軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第38話 産声

夜明け前に始まった。

お腹の奥が絞られるような痛み。最初は寝返りの拍子かと思った。でも波が来た。規則正しい強い波。海のうねりに似ていた。腰の奥から背中に回り込んで腹全体を締めつける。公爵家で経験した痛みとは比べものにならない。あの屋敷の痛みは心の痛みだった。これは身体の痛みだ。身体の痛みのほうが正直だ。理由がはっきりしている。

「メイベル」

声を出した。自分でも驚くほど落ち着いた声だった。十年間公爵家で何があっても声を乱さなかった習慣がこんな時に役に立つとは思わなかった。

メイベルが飛んできた。寝間着のままだがエプロンはもう着けている。この人は危機に際して真っ先にエプロンを着ける。二十年の使用人頭の性だ。ヘレーナさんも離れから杖をついて来た。病み上がりの身体で暗い廊下を歩いてきた。足元がおぼつかない。でも来た。マルタに使いが走った。

カイルは一階にいた。仕立て台の前の椅子に座って拳を膝の上に置いて微動だにしなかった。

(上がってこないんだ)

痛みの合間にそう思った。怖いのだ。嵐の海を渡れる船長が出産の部屋には入れない。あの人はいつもそうだ。大事な場面では外で待つ。門の前で夜会が終わるのを待った夜のように。港で嵐の中の帰港を待つ漁師の妻のように。待つことだけは得意な人だ。

マルタが来た。手を洗って私の手を握って「大丈夫だよロゼッタちゃん。あたしはもう二十人取り上げてるからね」と笑った。二十の命を最初に受け止めた手。荒れていて指先にたこがある。でもこの手より頼りになるものは今この町にはない。

痛みが強くなった。波の間隔が短くなる。海が荒れていく。身体の中で嵐が起きている。今まで経験したどんな痛みとも違う。でも不思議と泣いてはいなかった。泣くより先に身体が動く。

ヘレーナさんが枕元にいた。冷たい布を額に当ててくれている。あの骨の浮いた手。帳簿を持ち使用人を差配し屋敷を回していた手が、今は私の額の汗を拭いている。

「力を抜きなさい。呼吸を整えて」

命令口調。でも今はその冷たさが頼もしかった。この人の指示には従える。十年間そうしてきたから。身体が覚えている。ヘレーナさんが言えば身体が動く。従属ではない。信頼だ。あの十年間で築かれた、歪だけれど確かな信頼。

「ヘレーナさん、痛い」

「知っているわ。でもすぐ終わる」

嘘かもしれない。でもこの人が「すぐ終わる」と言うと本当にそう思える。

メイベルが手を握ってくれていた。「ロゼッタさん、もう少しですよ」。この人が言う「もう少し」は嘘がない。メイベルは嘘をつかない。事実を申し上げるだけの人だ。

窓の外が白んでいた。夜明けだ。カモメが最初の一声を上げた。海が薄い紫から橙色に変わり始めている。

(朝だ。この子は。朝の子だ。海の──)

最後の波が来た。叫んだ。公爵家では一度も出さなかった声。飾りのない剥き出しの声。体の奥底から絞り出した生の声。

泣き声。

小さくて鋭くて海鳥の声に似た泣き声。

「女の子だよ」

マルタの声。温かい何かが胸の上に置かれた。小さい。温かい。動いている。小さな拳を握って全身で怒っているみたいに泣いている。この世界に抗議しているような力いっぱいの泣き声。

見下ろした。小さな顔。赤い。皺だらけ。目を閉じて口を大きく開けて全身で泣いている。

(……ああ。この子が私の中にいたのだ。十年間の空白の後に)

鼻の奥がつんとして、まぶたの裏が灼けて、気づいたら頬が濡れていた。名前のつけられない感情だった。

階段で足音がした。ゆっくりとした重い足音。

カイルだった。二階に上がってきた。扉の前で立ち止まった。中を覗き込む目が見たことのない顔をしていた。嵐を乗り越えた後の顔でもない。帰港した時の安堵でもない。もっと根源的な何か。人間が人間に初めて出会った時の顔。

泣いていた。カイル。声もなく。この寡黙な男が嵐の海で歯を食いしばって耐えた男が、扉口で立ち尽くして涙を流していた。

「入って」

カイルが近づいた。赤ん坊を見た。大きな手が伸びて、止まった。触れていいのか分からないのだ。ロープは完璧に結べるのに赤ん坊の頬には指先を近づけられない。

「触って。大丈夫だから」

カイルの指先が赤ん坊の頬に触れた。ほんのわずかに。

「……小せえな」

「当たり前でしょう、生まれたばかりなんだから」

ヘレーナさんが静かに立ち上がった。

「抱かせてもらえるかしら」

赤ん坊を渡した。ヘレーナさんの腕の中に白い産着に包まれた命が収まった。ヘレーナさんが自分で縫った百合の刺繍入りの産着。あの骨の浮いた腕で小さな命を抱いている。

ヘレーナさんの目から涙が落ちた。一滴だけ。赤ん坊の額に落ちた。

「……温かいのね」

一言だけ。でもその一言に四十年分が入っていた。自分の息子を抱いた時にはこの温かさに気づかなかったのかもしれない。公爵家の義務として産み義務として育てた。今初めて純粋に「温かい」と感じている。

窓の外で朝日が海を照らしていた。港から漁師たちの声が聞こえる。「カイル船長の子が生まれたぞ!」。町中が知っている。この町は秘密が持てない。潮風が全部運んでいく。

それでいい。この子は港町の子だ。海の子だ。

夕方。赤ん坊が眠った後、仕立て屋の一階に降りた。メイベルが紅茶を淹れてくれた。マルタは帰っていった。「何かあったらすぐ呼びな」と笑って。

カイルが仕立て台の前に座っていた。あの椅子で、ずっと待っていたのだ。朝から。何時間も。膝の上に拳を置いて。動かずに。

「カイル」

「ん」

「ありがとう」

「何がだ。俺は何もしてない。待ってただけだ」

「それが一番難しいでしょう」

カイルが視線を逸らした。窓の外の海を見ている。でも目が泳いでいる。この人は照れると海を見るふりをする。

「名前は決まったか」

「まだ。……一緒に考えよう」

「お前が決めたのを俺が『いい名前だ』と言う。それが一緒に決めるってことだ」

(それは一緒に決めるとは言わないのでは)

でも笑った。この人のやり方だ。名前の決定権を渡すことがこの人の「一緒」。薪を置き窓を直し台を作るのがこの人の「愛してる」。全部知っている。全部分かっている。

揺りかごの中で赤ん坊が小さな声を上げた。泣き声ではない。夢を見ているのだろうか。小さな拳を握って口をもぐもぐさせている。

カイルがそっと揺りかごを覗いた。あの大きな手が揺りかごの縁に触れた。自分が作った揺りかご。樫の木。何ヶ月もかけて磨いた木肌。その中にいま命が入っている。

「……小せえな」

二度目だ。同じ言葉しか出てこない。でもいい。この人の「小せえ」にはたぶん全部入っている。驚きも喜びも戸惑いも、全部。

窓の外に最後の夕日が残っていた。海が赤から紫に変わっていく。初めての夜が来る。この子と過ごす最初の夜。