作品タイトル不明
第八話 分かち合う箱
公爵領の調合室に戻ると、麦の匂いのする風が、窓から入ってきた。
留守のあいだに運ばれた患者の帳面が、几帳面に積まれている。ハンナが、私の代わりに記してくれたものだ。北の村の死者は、あれきり、一人も出ていない。回復した農夫が礼にと置いていった林檎が、窓辺で赤く熟していた。
私は薬箱を卓に置き、蓋を開けた。
旅に出る前、自分のためだけに詰め直した、あの箱だ。けれど今、その中身を、ひとつずつ、調合室の大きな薬棚へ移していく。安神薬を、軟膏を、解毒の草を。私一人の箱には、もう、収まりきらない。
ここには、薬を学びたいという領の若者が、幾人も通ってくる。彼らに匙の量を教え、毒草の見分け方を伝え、苦い薬を飲みやすくする蜂蜜の使い方を語る。箱の中身は、もう、私一人が抱え込むものではなくなった。
誰かのために、ひとり背負い続ける箱から。
分かち合い、受け継いでいく棚へ。
そう思うと、空になった箱が、ずいぶん軽く、そして晴れやかに見えた。
◇
日が傾いた頃、アルヴィス様が調合室を訪れた。
手に、湯気の立つ椀を、ふたつ提げている。片方を、私の前にそっと置いた。
「北の村の婆さんに、教わった。蜂蜜と、生姜と、干した林檎だそうだ」
立ちのぼる甘い湯気に、私は、息を呑んだ。あの夜、誰も来ない部屋で、震える手で、自分のために淹れた一杯と――同じ匂い。
「……どうして、これを」
「君が熱を出した夜、自分で淹れて飲んだと、侍女から聞いた。今度は、淹れる側が、いてもいいだろう」
両手で椀を包む。
温もりが、指の先から、躰の芯へと、ゆっくり戻ってくる。
あの夜と、同じ温度。けれど、ひとつだけ、違うものがある。淹れた手が、私のものではない、ということ。差し出された手のひらに、湯気が触れている。
「……美味しゅうございます。とても」
形容を重ねるのは苦手なのに、その一言だけは、するりと口から出た。アルヴィス様は、目元をわずかに緩め、自分の椀に口をつける。
「婆さんのが、もっと美味いと言われた。修業が要るな」
「ええ。あと十年は」
笑みが、ふたりの間に、湯気のように、ゆっくりと広がった。
◇
アルヴィス様は、私を客分とは呼ばなかった。
公爵家お抱えの薬師として、領の医療を任せたいと言う。それから、少しだけ言葉を切って、もう一つの望みを口にした。
「薬師としてだけではなく――隣に、いてほしい。指図はしない。君の見立ても、君の意思も、私はこれからも、ずっと信じる。君が嫌だと言うなら、この話は、今、忘れる」
平気だろう、と押し付ける人では、なかった。平気か、と問うてくれる人だった。嫌なら忘れる、と、私に選ばせてくれる人だった。
私は、椀の中の琥珀色を見つめた。湯気の向こうに、麦畑が、夕日を浴びて金色に揺れている。
差し出された手を取るのも、引くのも、これからは、私が決める。長いあいだ、誰かの隙間を埋めるために空けてきた手のひらに、今は、温かい椀がある。それを、誰かと分かち合うことも、できる。
「ふつつか者ですが」
私は、顔を上げた。
「――あなたとなら、」
窓の外で、夕風が、さやと麦を撫でた。続きは、口にしなかった。言わずとも、灰色の瞳が、静かに笑っていたから。
椀の底で、蜂蜜がひとつ、夕日を受けて、琥珀色に光った。
あの夜と、同じ色をして。けれど、もう、ひとりではない色で。