軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 誰も来ない夜

その二日のあいだに、躰のほうが先に、限界を越えた。

近衛から回された解毒薬。公爵領へ持っていく薬の選り分け。薬院の引き継ぎの帳面。そのどれも、半端にはできない。眠る間を惜しんで、指を動かし続けた。

二日目の夜だったか、三日目だったか。指折り数える頭も、熱で鈍っていた。調合台の前で、不意に視界が白く滲む。秤の目盛りが、二重に揺れた。額に手を当てる。火を抱いたように、熱い。

立とうとして、椅子ごと傾いだ。床の冷たさが頬に触れて、ようやく、自分が倒れたのだと知る。

「お嬢様!」

帰り際だったハンナが、駆け寄って私を抱え起こした。額に手を当て、息を呑む。

「こんなに熱が……! どうして、こうなるまで。すぐ、お運びします」

寝台まで運ばれ、湿らせた布を額に乗せられた。ハンナの手が、せわしなく私の汗を拭う。

「クラウス様に、お知らせしてきます。婚約者なんですから、こういうときくらい――」

「いいの」声が掠れた。「今夜は、夜会だから」

「こんなときくらい、夜会よりお嬢様を選ぶのが、筋でしょう!」

その筋が通ったことは、もう長くない。私は薄く笑って、ハンナの手を、そっと押し戻した。

「報せるだけ、報せて。あとは、いいから」

熱は夜半に向かって、なお高くなった。

天井の梁が、ゆらゆらと、水の底のように歪む。喉が灼けるように渇いても、枕元の水差しまで手が届かない。誰か、と呼びかけた声は、自分の耳にすら届かないほど、掠れていた。

汗が背を伝う。寒いのか、暑いのかも、もうわからない。

それでも、報せは届いたらしい。寝室の扉が開き、廊下の灯りを背に、クラウス様が立った。

「ユフィ、熱だって? まいったな、これから夜会の本番なのに」

近衛の礼装に身を包んでいる。襟元には、見覚えのない刺繍の飾り。きっと、ミレーユが選んだものだ。

「……いいのです。お行きください」

「そうか。ミレーユを一人にはできないしな」彼は安堵したように、息をついた。「君なら平気だろう。これまでだって、熱くらいで寝込んだことはなかったじゃないか。朝には下がってるさ。気をつけて休めよ」

枕元に立つことも、額に触れることも、なかった。彼は扉の手前から、そう言っただけだった。

扉が閉まる。廊下の灯りが細く狭まり、最後に、消えた。

足音が遠ざかっていく。その軽やかさを、私は天井を見上げたまま、聞いていた。

平気だろう、と彼は言った。

私はいつから、平気なふりをするのが、当たり前になったのだろう。平気だったのではない。平気でいなければ、誰も困らずに済むから、そうしてきただけだ。熱を出しても、痛くても、笑っていれば、彼は安心して背を向けられた。

私の「平気」は、ずっと、彼のための「平気」だった。

思い返せば、最初は、ほんの小さなことだった。彼が忘れた書状を、代わりに清書した。寝坊した彼のために、詫びの文をしたためた。熱があっても稽古には出たほうがいいと、背を押した。

一つ肩代わりするたび、彼は「君なら平気だろう」と笑った。その笑顔がまだ好きだった頃、私は、また一つ、引き受けた。

積み重ねた小さな肩代わりが、いつのまにか、私の背丈を越えている。今夜、その山の重さで、私はようやく潰れた。潰れて、はじめて、荷の降ろし方を知る。

明け方近く、私は自分で寝台を下りた。

誰も来ないなら、自分で動くしかない。壁伝いに調理場まで歩き、竈に火を熾す。湯を沸かす手が、震えていた。

戸棚から、蜂蜜の壺と、生姜と、乾かした林檎を取り出す。すりおろした生姜を湯に放ち、林檎を浮かべ、蜂蜜を匙で溶かす。立ちのぼる湯気が、甘く、少しだけ、鼻の奥を刺した。

両手で椀を包む。

温もりが、指の先から、ゆっくりと、躰の芯へ戻ってくる。喉を下りていく熱い甘さが、強張っていた何かを、内側から解いた。

誰かが淹れてくれた薬湯ではない。私が、私のために淹れた、一杯だ。

それで、十分だった。むしろ、ずっとこうすればよかったのだと、湯気の向こうで、静かに思う。私はずっと、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた。待っているあいだ、自分で自分を温める手があることを、忘れていただけだ。

熱の引いていく額に、夜明けの薄い光が触れた。

椀を飲み干し、私は決めた。今日、薬院に退任を願い出る。クラウス様には、婚約の解消を。

声を荒げる必要はない。誰かを責める必要もない。ただ、長いあいだ差し出していた手を、静かに引くだけのことだ。

椀の底に残った蜂蜜が、窓から差す光を受けて、琥珀色にひとつ光った。

その色を、私はしばらく、見つめていた。