作品タイトル不明
迷宮主、終戦
考えていては間に合わない。
迫りくる翅音の距離を測りながら、トールの体は流れるように大蟻の首根へ目にも留まらぬ一撃を入れた。
一瞬だけ巨体が揺れ、わずかに生まれた空隙にその身を滑り込ませる。
その瞬間、真横から飛来した黒い新たな影が、トールが寸前まで居た場所を通り過ぎた。
外殻を一度脱ぎ捨てたとはいえ、トールと黒金剛蟻の間には数倍の体格差が存在する。
掠めただけで、簡単に体のどこかの部位が持っていかれてしまうだろう。
巨躯の側面を通り過ぎながら、トールは素早く胸部の脚の付け根の一点へ刃を突き入れる。
結晶の結び目を一撃された蟻の中脚は、根元から砕けて落ちた。
が、小さな成功を味わう間もなく、横薙ぎされた薄刃のような黒翅がトールの首を狙ってくる。
無意識の内に地面スレスレに沈んだ体の上を耳障りな振動が走り抜け、突き出した刃に激しい衝撃だけが生じる。
翅を斬り裂いた代償として大きく刃こぼれした剣を<復元>しながら、トールは肺へ力強く空気を取り入れた。
<硬刃>がかかってなければ、へし折れていたに違いない。
気を抜く間もなく最後の一匹が、仲間を無視して突進してきた。
さらに横から襲ってきた先ほどの一匹が、空を旋回して頭上から狙ってくる様がムーの視界から伝わってくる。
避けきれない衝突が起きるはずが、なぜか大蟻の体は急激に速度が落ちていく。
――<反転>。
そこに絶妙なタイミングで、温かい力がトールの全身を包み込んだ。
ラムメルラの癒やしの魔技で体力が戻ったトールは、歪にねじれる大蟻の顔面を力一杯蹴りつけた。
地の戒めから解き放たれたトールの体は軽々と宙を跳び すでに落下状態に入っていたモンスターと空中ですれ違う。
わずか一瞬。
しかし数々の強敵を屠ってきたトールの剣撃は、その刹那だけで十分であった。
黒刃が閃き、地中の空洞に硬音が美しく鳴り響く。
繰り出された刃は次々と腹部の結晶の結び目を貫き、結合点を失った体は宙で分解する。
下半身を失ったモンスターは、地面へ激突し動かなくなった。
蟻を斬り落とした反動で、トールは側面の壁へたどり着く。
一瞬で行き先を決めた体は、放たれた矢のように壁を蹴って一直線に獲物へ向かった。
しかし蟻どもも、そう甘くはない。
待ちかねていたように跳ね起きると、鋭い顎を左右に開く。
逃れられない体勢のはずが、次の瞬間、トールの姿は掻き消え何事もなかったように壁に張り付いた姿勢に戻る。
空振った両顎の閉じる音だけが、空々しく響き渡った。
鮮やかに<遡行>を使いこなしながら、トールは大瘴穴を守る迷宮主どもと互角以上に渡り合っていた。
通常なら誰もが目を疑う光景のはずだが、もっともな理由はきちんと存在していた。
理由の一番を占める点は、呪詛の無効化だ。
本来ならば最深層にたどり着く前に、侵入者はとてつもなく疲弊していたはずだ。
しかしながら、その罠は逆に利用され、結果としてトールたちを大きく手助けする形に変えられてしまった。
二番目は、その呪詛の仕組みに大きく力を注いだため、モンスターの生成が不十分であった点だ。
一見、硬く厄介に思える宝玉蟻どもだが、回復能力が乏しいという最大の欠点がある。
さらに動きも単調で、攻撃の種類も限られている。
慣れてしまえば、トールのレベルだとそれなりに対処できてしまう相手に過ぎない。
それが三番目の、手の内を晒しすぎたという点に繋がる。
ただでさえ少ない攻撃手段を、幾度も敗退させたとはいえ、じっくりと観察できる機会を与えてしまったのだ。
トールの場合、一回目の探索でストラッチアとの戦いぶりと、撤退の際に時間稼ぎで剣を交えたことも大きい。
つまるところ、この状況は最初の探索の時点で、ある程度は予想されていた結果であったのだ。
数合、刃を交えたあと、さらにもう一匹が地を這った。
残り一匹となった迷宮の主は、六本の脚を踏ん張り高々と身構えた。
その体に、地に転がっていた仲間の死骸の破片が次々と集まりだす。
またたく間に無数の破片で覆われた黒い体は、倍以上に膨れ上がった。
隠していた最後の形態をみせる蟻に対し、トールはだらりと剣を下げたまま動こうとしない。
全身から黒い棘を隙間なく生やした巨大な蟻は、その禍々しい姿をゆっくりと持ち上げた。
そこへスルスルと近寄るトール。
踏み潰そうと身じろぎしかけた迷宮の主だが、その頭部を固定されあらゆる動きが封じられる。
伸ばした手が黒く輝く顎に触れ――<遡行>。
次の瞬間、蟻の体から装甲が全て剥ぎ取られた。
そこへトールは、一歩踏み込む。
黒い刃が、音もなく額の一点へ突き出される。
殻を貫いた剣尖を中心に、蜘蛛の巣のように亀裂が走った。
ヒビはそのまま全身へと行き渡り、モンスターはピタリともがくのを止める。
そしてトールが静かに剣を抜きさると、黒金剛蟻の巨体は数百、数千の破片と化して砕け散った。
動くものが何もないと確認したトールは、深々と息を吐いた。
そこへ駆け寄ってきたソラが、首筋に飛びつく。
「トールちゃん、すごいすごい! 勝っちゃったよ!」
次いで走ってきたムーが、トールの背中に飛びついてよじ登り、首にまたがって頭をパシパシ叩く。
「トーちゃん、よくがんばった!」
二人して、まだ少し息の荒いトールの顔をベタベタと触ってくる。
少しだけ我慢したトールだが、堪えきれずに振り払った。
「ト、トールちゃぁぁん!」
「トーちゃぁぁん!」
「いいから、ちょっと離れろ」
「何してやがるですか、もう。ところで、ボクもやっていいですか?」
「……私もいいですか?」
クガセとラムメルラもいそいそと近寄ってきたが、トールのしかめっ面に諦めてうなだれた。
上級武技の反動が収まったのか、ニネッサに肩を貸りたストラッチアも近づいてきて無言で手を差し出してくる。
頷いたトールは、借りていた腐屍龍の剣の柄をその手においた。
「素晴らしき戦いの勲し、しかと見届けさせてもらったぞ、兄弟子よ」
「お疲れ様でした、トールさん」
「ああ、これで終わりだといいんだが……」
最後尾を歩いてきたユーリルへ目を合わせたトールは、肩越しに振り返りながら呟いた。
そこにあったのは、闇が凝縮したかのように黒々とした姿を晒す巨大な根であった。
やはり事前に聞いていた通り、大瘴穴は迷宮の真の主を倒しただけでは消えてなくならないようだ。
大きく頭を振ったストラッチアは、ニネッサに助けてもらいながら黒い柱へ向けて歩き出す。
その手には、いつの間にかガラス瓶の中で燃え盛る炎が握られていた。
数歩の距離まで近づいた赤毛の剣士は、無造作に炎を黒い闇の塊へと投げつけた。
ガラス瓶が派手に割れ、どのような仕掛けか、炎が一気に燃え上がり壁一面を呑み尽くしていく。
何が起こるか分からないまま、トールはソラやムー、ユーリルの前に出る。
赤々と燃え盛る炎の前に、しばし魅入られたような沈黙が生まれた。
その瞬間、動き出したのはニネッサだった。
婚約者を突き飛ばし、走り出そうとする。
だがすでにその足は、腐屍龍の剣で甲を貫かれ地面に縫い付けられていた。
勢いを押し止められ、地面に転がるニネッサ。
予想外の出来事に全員が動きを止める中、ストラッチアはくるりと振り向くと両手を楽しげに広げた。
「我の名の意味を、少しばかり訂正させてもらおう。ストラッチアとは氷を溶かす者ではない。我の名の由来は、凍えを知らぬ者、民のための灯明だ」
そう言い放ちながら赤毛の剣士は、背後の炎へとその身を投じた。