作品タイトル不明
第39話 リゼットの海
産後二週間。名前がまだ決まっていなかった。
カイルは「お前が決めろ」と言った。私は「一緒に決めたい」と言った。カイルは「お前が決めたのを俺が『いい名前だ』と言う。それが一緒に決めるってことだ」と言った。出産の日にも同じことを言っていた。この人の辞書には「一緒に決める」の項目に「相手に任せる」と書いてある。
(それは一緒に決めるとは言わないのでは)
でもこの人のやり方だと分かってしまっているから、もう反論しない。言葉で返さずに行動で答える人。名前の決定権を全部渡すことがこの人の「一緒」。
仕立て台の前で考えた。揺りかごの中で赤ん坊が眠っている。カイルが作った揺りかご。樫の木の香りがする。小さな拳を握って時々口をもぐもぐさせて。満足そうな顔。この子はよく眠る。波の音が聞こえる場所だからかもしれない。生まれた時から波の音を聞いている子だ。
名前の候補はいくつかあった。祖母の名、マーガレット。でも祖母の名は祖母のものだ。重すぎる。この子に祖母の人生を背負わせたくない。港町の花の名、ベリッサ。きれいだけれどこの子の顔を見ると違う気がする。名前と顔が合わない。南方の言葉で海を意味する名。カイルの母の故郷の言葉。響きは好きだが長すぎて呼びにくい。毎日呼ぶ名前は短い方がいい。
どれもしっくりこなかった。決められない。仕立てなら迷わないのに。布を見れば何を縫うべきか分かる。布地が教えてくれる。でもこの子の名前は布地ではなく顔が教えてくれるはずなのに、顔を見ても名前が浮かばない。
メイベルが「焦らなくていいですよ。赤ちゃんは名前がなくても泣きますから」と言った。正論だ。でも名前がないと呼べない。呼べないと話しかけられない。「ねえ」「あなた」では物足りない。
◇
ヘレーナさんが仕立て台の前に来た。午後の光が窓から差し込んでいる。百合の鋏を手に小さなポーチの刺繍を進めていた。赤ん坊の持ち物用のポーチだ。白い百合の刺繍入り。
「名前は決まったの?」
「まだです。迷っていて」
「お祖母様の名を継がせることは?」
「考えた。でもおばあちゃんの名前はおばあちゃんのものだと思って。この子にはこの子の名前を」
「あなたの母親の名前をもらったらどうかしら」
ヘレーナさんが針を止めた。揺りかごの中の赤ん坊を見つめていた。眠っている小さな顔をじっと。
「お母さんの……リゼット?」
「ええ。『この子に海を見せてね』と言い残した人の名前を。あなたを『ロゼ』と最初に呼んだ人の」
窓の外に海が広がっていた。夕日が海面を橙色に染めている。水平線が真っ直ぐに伸びている。この家の窓からはいつでも海が見える。朝も昼も夕方も。リゼットが歩けなかった海辺に窓がある。
リゼットが見たかった海。身体が弱くて港町から出られなかった母。窓から見える海が全てだった母。でも娘のロゼッタは公爵家を出て海辺の仕立て屋で暮らしている。そしてその娘が今、毎朝この海を見て目を覚ます。
三世代の女が海に辿り着いた。祖母は海辺に逃げた。母は海を見ることしかできなかった。私は海を選んだ。この子は海の中で生まれた。波の音を最初の子守唄として聞いた。
「リゼ」
口から出た。自然に。考える前に。
「リゼットの、リゼ。短くして、リゼ」
揺りかごを覗き込んだ。赤ん坊が目を開けた。まだ焦点の合わない目。でも窓の方を見ている気がした。光の方を。海の方を。
「リゼ。あなたの名前よ」
赤ん坊が小さな声を出した。泣き声ではない。何かに応えるような柔らかい声。名前を呼ばれたことが分かったのだろうか。分からなくてもいい。これから何千回も呼ぶ。呼ぶたびにこの子は自分の名前を覚えていく。
仕立て屋の戸が開いた。カイルが帰ってきた。潮の匂いと船の木の匂い。
「カイル。名前、決めた」
「ああ」
「リゼ。お母さんの名前から」
カイルが一瞬黙った。揺りかごを見て赤ん坊の顔を見て私の顔を見た。それから頷いた。深く一度だけ。
「いい名前だ」
(ほら、言った通りだ。この人は「いい名前だ」と言う係なんだ)
でもカイルの目が笑っていた。口元は動かないのに目だけが柔らかくなる。この表情を見られるのは多分私だけだ。
メイベルが階下から上がってきた。「名前が決まったんですか?」。「リゼ。母の名前から」。メイベルの目が赤くなった。「リゼちゃん。リゼットさんもきっとお喜びでしょうね」。
ヘレーナさんが窓の方を見ていた。夕日が白髪を照らしている。
「海を見たかった女の子の名前。……いい名前ね。いい名前」
二度言った。ヘレーナさんが同じ言葉を繰り返すのを初めて聞いた。
揺りかごの中でリゼが眠り始めた。小さな拳を握ったまま。窓の外の海が夕日を受けて輝いていた。全部同じ海だ。リゼットが見たかった海。ヘレーナさんが初めて見た海。カイルの母が故郷に置いてきた海。
この子はその海を毎日見て育つ。
◇
夜。リゼが泣いた。夜中の授乳。暗がりの中でヘレーナさんが縫った産着を着せ替える。片手で紐が結べる。あの紐の長さは正確だった。暗がりでも手探りで結べる。ヘレーナさんの二十年分の観察が、この一本の紐に詰まっている。
授乳を終えてリゼを揺りかごに戻した。カイルが作った揺りかご。揺らすと微かに木の香りがする。樫の木。祖母の仕立て台と同じ木。
カイルが隣で寝返りを打った。起きてはいない。でも私が動くたびに半分だけ目を覚ましているようだった。完全に眠れないのだろう。船長は船の異変に敏感だ。夜中に揺りかごが軋めば反応する身体になっている。
リゼの顔を覗き込んだ。月明かりの中で小さな顔が見える。目を閉じて口を小さく動かしている。夢を見ているのだろうか。何の夢を見るのだろう。まだ海しか知らない。波の音と潮風の匂いと、母の体温しか知らない。
(リゼット。あなたの名前をもらったよ。この子はリゼ。あなたが見たかった海を毎日見て育つ子。あなたの孫。あなたの血が、この小さな拳の中に流れている)
窓の外に月が出ていた。海が銀色に光っている。リゼットも同じ月を見ていたのだろうか。窓辺で刺繍をしながら。白い布に白い糸で花を繍いながら。
リゼの小さな手に指を触れた。握り返された。反射だろう。でもその力が、不思議と強かった。リゼットの指先は誰よりも強かったと祖母は書いていた。この子もそうだろうか。
波の音が子守唄のように響いていた。