、鳴らぬ日が続く。家令が青い顔で、取引先からの催促状の束を運んでくる。「知らなかった」という言葉が、これほど無力だとは、知らなんだ。
家が傾く音は、思いのほか、静かなものだった。
そんな折に、クラウスが倒れた。
医者を呼んで、わしは耳を疑った。あれは何年も、銀星商会の、あの薬を飲み続けておったという。近衛の務めで夜が遅い、疲れが取れぬ、一粒飲めばしゃきりとする――そう言って、わしらに隠れて、常用しておったのだ。
「貴族には関わりない」と笑っておった、その当の薬で、わしの跡継ぎの心の臓は、もう限界まで、鞭を打たれていた。
医者は、匙を投げかけた。
「夾竹桃の中毒に、確かな解毒の手順を組める者は、王都に一人しかおりません。それも、王宮が召し抱えたばかりの――」
その名を聞いて、わしは、天を仰いだ。ユーフェミア・フォン・エルンスト。せがれが、自分の手で、放した娘だ。
恥を忍んで、わしは筆を執った。便箋が、汗か、それとも別のもので、滲んだ。
◇
侯爵家からの手紙は、文字が所々、滲んでいた。
息子の命に関わる、どうか来てほしい、と。差出人は、侯爵その人。私を顎で使い、名すら呼ばなかった家の当主が、頭を下げて寄越した文だった。
行くべきか、私はしばらく、薬研の前で考えた。
私情なら、行かない。けれど、目の前に毒で苦しむ患者がいるのなら――それを見捨てるのは、薬師の私が、私でなくなることだ。情で動くのではない。私が、私であるために、行く。
アルヴィス様に断りを入れると、彼は何も問わず、馬車を出してくれた。
「君の決めたことだ。供をつける。終わったら、帰っておいで」
帰っておいで、と。帰る場所がある人の声で、彼は言った。その一言を懐に、私は王都へ向かう。
◇
久しぶりに見るクラウス様は、別人のように痩せていた。
寝台の上で、胸を押さえ、浅く喘いでいる。脈を取る。速い。あの北の村の農夫たちと、寸分違わぬ脈だ。
「ユフィ……来て、くれたのか」
掠れた声が、私の名を呼んだ。
「お前の薬でないと、効かないんだ。前みたいに……頼む。また、俺を、治してくれ」
彼の指が、縋るように、私の袖を探した。
私は、静かに袖を引いた。代わりに卓へ紙を広げ、筆を取る。解毒の手順を、匙の量まで違えず、書き記していく。薬を断つこと。利尿の草を、いつ、どれだけ。弱った鼓動を支える煎じ薬を、何刻おきに。順序を守れば、医者が一人いれば、これで救える。
書き終えた紙を、傍らの医者へ手渡した。
「この通りに煎じてください。薬を断ち、順に与えれば、命は取り留めます」
クラウス様の目が、私を追った。なぜ、お前の手で、ではないのか――そう問う、すがるような眼差し。
私は、寝台の脇に、膝をつかなかった。
「私は、もうあなたの薬師ではありません。婚約も、献身も、あの熱の夜に、すべてお返ししました」
「ユフィ、待ってくれ。俺は……俺は、悪気は」
「ええ。あなたに悪気がなかったことは、存じています。悪気がないまま、人を後回しにできる。それが、いちばん、応えました」
彼の喉が、ひゅっと鳴った。
「あなたは、私に幾度も仰いましたね。――君なら平気だろう、と」
寝室が、静まり返る。
「ですから、お返しします。あなたなら、平気でしょう」
声を荒げはしなかった。あの夜、彼が私に向けたのと、同じ抑揚で。同じ温度で、同じ言葉を。
紙の上には、命を繋ぐ術が、確かに書いてある。私は背を向け、薬箱の蓋を閉じた。革の留め具が、ぱちりと、小さな音を立てる。
その音が、七年の終わりだった。
廊下に出ると、侯爵が、壁に手をついて立っていた。かつて私を見下ろした人が、今は、背を丸めている。私は深く一礼だけして、玄関へ歩いた。引き留める声は、なかった。引き留めるだけの手柄を、この家は、もう持っていなかった。
馬車に乗り込むと、外はよく晴れていた。公爵領へ続く道が、まっすぐに伸びている。
帰っておいで、と言ってくれた人の、もとへ。