作品タイトル不明
第一話 都合のいい薬箱
朝の薬院は、乾いた薬草の匂いで満ちている。
窓から差した光が、棚に並ぶ硝子瓶の縁を白く縁取っていた。私は秤の皿に解熱草を載せ、銅の分銅をひとつ足す。指の腹で釣り合いを確かめた。〇・三グラム。多くても、少なくてもいけない。患者の心の臓は、この差で速さを変えてしまう。
最初の客は、市場で青物を商う老婆だった。何日も咳が止まらないという。胸に耳を当て、息の音を聴く。湿った音はない。喉の荒れだ。私は甘草と桔梗を煎じ、蜂蜜をひと匙落として渡した。
「先生のお薬は、苦くないねえ」
「苦い薬は、飲み続けられませんから」
老婆は笑って、銅貨を数えて置いていった。扉が閉まるまで見送る。誰かの痛みが、ひとつ軽くなって出ていく。この仕事の、好きなところだった。
廊下を蹴るような足音が近づいてくる。扉が開く前に、誰なのかはわかっていた。
「ユフィ、いるか。よかった」
クラウス様は剣帯も解かないまま、机の上に一枚の書状を放った。王立薬院の封蝋。近衛から回された、解毒薬の調合依頼だ。
「俺に回ってきたんだが、明日の朝までにと言われてな。君なら平気だろう」
書状の宛名には、はっきりとクラウス・フォン・ハーゲンの名がある。私の名は、どこにもない。
「……承知いたしました」
分銅を皿から下ろし、書状を取り上げる。指先に蝋のざらつきが残った。
「助かる。後で礼を言う」
その言葉を、私はもう幾度聞いたのだろう。礼はいつも「後で」のまま、どこかへ流れて、消えていく。
クラウス様は踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「今夜はラント男爵家の夜会だ。ミレーユが心細がっているからな、付き添ってやらないと」
「お気をつけて」
「君も、無理はするなよ」
無理をするなと言う人が、書状を一枚増やして去っていく。閉まる扉の音は、来たときよりいくらか軽かった。
◇
調合台に戻り、薬箱の蓋を開ける。
革張りの、古い箱だ。婚約の祝いに、まだ十六だったクラウス様が選んでくれた。あの頃の彼は、私の指が薬研を回すのを、隣でいつまでも眺めていた。「ユフィの手は、魔法みたいだ」と。手元が温かかったのを、まだ覚えている。
箱の中には、解熱、止血、鎮痛――彼が倒れたときのための備えが、隙間なく並んでいる。風邪をひくたび、彼は「ユフィの薬でないと効かない」と笑った。その笑いが見たくて、私は箱を満たし続けてきた。
いつからか、この箱は私のためのものではなくなっていた。彼の不調を先回りし、彼の務めを引き取り、彼の「後で」を待つ。気づけば、私の一日は、誰かの隙間を埋めるためだけに過ぎていく。
「お嬢様、またクラウス様のお仕事を押し付けられたんでしょう」
侍女のハンナが、茶を運んできて頬を膨らませた。
「近衛のお務めなら、ご自分でなさればいいのに。お嬢様がいないと、何にもできないくせして」
「ハンナ」
「だってそうじゃないですか。今夜だって、よその令嬢の付き添いだなんて」
私は茶を一口含んだ。ぬるい。返す言葉の代わりに、もう一度、帳面を開く。
◇
午後、市井の薬師ギルドから回覧が届いた。
銀星商会・万能万治薬。一粒で熱も傷も腹下しも退くと謳う、銅貨二枚の薬。飛ぶように売れているという。
一粒を分けてもらい、すり鉢で砕いた。鼻を寄せる。甘草の甘さの裏に、細い苦みが潜んでいた。舌の先に粉を載せると、痺れが走る。
夾竹桃。ごく微量。けれど確かに、毒草の気配がある。
熱を一時だけ下げるために、心の臓を急かす成分を混ぜてある。即効に見えて、その実、躰の蓄えを前借りしているだけだ。飲み続ければ、心の臓のほうが先に音を上げる。帳面を開き、日付とともに記した。銀星商会、要注意、と。
夕刻、回覧をクラウス様に見せた。彼は流し読み、肩をすくめる。
「庶民の薬だろう。貴族には関わりない。考えすぎだ、君はいつも難しく考える」
「……これを飲んでいる人が、幾人も倒れるかもしれません」
「医者が診るさ。君の領分じゃない」
帳面を閉じる。私は、それ以上、何も言わなかった。言ったところで、彼の耳には届かない。届かないことに、私はとうに慣れていた。
◇
日が落ちて、薬院に残ったのは、私ひとりになった。
近衛の解毒薬を組み終え、最後の硝子瓶に栓をしたとき、表の戸が叩かれた。この刻限に客は珍しい。ハンナは、もう帰している。
戸を開けると、夜気の中に、背の高い人影が立っていた。胸元に、見覚えのない封蝋。深い緑の地に、鷲と剣の紋。
「王立薬院の薬師、ユーフェミア・フォン・エルンスト殿は、こちらか」
低く、静かな声だった。灰色の瞳が、まっすぐに私を捉える。名で呼ばれることが、ずいぶん久しいと、そのとき気づいた。クラウス様は、もう長く、私を「君」としか呼ばない。
「……私が、エルンストでございます」
夜風が、戸口の灯りを、小さく揺らした。