作品タイトル不明
37.
ガラリ、と。
文芸部の古びた引き戸が開く音がした。
「阿智クーーーンっ! 待ってたーーっ!」
姿を見せた阿智奉太郎に向かって、昼神聖華は弾かれたように飛びついた。
クラスの目がある教室とは違い、ここは部員と親友しかいない閉鎖空間だ。
もう彼への「好き」という感情を、一ミリも隠そうとしていない。
見えない尻尾をちぎれんばかりに左右に激しく振り回し、顔を真っ赤にして奉太郎の制服の袖をギュッと握りしめた。
「ぬへへへぇ。もう、阿智くんに会えるだけでしゃーせーっ」
「しゃーせー?」
突然の奇声に、奉太郎がきょとんと首を傾げる。
「『幸せ』ってことっ!」
聖華が満面の笑みで言い切ると、奉太郎は微かに目を伏せた。
「……そう。俺も」
ボソッと、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
あまりにも密着してテンションが限界突破している聖華の耳には、その不器用な肯定の言葉は届いていなかった。
しかし、少し離れた長机で本を読んでいた茅野深雪の耳には、しっかりとそれが届いていたのだ。
(はぁ……)
深雪は手元の文庫本に視線を落としたまま、今日何度目かわからない深いため息を吐き出した。 二人の間に流れる甘ったるい空気に、当てられっぱなしである。
「でねでねっ! 待望のお昼ごはんですっ!」
聖華は奉太郎を長机へと引っ張っていくと、鞄から可愛らしいピンク色の風呂敷包みを取り出した。
ドヤ顔で胸を張り、勢いよく中身を広げる。
「じゃじゃーんっ! 阿智くんのために作ったんだぜっ!」
「……朝は、『作りすぎちゃった』って言っていなかったか?」
奉太郎が冷静に矛盾を突くと、聖華はビクンと肩を跳ねさせた。
「あ、え、っとぉ……そうっ! 作りすぎちゃったから、阿智くんのためにお裾分けってことだよっ!」
あまりにも雑な言い訳だった。
どう見ても、最初から彼のために用意された完璧なバランスのお弁当である。
奉太郎はそれ以上追及することなく、小さく息を吐いた。
「雑だな。……そっか」
「ぬへへっ、あーいーっ」
聖華はだらしない笑顔を浮かべ、奉太郎の隣にぴったりとくっついて座る。
奉太郎は箸を手に取り、美しく焼かれた卵焼きを一口かじった。
「おいしいよ」
「ほんとっ!? ほんとほんとっ?」
「うん」
「嘘じゃない? あ、別に疑ってるわけじゃなくてっ、嘘じゃないよって言ってほしくってっ!」
身を乗り出して食い気味に問い詰める聖華に、奉太郎は淡々とした声で答える。
「そっか。美味しい」
「ぬうぇへへへ~っ」
純情ギャルの脳髄が、甘い快感でドロドロに溶けていく。
聖華は両手で頬を包み込み、机に身を預けてクネクネと身悶えし始めた。
(はぁ……)
深雪は本から目を離し、騒がしい親友と、淡々と弁当を食べ進める奉太郎の姿を静かに見つめた。
聖華が奉太郎に惚れ込んでいるのは、火を見るよりも明らかだ。
しかし、深雪が驚いているのは、むしろ奉太郎の方だった。
一見すると塩対応でそっけない彼だが、聖華のこの重すぎる愛情表現を全く嫌がっていない。
それどころか、先ほどの小さな呟きのように、彼自身も確実に聖華に惹かれているのがわかる。
(これは……かなりいけるのではないかしら)
第三者の目から見れば、両想いは確実だ。
親友の恋が成就するのは喜ばしいことのはずなのに、深雪の胸の奥には、ふと冷たい風が吹き込んだような「さみしさ」が広がった。
もし二人が付き合い始めれば、当然、聖華と一緒にいる時間は減る。
お昼ご飯も、放課後の帰り道も、休日のお出かけも、すべて彼が優先されるようになるだろう。
ずっと自分だけを頼りにしてくれていた親友が、手の届かない場所へ行ってしまうような気がしたのだ。
(いけない。……友達の恋が失敗すればいいなんて、そんな不幸を喜ぶようなことを考えて)
深雪は小さく首を振り、自分の中に芽生えかけた醜い感情を振り払う。
パタン、と読んでいた本を閉じ、深雪は努めて冷静な声で騒がしい二人へと声をかけた。
「ねえ、いちゃつくのは勝手だけど。部室に甘い匂いが充満してるんだけど」
「ふぇっ!? ご、ごめんっ! みゆきんも卵焼き食べる!?」
「結構よ」
深雪は呆れたように肩をすくめ、騒がしくも温かい日常の風景へと視線を戻すのだった。