作品タイトル不明
第五話 名簿の中の名
朝の調合室は、煎じ薬の匂いで濁っていた。
夜通し、運ばれてくる患者の脈を取り続けた。症状は、どれも同じ。胸の高鳴り、めまい、幾日かののちの卒倒。枕元には決まって、銀星商会の薬包が転がっている。安くてよく効くと信じて、皆、毒を飲んでいた。
私は解毒の処方を組んだ。夾竹桃の毒は、心の臓を鞭打つ。打たれ続けた臓は、急に鞭を取り上げると、今度は止まりかける。だから、順序が要る。まず薬を断たせ、利尿の草で毒を流し、弱った鼓動を支える煎じ薬を、ごく少量ずつ。匙の量を違えれば、助けるはずの薬が、刃に変わる。
指先の震えを、息を止めて抑え込む。一人分を煎じ終えるたび、額の汗を腕で拭った。ハンナが新しい湯を運び、汚れた器を下げ、まどろむ間もなく、次の患者の名を告げる。
三日目の朝、最初に倒れた農夫が、粥を口にした。
「胸の、早鐘が……止まりました。先生」
その一言を聞いたとき、私はようやく、椅子に深く背を預けた。窓の外で、麦の穂が朝風に揺れている。助かるのは見知らぬ誰か――そう思っていた人たちの顔が、今は一人ずつ、名前を持って見えた。
昼過ぎ、五つばかりの女の子が、母親に背負われて運ばれてきた。唇が紫がかり、小さな胸が、痛ましいほど速く上下している。母親は、安くてよく効くと聞いて、子にもあの薬を飲ませてしまったと、震える声で繰り返した。
私は匙の先で、薄めた煎じ薬を、ひと匙ずつ、根気よく含ませた。半日、付きっきりで脈を見守る。速さが、少しずつ和らいでいく。夕暮れ、女の子は薄く目を開け、母親の指を、弱く握り返した。
母親が、私の手を取って額に押しいただいた。言葉にならない声で、何度も、頭を下げる。
礼を言われることに、私はまだ慣れない。けれど、その手のひらの熱さだけは、たしかに胸の奥へ残った。誰かの娘が、明日も母を呼べる。私の半日には、それだけの意味があった。
◇
アルヴィス様が調合室に来たのは、その日の午後だった。
「君の処方で、北の村の死者が止まった。礼を言う」
「毒を見つけたのは私ですが、配ったのは商会です。私は、止めたにすぎません」
「いや」彼は窓辺に立ち、外を見たまま続けた。「私は最初、医者の見立てを信じた。流行り病だと。安い薬を、もっと配れと命じるところだった。君が来なければ、私はこの手で、毒を村じゅうに撒いていた」
公爵が、自らの過ちを口にした。供のいない部屋で、低く、はっきりと。
「人の上に立つと、疑うべきものを疑えなくなる。皆が良いと言うものを、良いと信じてしまう。君は、それを思い出させてくれた」
万能の人ではないのだ、と、そのとき初めて知った。誤り、認め、年下の薬師にも、頭を下げられる人。私が長く隣にいた人とは、骨の作りからして違っていた。クラウス様は、一度も、私に「すまない」と言ったことが、ない。
「……過ちを認められる方のほうが、私は信じられます」
口にしてから、頬が熱を持った。火鉢もないのに。アルヴィス様は何も言わず、ただ少しだけ、窓の外の麦のほうへ、目を細めた。
◇
毒の出どころを辿るため、銀星商会の取引名簿を取り寄せた。
公爵領に薬を卸した経路を、指で遡っていく。仲買、行商、卸元、そして、出資の元手。頁をめくる手が、ある一行で止まった。
出資者の欄。ハーゲン侯爵家。
クラウス様の生家の名が、毒を撒いた商会の後ろ盾として、そこに記されていた。
侯爵家は、安く作れて飛ぶように売れるこの薬に、出資していた。利は太く、評判は良く、誰一人、中身を確かめなかった。私が帳面に「要注意」と書いた、あの夜。クラウス様が「貴族には関わりない」と笑った、まさに、あの薬に。
関わりは、あった。誰よりも、深く。
私は名簿を、静かに閉じた。怒りは、不思議と、湧いてこない。ただ、種を蒔いた手の上に、いつか実が落ちる――そういう、当たり前の道理だけが、胸に残った。私が手を下すまでもない。彼らは、自分の蒔いたものを、自分の手で刈ることになる。
◇
数日後、王都から早馬が着いた。封蝋は、王家の紋。
毒薬流通の一件、その解析にあたった薬師を、王宮へ召し出すという。名指しされていたのは――ユーフェミア・フォン・エルンスト。私の、名だった。
書状を渡しながら、アルヴィス様が、ほんの少しだけ、口の端を上げる。
「名で呼ばれるのは、嫌いか」
「……いいえ。少し、慣れないだけです。長く、『君』としか呼ばれなかったので」
「では、慣れるといい。君の名は、これから幾度も呼ばれる」
その声が、なぜか、夜の薬湯のように、温かかった。