軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話 外堀は埋まり、罠は開く

王宮の夜会を数日後に控えた、日中のことだった。

オレオ侯爵邸の公的な執務室。メリッサは、イザベルの夜会用ドレスや宝飾品の最終確認の書類を携え、その管理を任されているスティーブの元を訪れていた。

周囲には他の事務官や使用人たちの目もある。表向きは「夜会の準備報告」という完全な公務。だが、スティーブから手渡された受領書ファイルの束の間に、数枚の『極秘の書類』が紛れ込んでいるのを、メリッサの聡明な目が瞬時に見抜いた。

それは、バルモン伯爵家が抱える莫大な借金の金流、そしてダリルがカサンドラから受け取っていた金品の出処を完全に証明する、逃げ場のない「罠」の設計図。

スティーブはペンを動かす手を止めず、他の人間には聞こえないほどの低い声で、けれど確信に満ちた口調でメリッサに語りかけてきた。

「近々、すべてが片付く。あの夜会で、君を縛り付けていたすべての鎖が弾け飛ぶ。……だからメリッサ、その先にある君の未来を、僕に預けてくれないか」

誰もが見落とすような公務の一瞬の隙を突いた、真っ直ぐで、あまりにも深い愛の告白だった。

スティーブの両親である侯爵夫妻からもすでに絶大な賛成を得ており、身分差を埋めるための籍の段取りまで裏で進んでいる。文字通り、外堀は完璧に埋まっていた。スティーブの手を取れば、子爵家出身の侍女に過ぎない自分には過分すぎるほどの幸福と、未来の侯爵夫人という輝かしい地位が約束される。

しかし、メリッサは視線を書類に落としたまま、すぐに応じることはできなかった。

胸の奥で、冷たく凍りついたはずの何かが、小さな軋みをあげて抵抗していた。

「スティーブ様……。あなたの深いお情けには、言葉もないほど感謝しております。ですが、私には、まだその手を取る資格がございません」

声を潜め、事務的な報告を装いながら、メリッサは小さく首を振った。

最高峰の貴族家であるオレオ侯爵家嫡男からの求愛は、子爵家の娘でしかない自分にとってはあまりにもハードルが高すぎる。だが、それ以上にメリッサの心を躊躇させていたのは、自分自身の「心の未練」だった。

ダリルには散々裏切られた。二年間も金を搾取され、都合のいい道具として扱われ、別の女の元へと走る姿を何度も見た。彼への男女としての愛は、もうとうに死に絶えている。

それでも……。どうしても、消し去れない記憶があった。

脳裏に蘇るのは、学園二年生のあの頃のダリルだ。

まだ、どこか少年らしさを残した、不器用で、けれど誰よりも真っ直ぐにメリッサだけを見つめていた、あの頃の彼。

メリッサの前に立ち、『僕が必ず君を幸せにする。いつか一人前の騎士になって、君を妻に迎えるから』と、顔を真っ赤にしながら誓ってくれたダリルの言葉には、あの瞬間、間違いなく本物の「愛」があったのだ。

ダリルは根っからの悪人ではない。優しくて、人一倍働き者で、困っている人を放っておけない好漢だった。だからこそ、メリッサは彼を好きになったのだ。あんなにも、狂おしいほどに、彼のすべてを愛していたのだ。

その彼が、弱小伯爵家の次男坊という自身の立場に焦り、王都の華やかな誘惑に負け、男のプライドと甘えから、少しずつ歪んでいってしまった。

メリッサの心に残っているのは、現在の浮気者なダリルへの未練ではない。自分がかつて、命を懸けてもいいと信じた「あの優しかったダリル」との思い出であり、彼を信じて待ち続けた四年間という月日そのものだった。

そんな傷だらけの心のまま、スティーブの汚れなき深い愛を受け入れることは、彼に対する不誠実ではないのか。メリッサはそれが苦しかった。

「私は、不実な婚約者に裏切られ、利用された愚かな女です。そんな私の心が、完全に新しく塗り替わるには……まだ、少しだけ時間が必要なのです」

ぽつり、と溢れたメリッサの本音に、スティーブは怒ることも、落胆することもしなかった。

彼はただ、愛おしそうに目を細めると、差し出していた手をそっと引っ込め、代わりにメリッサの冷えた指先を優しく包み込んだ。

「わかっているよ、メリッサ。君がそれほどまでに誰かを深く愛せる、優しく誠実な女性だからこそ、僕は君を好きになったんだ。急ぐ必要はない。夜会ですべての決着がついた後、いくらでも時間をかけて、僕を見てくれればいい」

スティーブの温もりが、メリッサの手のひらからじわりと伝わってくる。

メリッサは、その温かさに救われながらも、胸の中で静かにダリルへ語りかける。

(さようなら、私の愛した騎士様。私は、あの優しかったあなたを、今でも綺麗に覚えています。……だからこそ、私はあなたと、完璧な決別を選びます)

罠の扉は、もう完全に開いている。

かつての愛に決着をつけるための、最後の舞台。侯爵家主催の夜会が、すぐ目の前に迫っていた。