作品タイトル不明
28.
朝の冷たい空気が残る部屋で、阿智奉太郎は静かに目を覚ました。
枕元のスマートフォンが、短い振動とともに通知を知らせている。
画面を点灯させると、昼神聖華からのメッセージが数件届いていた。
犬のキャラクターが元気におはようと叫んでいるスタンプと、今日の朝の天気に関するどうでもいい呟きだ。
それを見て、奉太郎の口元から自然と「ふふ」と小さな笑みがこぼれた。
特に用事もない、生産性のないやり取りである。
しかし、こういう他愛のない繋がりが今はひどく心地よく、楽しいと感じている自分がいる。
昨日まですき焼きの鍋を囲んでいた騒がしい時間を思い出し、奉太郎はゆっくりとベッドから抜け出した。
手早く洗面所で身支度を整え、キッチンに立つ。
食パンを焼き、コーヒーを淹れるだけの簡素な朝食を一人で済ませた。
昨夜の賑やかさが嘘のように、一人きりの食卓は静まり返っている。
食器をシンクに片付け、スクールバッグを肩にかけた。
普段の奉太郎であれば、準備ができ次第、そのまま誰に告げることもなく登校するだけだ。
他人のペースに合わせて自分の時間を削るなど、非効率の極みだと考えていたからである。
だが、今の奉太郎は玄関のドアノブに手をかける前に、ふと足を止めた。
制服のポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。
『俺、もう行くね』
たった一言だけ、聖華のトーク画面に送信した。
それは単なる報告ではなく、暗に「一緒に行こう」と誘っているようなものだった。
自分から他人の予定を気にかけ、あまつさえ待とうとするなど、以前の彼なら絶対にありえない行動だ。
画面を眺めていると、送信から数秒も経たないうちに「既読」の文字がついた。
すぐさま、勢いよく返信のメッセージが飛び込んでくる。
『わたしもいくー! ちょっと待ってて!』
ひらがなばかりの短い文章から、彼女の慌てふためく様子が手に取るようにわかる。
スマートフォンの向こう側で、見えない尻尾をちぎれんばかりに振って喜んでいる彼女の姿が容易に想像できた。
駆け引きなど一切なく、嬉しいという感情がそのまま表に出る素直すぎる反応だ。
奉太郎はスマートフォンをポケットにしまい、呆れたように小さく息を吐いた。
(本当に、そういうところが)
騒がしいけれど、どこまでも純粋で真っ直ぐな彼女の好意。
無機質だったはずの自分の日常が、確実に彼女の色に染め上げられていることを自覚する。
奉太郎は玄関のドアノブを握りながら、待ち合わせの相手を想って密かに口元を緩めるのだった。