作品タイトル不明
第四話 手を引く
朝靄の中を、薬院まで歩いた。
熱の名残で、足元はまだ覚束ない。それでも、退任の願いを書いた紙を、私は懐に抱いていた。一晩で、紙の角が、手の温もりで少し柔らかくなっている。
ヴェルナー院長は願いを読み、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「引き留めても、君は決めて来たのだろう」
「はい」
「惜しいとは言わん。君の腕は、この壁の内側に収めておくには、広すぎた。……いや、やはり惜しいな。撤回してくれぬか、とは、言わずにおこう」
老いた指が、願いの紙の端を、そっと撫でた。それから院長は、薬棚の鍵を一束、私の手に握らせる。
「公爵領で要るだろう。持っていきなさい。君が選ぶ薬なら、間違いはない」
久しく、誰かに信じて任されたことが、なかった。鍵の冷たさが、手のひらで、ゆっくりと温まっていく。
「七年、ここで多くを学びました。ありがとうございました」
「学んだのではない。君が、ここに置いていったものの方が、ずっと多い」
頭を下げると、院長は咳払いをひとつして、窓の外へ目を逸らした。その横顔が滲んで見えたのは、私の目のせいだけでは、なかったと思う。
◇
その足で、近衛の詰所にクラウス様を訪ねた。
彼は仲間と談笑していた手を止め、私を見て、怪訝な顔をする。
「どうした、こんなところまで。顔色が悪いぞ。熱は下がったのか」
下がったかどうかを、彼は今になって、尋ねた。
「婚約の解消を、お願いに参りました」
談笑が、ぴたりと止まる。周りの近衛たちが、気まずそうに視線を交わした。
クラウス様は数瞬、私の言葉の意味を測りかねるように、瞬きをする。やがて、困ったように笑った。
「熱で気が立っているんだろう。少し休めば治る。そういうことは、頭を冷やしてからにしろよ」
「冷えております。これ以上ないほど、よく」
「ユフィ」
「七年、お待ちしました。あなたの『後で』を、ずっと。これからは、その時間を、私の支度に使います」
「待ってくれ、急にそんな」
「急ではありません。あなたが、気づかなかっただけです」
詰所を出る背に、「すぐ戻ってくるさ!」と、笑い混じりの声が追ってきた。私は、振り返らなかった。彼が本気にしていないことは、声の軽さでわかる。それでよかった。引き留められたところで、もう、手は伸ばせない。
指から、家紋の入った婚約の指輪を抜いた。詰所の受付に預け、私は通りへ出る。指の付け根に、輪の跡が白く残っていた。その跡も、じきに消えるだろう。
◇
屋敷に戻り、薬箱を卓に広げた。
解熱、止血、鎮痛――クラウス様が倒れたときのための備えを、ひとつずつ取り出していく。彼の好む匂いの軟膏。彼の弱い喉のための飴。誰かのために満たし続けてきた中身を、卓の上に並べると、ずいぶんな量になった。
代わりに、私自身が旅先で使うものを選び直す。寝つけぬ夜の安神薬。指を痛めたときの軟膏。見知らぬ土地で熱が出たときの、解熱の草。誰かのためではなく、私のための箱に、はじめて詰め替えていく。
蓋を閉じると、箱は少しだけ、軽くなった気がした。重さが減ったのではない。背負わなくていいものを、下ろしただけだ。
「お嬢様」ハンナが、旅装を抱えて入ってきた。目が赤い。「あたしも、お供します。どこへでも」
「ありがとう。心強いわ」
その手を取ると、ハンナは堪えきれずに、袖で顔を覆った。私は、泣かなかった。泣くほどの未練が、もう残っていないことに、自分でも、少し驚いていた。
◇
二日後、グレーヴェンブルク公爵領の館に着いた。
アルヴィス様は玄関ではなく、調合室で私を待っていた。窓の大きな、明るい部屋。真新しい薬研と、洗ったばかりの硝子器が、布の上で光を弾いている。
「客間も用意したが、君はこちらのほうが落ち着くだろうと思ってな」
「……よく、おわかりですね」
「客人としてではなく、薬師として迎えたい。指図はしない。君の判断で動いてくれ。要るものがあれば、何でも言え」
その言葉に、肩のどこかが、音もなく、ほどけた。
最初の患者が運ばれてきたのは、その日の夕刻だった。年若い農夫。胸に手を当て、苦しげに息を継いでいる。脈を取る。速い。速すぎる。心の臓が、何かに急かされている。
枕元に、見覚えのある薬包が落ちていた。銅貨二枚の、銀星商会。
包みを開き、ごく微量を舌に載せる。あの痺れが、舌先を走った。
夾竹桃。ここにも、同じ毒が、確かに来ている。
私は袖をまくった。ここからは、私の領分だ。