作品タイトル不明
第二話 見立てを聞きたい
夜の応接間に、火鉢の炭が小さく爆ぜた。
来客はグレーヴェンブルク公爵、アルヴィスと名乗った。王家に次ぐ家格の人が、供も連れず、薬院の粗末な椅子に腰を下ろしている。出した白湯の湯気越しに、その横顔は、彫りの深い石像めいて動かない。
「夜分にすまない。昼に来れば、人目につく」
「人目を、憚るご用件ですか」
「領主が薬師を訪ねたと知れれば、領の不安を煽る。今は、それを避けたい」
椀を持つ手つきに、無駄がなかった。私は、向かいに腰を下ろす。
「公爵領の北で、原因の知れぬ不調が広がっている」
前置きは、それだけだった。
「畑仕事の者も、年寄りも、子どもも。胸が早鐘を打ち、幾日かして倒れる。医者は流行り病だと言う。だが、私には腑に落ちない。病は、ふつう齢を選ぶ。これは、選ばぬ」
「お医者様は、どのような処方を」
「熱には熱冷ましを、と。幸い安くてよく効く薬が出回っている、案ずるな、と」
白湯の椀を口へ運ぼうとした手が、止まった。
「その薬の名を、伺っても」
「銀星商会の、万能薬だと聞いた」
胸の底で、午後に閉じた帳面が、音もなく開いていく。私は立ち上がり、調合室からその一冊を持って戻った。日付の脇に記した文字を、卓の上で開いて見せる。
「これを、ご覧ください」
アルヴィス様は身を乗り出した。指が、頁の上を辿る。夾竹桃、心の臓を急かす、続ければ保たぬ――私の走り書きを、彼は一語ずつ読んだ。読み終えても、しばらく頁から目を上げない。
「……君は、これを今日見抜いたのか」
「市井で売れていると聞いて、気になっただけでございます」
「医者が幾月かけても気づかなかったことを、君は半日で書き留めた。しかも、誰に頼まれたわけでもなく」
そう言われて、私はとっさに、返す言葉を持たなかった。腕を褒められたのが、いつ以来か思い出せない。火鉢の熱が、頬にだけ、妙に近く感じられた。
「熱を下げる薬が、熱で人を殺す。そういうことか」
「下げているのではなく、無理に走らせているのです。疲れた馬に鞭を打てば、しばらくは速く駆けます。けれど、いつか倒れます」
アルヴィス様は深く息を吐き、目を閉じた。その沈黙が、領の者を案じる重さを帯びている。叫ばず、嘆かず、ただ静かに重い。私が長く隣にいた人の軽さとは、何もかもが違っていた。
「君が引き受けてくれるなら、まず、何をする」
「飲んでいる薬を、すべて取り上げます。話は、それからです」
「取り上げて、暴れる者が出たら」
「出ます。効くと信じているものを、奪われるのですから。それでも、毒は毒。飲ませ続けるよりは、恨まれるほうが、ましです」
私の即答に、アルヴィス様は微かに頷いた。試すための問いではない。共に手を動かす者へ向けられた、確かめの問いだった。
◇
翌朝、薬院にクラウス様が顔を出した。公爵の来訪を、どこからか聞きつけたらしい。
「公爵様がじきじきにとは、大したものだな。それで、君が領地まで行くのか」
「まだ何も、決まってはおりません」
「行ってこいよ。俺は近衛の務めがあるし、その手の調べは君の領分だ。君なら平気だろう」
平気だろう。また、その言葉。
「公爵領は遠うございます。幾月か、戻れないかもしれません」
「なら、その間は文でも書くさ。なに、君がいなくても、俺はなんとかやる」
なんとかやる、と彼は笑った。私がいなくても困らない、ではない。私がいないあいだだけ、なんとかやり過ごす、という顔だった。
彼は私の肩を軽く叩いて、廊下の向こうへ消えていった。叩かれた肩に、温もりは残らなかった。
◇
正午、アルヴィス様が再び訪れた。今度は馬車を一台、表に待たせている。
「無理にとは言わない。王立薬院には、王立薬院の務めがあろう」
「……一つ、伺ってもよろしいですか。なぜ、名のある医者ではなく、私なのです」
彼は少し黙った。それから、まっすぐに言った。
「医者は、自分の見立てを最後まで疑わなかった。君は、最も売れている薬を、まず疑った。人の上に立つ者が信じるべきは、疑うことを知っている者だ」
窓の外で、待たせた馬がいなないた。
「君の見立てを、私は信じる。来てくれるなら、領の者が、幾人も助かる」
助かるのは私ではなく、見も知らぬ誰か。それでも、その一言は、長く渇いていた場所に、雨のように染みた。誰かに必要とされるのではなく、私の「目」が必要とされている。その違いが、こんなにも胸を軽くするとは思わなかった。
「支度に、二日ください」
口にしてから、自分の声が思いのほか落ち着いていたことに、私は少し驚いた。
アルヴィス様は、ほんのわずか、目元を緩めた。
「待っている。急がなくていい」
急がなくていい、と言われたのは、何年ぶりだろう。