作品タイトル不明
準備万端
「訂正したのはここくらいだよ」
厨房にやってきたハラルドに、カレンはノートを返した。
ハラルドから預かったノートである。
中身は、カレンが話した内容をハラルドが書き留めたもの。
ハラルドは恭しい仕草でノートを受け取ると、恐縮した様子で頭を下げた。
「申し訳ありません。間違いがありましたでしょうか?」
「雨について。雨が女神様の恵みっていうのも、決して間違いではないと思うんだけど……」
カレンはそうは言いつつも、ノートに訂正を入れていた。
「基本、子どもたちには概念ではなく理科的な知識を教えてあげてほしいからね。地上の水が蒸発して水蒸気になった後、空高くまで上って、冷えて固まった水滴が集まって空中に浮いているのが雲で、その雲の中の水滴が大きく重くなって落ちてきたのが雨だよ。そう教えてあげてね」
「かしこまりました、カレン様」
カレンは今、ハラルドと子どもたちの教科書作りをしていた。
カレンの今の仕事はといえば、通常業務としてポーション作りと研究がある。
それに加えて子どもたちのことがある。
子どもたちの世話はハラルドとリリーに任せることができたので、カレンの担当は子どもたち向けの教材作りくらいだが、これが結構な時間のかかる大仕事だった。
カレンの持つ知識を子どもたちに『理解』させるためにも、カレンはありとあらゆる知識を書き出さなくてはならない。
とはいえ一人では書き切れない。
なので、類い稀な記憶力を持つハラルドに書きだしてもらった文章を、カレンが添削する形を取っていた。
ハラルドはカレンもびっくりするぐらい正確にカレンの言葉を書き記してくれている。
ただ、カレンが説明のために噛み砕きすぎてわかりにくくなっていたり、時折ハラルドの知識が紛れ込んでいたりもした。
「水蒸気とは以前カレン様がおっしゃっていた、水の一番小さな状態のことでしょうか?」
「えっ、わたしそんなこと言ってた? 水の一番小さな状態は水蒸気よりももっと小さいよ。ごめん、わたし、間違ったことを言っちゃったかも」
カレンが頭を抱えるのを見て、ハラルドは慌てて言った。
「いえっ! 僕がそう予想しただけですので、お気になさらず」
「あっ、予想? それならよかったぁ」
カレンはほっと胸を撫で下ろすと、『H2O』とノートの隅に書いてみる。
水の化学式だ。意外と覚えているものである。
とはいえ、大半の化学式は忘れてしまった。
そもそも、カレンには中高くらいまでの知識しかない。
「子どもたちにはまだ難しいと思うからハラルドにだけ説明しておくけど、水の一番小さい状態はね、一つの物質に、別の二つの同じ物質がくっついた形になってるんだよ」
「それが一番水が小さな状態であり、その一つの物質と別の二つの物質を引き離すと、それはもはや水ではなくなるのですね?」
「さっすがハラルド、呑み込みが早い」
雨が降る仕組みが小学生の知識なら、水の化学式は中学生の知識だろう。
ハラルドにはちょうどいい塩梅である。
「リリーさんにも子どもたちに教えるのを協力していただきたいので、今お話しいただいたことをリリーさんにもわかりやすいように書き記していただくことは可能でしょうか? せっかくお褒めいただきましたが、僕もまだ正確に理解できているとは言いがたいので」
「そうかなー? でも、ハラルドがそう言うのなら絵も付けとくね」
上昇気流とか寒気とか暖気とか、山とか雲の絵を描いてあげる。
図解されていると、案外すんなり理解できたりするものだ。
「トール様たちのためのポーションの開発にお忙しいところ、申し訳ありません」
「ちょうど気分転換したかったところだったから、気にしないで」
カレンは本音半分、苦笑半分で言って笑った。
王都では錬金工房を持つカレンだが、エーレルト領の伯爵邸には錬金工房がない。
だから、エーレルト伯爵家はカレンのために厨房を一つ空けて、そこを仮の錬金工房として貸してくれていた。
それだけでも十分にありがたくはあるのだが、やはり錬金工房よりも効率が悪かった。
錬金術に必要なものはあらかた王都から運び込んでいるとはいえ、そもそもこの空間が錬金術に適していないのだ。
オリハルコンの錬金釜と世界樹の柄杓を使っているのに、ポーションを作ると魔力がわずかに錬金釜の中から漏れるのを感じる。
わずかとはいえ、錬金術に適していない環境から来る魔力抵抗も増えている気がする。
ヘルフリートとアリーセが贈ってくれた王都の錬金工房は、家そのものが錬金術師にとって最適な環境になっていたのだ。
当時Eランク錬金術師だったカレンにはつくづく過分な環境だった。
だが、今となってはあれくらいの環境があたりまえに欲しい。
王都の錬金工房で売るだけなら、多少品質が落ちてもそれ相応の値段で売ればいい。
だけど、カレンはトールたちのために最高の魔法薬を用意したかった。
「一度、王都の錬金工房に戻るしかないかな……」
カレンがぽつりと呟いた時、扉がノックされる音がした。
「入っても構わないかな?」
「ユリウス? どうぞ」
カレンが招き入れると、厨房にやってきたユリウスは控えめに微笑んだ。
「仕事の邪魔をしてしまってすまない、カレン。少し時間をもらえるだろうか?」
どんなにユリウスに夢中でも、カレンは時折仕事を優先したがることがある。
それをよく知るユリウスの謙虚な打診に、カレンは笑顔で椅子から立った。
「もちろん! ……何かあったの?」
カレンが不安を抱く前に、ユリウスはすぐに否定した。
「何か問題があったわけではないから安心してほしい。実は少し、見に来てほしいものがあるのだよ」
「見に来てほしい?」
ユリウスはなんてことのないことのように言う。
カレンは首を傾げつつ錬金道具を片付けていった。
「大した時間はかからないから、気楽についてきてほしい」
「はーい」
軽い言葉に、面白い形の雲でも浮いていたのかな? とカレンは気楽にうなずくと、カレンはユリウスと共に厨房を出た。
「婚約の贈り物としてカレンのために錬金工房を 建てた(・・・) のだよ」
そう言ってはにかむユリウスの背後には、あまりに立派な建物が建っていた。
「別邸と同じくらいの大きさじゃん!?」
「君が不自由しないように色々と設備を設けようと思っていたら、こうなってしまってね」
エーレルト伯爵邸の西館の裏側――そこに、何らかの建物が建設中なのはカレンも知ってはいた。
だが、これまでも庭園を季節に合わせて模様替えしたり東屋を建て替えたりなど、様々な工事をしているので気づかなかった。
それがまさか、カレンのための錬金工房だったなんて――。
「こだわっているうちに工期が伸びてしまったのだ。すぐに渡せなくてすまない」
とっても軽い気持ちでホイホイついてきたカレンが事態を飲み込めずにポカンとしているのを見下ろして、ユリウスは笑みを深めた。
「私と婚約してくれてありがとう、カレン」
中々言葉が出てこないカレンはユリウスを見上げ、建物を見やって、ユリウスを見上げた。
「あの建物丸ごと、ヒンメル領に持っていけるかな!?」
カレンの言葉にユリウスは吹き出して笑った。
「あはは! さすがに建物は難しいだろうね」
楽しそうに笑うユリウスにカレンは抱きついた。
「ありがとう……ユリウス」
ユリウスはカレンの仕事を理解し、応援して、これでもかというくらい支えてくれている。
「わたしも、ユリウスのやりたいことを応援するから。支えるからね」
「私の望みはカレンと共にいることだよ」
ユリウスは笑うのをやめて、カレンを優しくも力強く抱きしめ返す。
カレンがその優しい腕の中からユリウスを見上げると、怖いほど真剣な眼差しをしたユリウスがカレンを見下ろしている。
そういうことじゃなくて――という言葉をカレンは呑み込んだ。
そういう問題なのだ。少なくとも、ユリウスにとっては。
「じゃ、ユリウスと一緒にいられるように、頑張るね」
カレンは抱きつき方を変えた。
子どものような無邪気な抱きつき方をやめて、ユリウスを何かから守れるように抱きしめる。
すると、カレンを抱きしめるユリウスの力が強まった気がした。