作品タイトル不明
第26話 さようなら、私の過去
スティーブの冷厳な牽制に射抜かれ、王都の大通りにへたり込んだダリル。
その無様な姿に、周囲の通行人たちから冷ややかな視線が突き刺さる。だが、ダリルは恥を忍んで、もう一度だけ、スティーブの背後に隠れる最愛の女性へと視線を這わせた。
「メリッサ……!」
その掠れた絶望の叫びに、歩き出そうとしていたメリッサの足が、ふと止まった。
彼女はそっとスティーブの腕に手を添え、優しく微笑みかける。私が自分で話します、という無言の意志。スティーブは少しだけ眉をひそめたものの、愛する婚約者の決意を尊重し、静かに一歩身を引いた。
遮るもののなくなった空間で、メリッサはダリルと、真っ直ぐに視線を合わせた。
ドレスの裾を上品に揺らしながら、彼女は縋り付くことすら許されない絶妙な距離を保って、かつての婚約者の前に佇む。
「メリッサ、俺……。俺は……っ」
目の前に立つ彼女の、あまりの神々しさに喉が詰まる。それでもダリルは、泥に汚れた拳を大理石の地面に押し付けながら、魂を絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「すまなかった……! 俺が馬鹿だったんだ! お前の優しさに甘えて、お前を傷つけて、都合のいい道具みたいに扱って……本当に、本当にすまなかった……!」
生まれて初めて、ダリルがメリッサに心からの謝罪を口にした。
その言葉には、一切の言い訳も、虚栄心も混ざっていなかった。ただ純粋に、己の罪を悔いる一人の男の、剥き出しの懺悔だった。
その姿を見つめるメリッサの表情は、夜会で見せたような冷酷な氷のそれとは違っていた。
彼女はただ、穏やかに、どこか懐かしいものを見るような目で、ダリルを見つめていた。そして、ふわりと、春の陽だまりのような優しい微笑みを浮かべたのだ。
「ええ。知っていたわよ、ダリル」
鈴を転がすような、かつてダリルが長い年月耳にしてきた、あの優しい声。
「学園時代、婚約したばかりの頃のあなたは、本当に私に優しかったわ。人気者のあなたとは釣り合わないからって、周囲の令嬢たちに陰口を叩かれていた私を、あなたはいつも真っ直ぐに見つめて、その手を引いて守ってくれた。……あれは、私にとって、今でも大切な、本当に幸せな思い出よ」
「メリッサ……」
「あなたが私に注いでくれたあの頃の純粋な愛情に、私は今でも感謝しているの。ダリル、あなたは本来、誰よりも正義感が強くて、困っている人を放っておけない、誠実な騎士だったはずよ」
メリッサの言葉は、ダリルの胸を優しく包み込むようだった。
そうだ、俺はメリッサを守りたくて、あいつの笑顔が見たくて、必死に剣を振るっていたはずだったんだ。ダリルの瞳から、熱い涙が溢れ出す。
だが、ダリルがその温もりに救われ、再び希望を抱こうとした瞬間。メリッサの言葉は、決定的な「境界線」を引いた。
「平民としてでも、騎士として生きる道はあると思うわ。本当なら、あなたは利き腕を折られても仕方のない不正を働いたのよ。それなのに、ただ騎士団を放免されるだけで済んだ。……それがなぜか分かる? あなたの実家である伯爵家が、私への賠償金を肩代わりしたからに他ならないわ。王都の第一騎士団だけが、あなたの正義を証明する場所ではないはずよ。地方の衛兵としてでも、名もなき傭兵としてでも、あなたがその本質を取り戻せば、また誰かを守る立派な背中になれるわ」
メリッサは、そっと自らの胸元で輝く、オレオ侯爵家から贈られた最上級のサファイアに手を触れた。
「だから……お元気で、ダリル。あなたのこれからの歩みが、誠実なものであることを願っています」
それは、究極の「祝福」であり、同時に、一分の狂いもない完全な「他人への言葉」だった。
ダリルはハッと息を呑み、本当の絶望に突き落とされた。
メリッサは怒ってもいないし、恨んでもいない。彼女はダリルとの「過去の綺麗な思い出」だけを箱に詰めて心の奥に仕舞い込み、現在のダリルに対しては、一介の通りすがりとしての親切心しか持ち合わせていないのだ。
ダリルの謝罪を受け入れ、かつての彼を肯定した上で、彼女はダリルを「人生の登場人物」から完全に、永久に除外した。
(俺は……もう、あいつの今にも、未来にも、どこにも存在していないんだ……)
自分は完全に、終わった「過去の人」になったのだ。
その事実を骨の髄まで悟らされたダリルは、もうメリッサの名を呼ぶことすらできず、ただ声を殺してボロボロと涙を流し、大通りの真ん中で完全に崩れ落ちた。
「さあ、行こう。メリッサ」
傍らに寄り添ったスティーブが、メリッサの腰を優しく、しかし確固たる独占欲を込めて抱き寄せる。
「はい、スティーブ様」
メリッサはスティーブを見上げ、今度こそ、過去のすべての鎖から解き放たれた、心からの、極上の笑顔を咲かせた。
二人は並んで歩き出す。眩い光に包まれた二人の背中は、王都の人々の祝福の視線を浴びながら、どこまでも遠く、高く、進んでいく。
這いつくばるダリルの視界から、かつて愛した少女の紺青のドレスが、完全に消え去るその時まで。メリッサが振り返ることは、二度となかった。