軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

132 左胸でずきずき痛むのは

アルノルトの表情には、強い感情の片鱗はない。

ただ、淡々とした冷たい目が、ラウルの方へと向けられているのだ。

「離れろ」

「……っ」

発せられた言葉は短いのに、鼓膜がびりびりと痺れるような心地がする。

リーシェですら、思わず息を詰めてしまったのだ。それを直接向けられたラウルの方は、もっと強い威圧を感じているだろう。

「これは、申し訳ございません。アルノルト殿下」

一瞬だけ口の端を引き攣らせたあとに、ラウルは穏やかな笑みを浮かべる。

「言い訳の、しようもない場面を、見られてしまいましたね」

「……カーティス殿下!」

却って誤解を生みそうな発言に、リーシェは顔を顰めた。

「失礼いたしました。あなたの婚約者殿が、目も眩むほどにお美しくて」

(本当に、何を考えているの……!?)

いまの自分が、シグウェル国第一王子のカーティスを演じている自覚があるのだろうか。

いつだって対象を完璧に演じてきたラウルが、カーティスとしては有り得ない言動を取っている。そのことに混乱しつつも、ずっとラウルの体を押しやっていた腕の力を強くした。

「聞こえなかったのか?」

悠然と歩くアルノルトの靴音が、こつこつと廊下に響き渡る。

アルノルトは、ラウルの挑発をまったく相手にする気がないという表情でこちらに歩いてくる。一見すれば、いつもとなんら変わらない振る舞いだ。

けれども双眸の冷たさと、声に込められた殺気の硬質さが、この場の空気を支配していた。

「妻から離れろと、そう命じた」

「――――……」

ラウルが殺されてしまうかもしれない。

反射的にそう感じるほどの重圧に、焦燥を抱く。ラウルは肩を竦めたあとで、リーシェからそっと手を離した。

アルノルトが、解放されたリーシェの腕を掴んで引き寄せる。

とてもやさしい触れ方だが、有無を言わさない強さもあった。アルノルトはリーシェの顔を覗き込み、ラウルが押さえていた肩口の辺りをくるむようにして、静かな声で尋ねてくる。

「怪我は」

「あ、ありません」

「他には何処を触られた?」

「口を手のひらで塞がれたくらいで、あとは何も……」

形の良い眉が、僅かに歪められる。

しかしアルノルトは、ここで何かを耐えたようだ。

「……それ以外に、不快な思いはしていないか」

リーシェはすぐさま頷いた。

それを見て、アルノルトはゆっくりと目を伏せる。たったそれだけの仕草なのに、やはりぴりぴりとした威圧を感じた。

それを向けられているのは、リーシェではなくて、アルノルトの後ろに立っているラウルに対してだ。しかしアルノルトは、ラウルの方を見もしない。

「部屋まで送り届ける。行くぞ」

「アルノルト殿下……」

リーシェの手を引こうとした彼の背中に、穏やかな声が投げられる。

それは、カーティスのふりをしたラウルの声だ。

「本当に、心から婚約者殿を大切にしていらっしゃるのですね」

その言葉には、アルノルトをわざと刺激するような響きが含まれていた。

「私があなたの立場であれば。……略奪者である私に見せ付けるべく、この場でリーシェ殿に口付けているでしょうに」

「カーティス殿下。どうか、ご冗談はそのくらいで――」

「あるいは、この場で私を斬っているかもしれませんね。アルノルト殿下が冷酷な皇太子殿下だというお噂は、根も葉もないもののようだ」

ラウルは明らかに挑発している。そんな振る舞いをする理由が分からなくて、リーシェは思い切り顔を顰めた。

しかし、アルノルトの表情は落ち着いている。

「……なるほどな」

それどころか、どこか余裕のある笑みを浮かべ、ラウルを見下すように目を伏せた。

「どうやら、『お前』がこの国に来ているのは、主人の意思に反してのことらしい」

(――!)

驚きを露わにしてしまったのは、ラウルでなくリーシェの方だ。

ラウルはといえば、不思議そうな表情を貼り付けている。心の内は読めないものの、想定外の事態ではあったようだ。

「どういう、意味でしょう?」

「お前はカーティス・サミュエル・オファロンを演じているだけの、第三者だ。まさか、気が付かないとでも思っていたのか?」

ラウルの変装が、見破られている。

そんな場面は、狩人人生を含めても初めて見た。リーシェは言葉を失ったまま、隣に立つアルノルトのことを見上げた。

戸惑った顔のラウルが、困ったように口を開く。

「アルノルト殿。一体何を仰っているのか、私には……」

「他人を真似ている人間の動きは、少し見ていればすぐに分かる。無意識の手振りと、意識的な振る舞いとでは、その体の使い方がまったく異なるからな」

とんでもないことを平然と言い切って、アルノルトはラウルを眺めた。

「その声色もそうだ。声帯の震わせ方を意図的に変えている所為で、ごく僅かに発声の歪む音がある。――まったくもって、耳障りなことこの上ないな」

「ふっ、はは!」

本物のラウルの笑い声がするも、それはどこか乾いた響きのものだ。

「……あんた、化け物かよ」

その表情には、微かな畏怖が混じっている。

ラウルはひょいと肩を竦め、楽しそうに言った。

「分かっていたのに、なんで俺を泳がせた? ……ああ。シグウェルの真意を探るためか」

「わざわざ答えてやる理由もないな。行くぞ、リーシェ」

「なあ。そんなに大切な相手なら、政略結婚なんかせず、自由にしてやった方がいいんじゃないの?」

背中へと声が突き刺さるも、リーシェの自由を勝手に決められたくはない。

「その方が、婚約者殿もあんたに感謝すると思うけど」

「っ、ラウル! 私は……」

振り返り、反論しようとした直前に、アルノルトが先にこう告げた。

「――この婚姻によって、どれほど俺が憎まれようとも」

「!」

ずきりと、左胸が強く痛む。

リーシェの手首を掴んだまま、アルノルトが顔だけ振り返ってラウルを睨んだ。

「逃がすつもりはない。……これは、必ず俺の妻にする」

先ほどまでとは明確に違う、鋭いまなざしがラウルを貫く。

(……どうして)

ずきずきする心臓のすぐ傍から、悲しい気持ちが滲み出すのを感じる。リーシェはそれを押さえたくて、くちびるを閉ざした。

ラウルはその笑みを歪めつつも、再度アルノルトを挑発する。

「ひっどいなあ。不幸にするって自覚があるくせ、その子を強引に奥さんにするのか」

「その通りだ。……リーシェ」

アルノルトは今度こそ、リーシェの手を引いたまま歩き始める。

言葉を紡ぎたいけれど、なんにも形になる気がしない。俯いたリーシェは、アルノルトにされるがまま、ゆっくりと歩を進めた。

(やっぱり、左胸がぎゅうっとなる……)

疼くようなその痛みの所為で、呼吸をするのが苦しいほどだった。

アルノルトも口を閉ざしたまま、何も言わない。彼がこちらを振り返ったのは、四階への階段を登り終えて、ふたりの部屋の前に立ったときだ。

「すまなかった」

リーシェの手首を戒めていた手が、ゆっくりと離れる。

そうかと思いきや、まるで指輪を嵌めてくれるときのように、リーシェの手を取ってそれを眺めた。

「少々、強く掴み過ぎたな」

「……」

「痛みは?」

ふるふると、黙って首を横に振る。

アルノルトは謝るけれど、その掴み方は決して乱暴ではなかった。

確かに強い意志で手を引かれたものの、リーシェの骨を軋ませてもいなければ、赤い跡になっているわけでもない。

リーシェが痛みを感じるのは、掴まれた手首などではないのだ。

「どうして、あんなことを仰るのですか?」

かなしい気持ちが、尋ねる声音にも滲んでしまった。

「……安心しろ」

アルノルトは穏やかな声でそう言って、リーシェの頬に手を伸ばす。

「逃がさないからといって、お前のすべてを縛る気はない」

「……」

深く俯いていた所為で、リーシェの横髪が頬に掛かっていた。

アルノルトはそれを梳くように、とてもやさしい仕草で触れてくる。

「お前はこれからも、なんでも望むことを言えばいい。――叶えてやれる限り、あらゆるすべてを叶えると誓おう」

だが、リーシェが『あんなこと』と言ったのは、アルノルトが口にした部分ではない。

「この婚姻によって、私に憎まれるおつもりだと仰いました」

「……ああ、そうだな」

はっきりとした肯定をしながらも、珊瑚色の髪を耳に掛けてくれる。

「俺に嫁ぐのが、恐ろしくなったか?」

「……っ」

まるで、幼子をあやすかのようだ。

まなざしも声も、触れ方からも、リーシェのことを労わるような温度を感じる。

リーシェは、それこそ子供みたいにいやいやをしたあとで、アルノルトの手の甲に自分の手を重ねた。顔を上げる気にはなれなくて、上目遣いにアルノルトを見る。

「……殿下のばか……」

「――……」

アルノルトが、リーシェの言葉に目を瞠った。