軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四話 手を引く

朝靄の中を、薬院まで歩いた。

熱の名残で、足元はまだ覚束ない。それでも、退任の願いを書いた紙を、私は懐に抱いていた。一晩で、紙の角が、手の温もりで少し柔らかくなっている。

ヴェルナー院長は願いを読み、眼鏡を外して、目頭を押さえた。

「引き留めても、君は決めて来たのだろう」

「はい」

「惜しいとは言わん。君の腕は、この壁の内側に収めておくには、広すぎた。……いや、やはり惜しいな。撤回してくれぬか、とは、言わずにおこう」

老いた指が、願いの紙の端を、そっと撫でた。それから院長は、薬棚の鍵を一束、私の手に握らせる。

「公爵領で要るだろう。持っていきなさい。君が選ぶ薬なら、間違いはない」

久しく、誰かに信じて任されたことが、なかった。鍵の冷たさが、手のひらで、ゆっくりと温まっていく。

「七年、ここで多くを学びました。ありがとうございました」

「学んだのではない。君が、ここに置いていったものの方が、ずっと多い」

頭を下げると、院長は咳払いをひとつして、窓の外へ目を逸らした。その横顔が滲んで見えたのは、私の目のせいだけでは、なかったと思う。

その足で、近衛の詰所にクラウス様を訪ねた。

彼は仲間と談笑していた手を止め、私を見て、怪訝な顔をする。

「どうした、こんなところまで。顔色が悪いぞ。熱は下がったのか」

下がったかどうかを、彼は今になって、尋ねた。

「婚約の解消を、お願いに参りました」

談笑が、ぴたりと止まる。周りの近衛たちが、気まずそうに視線を交わした。

クラウス様は数瞬、私の言葉の意味を測りかねるように、瞬きをする。やがて、困ったように笑った。

「熱で気が立っているんだろう。少し休めば治る。そういうことは、頭を冷やしてからにしろよ」

「冷えております。これ以上ないほど、よく」

「ユフィ」

「七年、お待ちしました。あなたの『後で』を、ずっと。これからは、その時間を、私の支度に使います」

「待ってくれ、急にそんな」

「急ではありません。あなたが、気づかなかっただけです」

詰所を出る背に、「すぐ戻ってくるさ!」と、笑い混じりの声が追ってきた。私は、振り返らなかった。彼が本気にしていないことは、声の軽さでわかる。それでよかった。引き留められたところで、もう、手は伸ばせない。

指から、家紋の入った婚約の指輪を抜いた。詰所の受付に預け、私は通りへ出る。指の付け根に、輪の跡が白く残っていた。その跡も、じきに消えるだろう。

屋敷に戻り、薬箱を卓に広げた。

解熱、止血、鎮痛――クラウス様が倒れたときのための備えを、ひとつずつ取り出していく。彼の好む匂いの軟膏。彼の弱い喉のための飴。誰かのために満たし続けてきた中身を、卓の上に並べると、ずいぶんな量になった。

代わりに、私自身が旅先で使うものを選び直す。寝つけぬ夜の安神薬。指を痛めたときの軟膏。見知らぬ土地で熱が出たときの、解熱の草。誰かのためではなく、私のための箱に、はじめて詰め替えていく。

蓋を閉じると、箱は少しだけ、軽くなった気がした。重さが減ったのではない。背負わなくていいものを、下ろしただけだ。

「お嬢様」ハンナが、旅装を抱えて入ってきた。目が赤い。「あたしも、お供します。どこへでも」

「ありがとう。心強いわ」

その手を取ると、ハンナは堪えきれずに、袖で顔を覆った。私は、泣かなかった。泣くほどの未練が、もう残っていないことに、自分でも、少し驚いていた。

二日後、グレーヴェンブルク公爵領の館に着いた。

アルヴィス様は玄関ではなく、調合室で私を待っていた。窓の大きな、明るい部屋。真新しい薬研と、洗ったばかりの硝子器が、布の上で光を弾いている。

「客間も用意したが、君はこちらのほうが落ち着くだろうと思ってな」

「……よく、おわかりですね」

「客人としてではなく、薬師として迎えたい。指図はしない。君の判断で動いてくれ。要るものがあれば、何でも言え」

その言葉に、肩のどこかが、音もなく、ほどけた。

最初の患者が運ばれてきたのは、その日の夕刻だった。年若い農夫。胸に手を当て、苦しげに息を継いでいる。脈を取る。速い。速すぎる。心の臓が、何かに急かされている。

枕元に、見覚えのある薬包が落ちていた。銅貨二枚の、銀星商会。

包みを開き、ごく微量を舌に載せる。あの痺れが、舌先を走った。

夾竹桃。ここにも、同じ毒が、確かに来ている。

私は袖をまくった。ここからは、私の領分だ。