作品タイトル不明
第六話 失われた手柄
俺は、自分が悪いことをしたとは、思っていない。
ユフィが屋敷を出てから、何もかもが、少しずつ狂い始めた。
風邪の引き始めに飲んでいた薬が、戸棚から消えていた。指を切っても、ちょうどいい軟膏が見つからない。夜、寝つけずに天井を見上げる。眠りを助けてくれた、あの安神の匂いの香袋も、もう、どこにもなかった。
「ユフィの薬でないと効かない」と笑っていた頃が、急に、遠い。あれは冗談のつもりだった。が、冗談でなかったらしいと、今になって気づく。
ミレーユは可愛い。可愛いが、薬の調合はできない。俺が熱を出すと、おろおろと額に手を当てて、「わたし、こういうの弱いから」と眉を下げるだけだ。粥の炊き方も知らない。それを責める気はない。彼女はそういう娘で、俺は、そこが可愛いと思ったのだから。
ただ、夜中に一人で水を汲みに立つたび、誰かの淹れた薬湯の匂いを、ふと、思い出す。
――そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥で、小さな石が、ごろりと転がった。
近衛の同僚が、噂を口にした。公爵領の毒薬騒ぎを鎮めた薬師が、王宮に召されるらしい。エルンスト子爵家の令嬢で、たいそうな腕だと。
俺の、元婚約者だと。
「お前、惜しいことをしたなあ」と肩を叩かれて、俺は曖昧に頷いた。惜しい、という言葉が、その夜、妙に喉に引っかかって、いつまでも取れない。悪気は、なかった。ただ、彼女ならいつまでも、そこにいてくれると思っていた。それの、何が悪いというのか。
問いに答える声は、どこからも、返ってこなかった。
◇
王宮の大広間に立つのは、生まれて初めてだった。
私は薬師として、毒薬の一件を、陛下の御前で説いた。夾竹桃の混入、心の臓への害、解毒の手順。声が震えないよう、調合のときと同じに、息を整えて、言葉をひとつずつ置いていく。
「市井の薬一粒の異変を、半日で見抜いたと聞く」陛下は深く頷かれた。「其方のような目があれば、まだ救える命がある。これより、王立の毒物検めを、其方に任せたい」
褒められることに、私はやはり、慣れない。けれど今度は、頬が熱くなるより先に、まっすぐ頭を下げることができた。膝が、震えなかった。
広間の隅に、見知った顔があった。クラウス様だ。近衛の列に混じり、こちらを見ている。目が合った。彼は何か言いたげに口を開きかけ、結局、視線を床へ落とす。
七年、私が見上げ続けた人が、今は、私を見上げていた。
不思議と、何の感慨も湧かない。憎しみも、未練も。ただ、知らない人を見るように、私は彼から、目を戻した。
◇
評定が動いたのは、その直後だった。
毒薬を流した銀星商会の背後に、出資した貴族がいる。陛下の命で、その名が、一つずつ洗い出されていく。名簿の筆頭近くに、ハーゲン侯爵家。
王宮の廊下が、ざわめいた。
侯爵家は、毒と知らず利を得ていただけだと、釈明するだろう。けれど「知らなかった」は、薬を扱う者の世界では、罪と同じ重さを持つ。中身を確かめずに人へ渡したのなら、その手は、もう、清くはない。
調査の沙汰が、ハーゲン侯爵家に下った。
その報せを廊下で聞いたとき、私は足を止めなかった。蒔かれた種が、芽吹いただけのこと。私が水をやったわけではない。ただ、もう――誰かの代わりに、その芽を摘んでやる手を、私は持っていない。それだけのことだった。
窓の外、王都の空は、よく晴れていた。