作品タイトル不明
25.
阿智奉太郎は水道の蛇口を捻って水を止め、水滴の落ちるスポンジをシンクの端に置いた。
ペーパータオルで濡れた手を拭きながら、背後で顔を真っ赤にしてうろたえている昼神聖華を横目で見る。
本人は、豪快な水の音で完全に自分の声をかき消しているつもりだったのだろう。
しかし、背後から漏れ聞こえてくる好意の連呼や、うえへへへというだらしない笑い声は、奉太郎の耳にしっかりと届いていた。
換気扇の音や水の音に紛れさせればバレないという、あまりにも短絡的な五十三万IQの頭脳には呆れるほかない。
(あれで本気で聞こえていないとでも思っているのだろうか)
顔から火が出そうなほど慌てふためいている彼女の様子を見るに、どうやら本当に気づかれていないと思い込んでいるらしい。
なんなんだこの子は。本当に、面白い子だ。
奉太郎は、喉の奥から込み上げてきそうになる笑いを必死に噛み殺し、内心の呆れを悟られないように表情を平坦に保ったまま、リビングのソファへと腰を下ろした。
壁に掛けられたアナログ時計の針は、すでに夜の二十一時を回ろうとしている。
明日は平日で学校があるため、本来ならば夕食をご馳走になったお礼を言って、さっさと隣の自分の部屋に帰らなければならない時間だった。
しかし、奉太郎の口から「そろそろ帰る」という言葉は出なかった。
ただ隣に座って、つけっぱなしのテレビをぼーっと眺めているだけの時間が、今の奉太郎にとってはひどく居心地が良かったのだ。
画面の中で流れているバラエティ番組を見ながら、聖華はテレビの向こうのタレントに向かって「いや、それは無理あるっしょ!」と一人でツッコミを入れたり、手を叩いてケラケラと笑い声を上げたりしている。
普段の奉太郎なら、他人の家で出されるそんな大きな物音や声は「騒がしい」と感じて不快に思うはずだった。
それがどういうわけか、今はなんだかとても心地よいBGMのように感じられる。
一人暮らしの、生活音すら響かない静かな部屋では絶対に味わえない、誰かと空間を共有する確かな温かさ。
テレビの光に照らされる彼女の横顔を見ているだけで、奉太郎の心は穏やかに、そして確実に満たされていたのだ。
「んにゅ」
不意に、隣から間の抜けた声が聞こえた。
視線を向けると、先ほどまで元気に笑っていた聖華が、ソファの背もたれに体を預け、こくりこくりと船を漕いでいる。
お腹いっぱいすき焼きを食べて、気が抜けたことで急激な眠気が襲ってきたらしい。
首がカクンと折れ曲がり、長いミルクティーブロンドの髪が肩から滑り落ちる。
「昼神さん?」
奉太郎が小さく声をかけると、聖華は目を閉じたまま、嫌がるように首を横に振った。
「んー……」
「起きないと。こんなところで寝たら風邪を引くぞ」
「やー……」
完全に夢の世界へ旅立っているようで、幼児のように短い言葉で拒絶される。
ここで彼女が寝てしまったら、家主を放置して俺が自分の部屋に帰れないだろ。
そう言いかけて、奉太郎はその言葉を静かに呑み込んだ。
無理に揺り起こして帰るよりも、このままでいいか。
奉太郎は小さく息を吐き、ソファの上で無防備に丸まって眠る聖華の体を、ゆっくりと横に寝かせてやった。
少し離れた椅子の上に畳んであった薄手のブランケットを手に取り、丸まった小さな背中にそっと掛けてやる。
布越しに伝わってくる彼女の体温が、奉太郎の手のひらにじんわりと伝わってきた。
「んえーい……ちゅきー……」
ブランケットに顔を埋め、髪をクッションに擦りつけながら、聖華がふにゃりと笑って寝言をこぼした。
起きている時のやかましさや、ドタバタとした騒がしさとは打って変わって、その寝顔はひどく無防備で愛らしい。
夢の中でも、彼女の頭の中は彼への好意でいっぱいなのだろう。
「まったく」
奉太郎は呆れたように短く呟きながら、口元に小さな笑みを浮かべた。
規則正しい穏やかな寝息を立てる彼女の側で、奉太郎は床に直接座り込み、ソファの背もたれに寄りかかる。
彼女が目を覚ますまで、もう少しだけこの温かい空間に留まることに決めたのだった。